きらきらSAMMYのページ2

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このページは大量に「果たしてそうかな」に投稿してくださっているSAMMYさんのページです。ぽんしいの趣味で作っているので怒らないでねみんな。ふふふきらきらをアルファベットで打って「ちゃん」をつけると、、ほらあのページにそっくり。だから許してちょーってなんなのっ

国家篇  今、一番気になる時事問題はなんですか?

国旗国歌法案
日の丸が歴史に
「君が代」
「君が代」についてもう少し


 一番気になっているのは、国旗国歌法案ですね。
いわゆる、「日の丸・君が代」を法律上でも国旗・国歌にしようという。
 まあ、事実上は日の丸が国旗であり、君が代が国歌であるわけで、
それに疑いを差し挟む余地はこれっぽっちもないと思うんですが、
左翼、あるいは左翼がかった人達は「日の丸・君が代」が
「国旗・国歌」であることが気に入らないらしい。

 とはいっても、そういった人達もオリンピックは見るでしょう。
最近では、長野五輪での日本選手の活躍は素晴らしかったですね。
日本選手が優勝して表彰台に上がり、メインポールに日の丸が
掲げられ、君が代が吹奏される。これを現場もしくはTVで
見ている日本人ならほとんどの人が、感激したり、喜ばしく思ったり
することでしょう。

オリンピックで、日の丸が掲げられ、君が代が流れるということは、
世界の国々が、「日の丸は日本の国旗であり、君が代は日本の国歌である」
と認識しているということです。
オリンピックだけでなく、他の国際大会でもそうです。
いや、スポーツの世界だけではありません。国連にも日の丸は
掲げられています。

こういう例を挙げていくときりがありませんが、これが私が書いた
「事実上」ということです。
国旗・国歌を法律で定めていない国は、他にもあるそうです。
つまり、こういうケースは日本だけではないということです。
しかし、「法律で決められていないから、日の丸は国旗でない、
君が代は国歌でない」という風に言う人もいるらしい。
最近文部省が「学校で日の丸を掲げ、君が代を歌うように」という
お達しをしたそうですが、(この辺ちょっとうろ覚えモード)
それに反対する人達も、こういう風に反駁したのでしょうか?
さて、この続きは、ちょっと一休みしてからにします


さて、日の丸が歴史に登場したのはいつ頃なのでしょうか?
中世の武士の旗印として用いられたということは、確認されています。
平安時代の源氏と平家の戦いでは、「屋島の合戦」で平家は
海の上、源氏は浜辺から矢を射たり、海の中に入って
(といっても、屋島は遠浅だったらしい)戦ったりしていました。
 戦いも後半に差し掛かろうかというときに、平家側から
一艘の船が浜辺のほうに向かって漕いできます。
その船には棒が立ててあり、その棒の先には日の丸の扇が
つけてありました。船は平家と源氏の中ほどで止まると、
女性が一人でてきて、源氏の方に向かって、
「この扇を矢で射てみよ」とばかりに手招きします。
平家の方では、この戦いの先を占うべく、船を出したのでした。
「この扇を射ることができる者が源氏にいれば、今回のいくさは
我が方には不利であり、そうでなければ我に勝機あり」
というところでしょうか。
さて、源氏の方でも平家の意図を察し、弓の達人を
選抜します。それが那須与一(なすのよいち)という男でした。
与一は馬を海に乗り入れ、馬上矢をつがえます。
狙いを定めるときに、「日の丸を射るのは恐れ多いから、
扇の要を射よう」と考えて、その通りに扇の要に矢を命中させます。
これを見ていた兵士たちは、敵味方を問わず、与一の見事な
腕前を称え、平家はふなべりを叩き、源氏を弓を鳴らしたりで、
やんやの大喝采でした。
(以上、「源平盛衰記」より)
つづく
 さて、ここで私が大事なことだと思うのは、那須与一が
日の丸を射るのはおそれおおい」と思ったということです。
この頃には既にそういう気持ちが日本人の中にあったということです。
この後日の丸は、後朱印船の船印として用いられたり、
江戸幕府の船印に用いられたりしました。
このように、日の丸はおそらくは千年以上昔から
日本の旗印として用いられ、日本人に親しまれてきました。
これを法律で国旗として認めようというのは、
「何を今さら」という気がしないでもありませんが、しかし
「日の丸を国旗と認めない」というのは、
歴史と事実を無視した言い分だと思います。


さて、「君が代」についてもお話ししましょう。
君が代は、もとは古今集に収録された短歌です。
わがきみは 千代に八千代に さざれ石の
巌となりて 苔のむすまで
これが古今和歌集に収録された「君が代」の元歌です。
古今集ができたのが905年のことですから、こちらも
千年以上の歴史があることになります。
この歌は、「わがきみは」が「君が代は」となり、
一般的な長寿奉祝の祝い歌として、様々な土地で地元の
歌の一節に取り入れられたりして、長く歌われてきたそうです。
「君が代」にも「日の丸」と同様に、国歌としての
歴史と事実があるのです。


「君が代」についてもう少し
この元歌を詠んだのは、古今集では「詠み人知らず」となっています。
しかし、実際は詠んだ人は誰かわかっています。
「藤原石位左衛門」という人です。実はこの人、もともとは
こういう名前ではありませんでした。
 旅の途中で「さざれ石」を見て、この歌を詠み、
「みごとな歌である」ということで、朝廷から位をさずかりました。
(さざれ石については、 http://www.pref.gifu.jp/kasuga/sazare.htmをご覧下さい)
石の歌を詠んで位を授かったというので、「石位左衛門」と改名しました。


それ以前は、身分が低かったので、古今集には名前が載らず、
「詠み人知らず」となったわけです。
ここからは私の想像ですが:
石位左衛門は、身分は低くとも、「君が代」の歌を詠む以前からも
朝廷につかえていたのでしょう。
そうすると、「わがきみ」というのは、天皇陛下をさすことになります。
その当時は「陛下」とは言わず、帝(みかど)とお呼びしていたのでしょうか。
しかし、身分が低いゆえ、石位左衛門はそれまで帝と直接お話しする
ということはなかったでしょう。いや、顔を見たことさえなかったでしょう。
それでも、道ばたの「さざれ石」を見てさえ、このような歌を詠む。
これほどに帝のことを思うのは、よほど彼の忠義心が厚かったのでしょうか。
あるいは、身分の低い者にもこのように思わせるほど、
帝の人徳が優れていたのでしょうか。
私は両方だと思います。みなさんはいかがですか?


そういえば、「時事放談」の細川隆元氏が「天皇陛下と語る」
という本を出していました。昭和57年に山手書房から出版されています。
古本屋で買って読みましたが、昭和天皇は本当に無私の人格だったんですねぇ。
日本に来ている外国の大使・公使の奥さんたちの中には、
任期が終わって国に帰るときに、「天皇陛下とお別れしたくない」
といって泣く人もいたそうです。
それもこれも、昭和天皇の人徳によるもの。
この本のなかで細川氏は、「天皇陛下の人徳は、二千年かかって
出来たもの」だと言っています。
この辺のところは、ちょっと一言ではいえないのですが、
まあ、暇があったらこの本を読んでみて下さい。

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