公証制度の揺籃期

1、制度の発足

・明治19年8月11日に法律第2号公証人規則が公布された。
・明治19年8月30日司法省令甲第2号 公証人規則施行条例が公布された。
・明治19年11月9日司法省令甲第3号 登記官吏、公証人の職務執行に関する「抗告手続」が公布された。
・明治20年2月16日 東京・大阪・広島・長崎の各控訴院で、第一回の公証人登用試験実施された。

    公証人法第12条 (公証人となる資格)
    日本国民にして成年者たること
    一定の試験に合格したる後6月以上公証人見習いとして実地修習をなしたること。             
    公証人法第13条 (無試験資格者)
    裁判官(簡易裁判所判事を除く)、検察官(副検事を除く)又は、弁護士たるの資格を有するものは、試験及び実施修習を経ずして公証人に任ぜらるることを得る
    公証人法第13条の2(選考任用)
    法務大臣は、当分の間多年法務に携わり前条の者に準ずる学識経験を有するものにして政令をもって定むる審査会の選考を経たる者を試験及実地修習を経ずして公証人に任ずることを得る
    (公証制度は、制度成立以来110年を経過しているが、公証人登用試験が実施されたのは、明治20年の初回のみであり、現在もまだ、法律に定める「当分の間」が継続している。)

・明治22年4月10日以降7月頃までの間に公証人として116名を任命。



2、公証制度発足当初の公証人の業務状態

 全国で公証制度がよく利用されたのは、京都であり,それに次いで利用されたのは、大阪・神戸だという。東京は、利用が少なかったが、例外的に繁盛したのは浅草馬道と銀座裏三十間堀の公証役場だという。浅草公証役場繁盛の理由は、その管内に「吉原遊廓」あり、当時、「芸娼妓となるには所轄警察署長が認可鑑札を下付する制度であったが、その鑑札の申請には抱主に対する前借金並稼業契約の公正証書を作成し、その謄本を申請書につける運営がされていたからだという。

 ところで、石田 圭という法律評論家が、オウム真理教による目黒公証人役場の仮谷氏殺害事件が発生したころ、ある雑誌に「公証人の国家試験」という題で次のようなことを書かれている。