神奈川県貸金業協会特別声明批判

2006年 4月 19日

茆原正道弁護士は、貸金業規制法第43条(みなし弁済)違憲論という本を執筆しておられる方です。

みなし弁済という法律がいかに矛盾したものであるかを理論的に解きあかされた人です。
この論文は、公にされたものではありませんが、先生の労作です。
先生の了解を得て、掲載させていただきます。


神奈川県貸金業協会特別声明批判

2006.4.7 弁護士 茆原正道

1.神奈川県貸金業協会の特別声明
 2006年4月初めに神奈川県貸金業協会から、「有志各位へ」と題して、最高裁平成18年3月17日判決が、原審及び原々審を職権で破棄したことに対して、「弱者救済・消費者保護」の美名の下に偏見によるものと思わざるを得ない異常で不当な判決を下している、と言い立てて、激しく非難をした。
 その「特別声明」の主たる内容は、次のものである。
最高裁の取っている判断は、司法の3審制の大原則を破り、4審制にしてまで、貸金業者に逆転敗訴判決を下し、利息制限法1条2項などを無視して法の条文を空文化させ、憲法22条で保障されている国民の経済活動の自由に、「貸金業者に関しては例外」とばかりに職権で入り込んでいるものである。
このような異常な不当判決は、もはや「業種差別」であり、ナチスが差別と偏見でユダヤ人を迫害したのと同じである。立法者意思をも否定するものであり、机上の空論に振り回され、貸金業者を市場から退場させ、消費者の選択の幅を狭めている。現実に、昨年度1年間に登録貸金業者数は24パーセントも急減した。
江戸時代末期に寛政の改革を行った松平定信は「棄捐令」なるものを発し、借金を帳消しにして武士を一時的に救ったが、その後の武士は金を借りられなくなったことにより困窮し、武士の幕府に対する不満を募らせ、幕府崩壊へと導いた歴史を想起させるものがある。
残念ながら最高裁の判決は、定信の棄捐令と同様であり、儒教的な経済思想の「貴穀賎金」から発せられた「職業差別」により、生じたものと疑わざるを得ない。そして、最高裁の今回の判断は、また、わが国の上限金利は諸外国と比べて低いにもかかわらず、公平さを欠いた貸金業者への最高裁の異常な判決が、グローバル・スタンダードを逸脱することにより、国際的に見ても奇異の目で見られる結果をもたらしているものであり、国益を著しく損なうものである。


2.利息制限法1条2項の復権を目論んだ主張
 貸金業協会の主張は間違いだらけである。まず、昭和39年、43年の大法廷判決の否定が背後にあり、司法の行過ぎ批判は、そこに発している。その考えは神奈川貸金シンポ(昨年3月)でも示されたが、立法に対して、三権分立違反の司法による条文の空文化、という内容である。最高裁はヒステリックだとまで罵倒したことがあり、自分の方がヒステリックになっていることを露呈したりもしている。
 しかし、これは逆であり、間違った立法に対する憲法保障制度の一環としての三権分立及び違憲立法審査権というものを認めていない、間違った考えなのである。その点では、立法者意思というものの否定があっても何ら不思議ではないことなのである。
憲法22条の経済的自由にしても絶対なものではなく、積極的・社会政策的規制や消極的・警察的規制があり得ることは当然であり、何ら異とされることではない。憲法理論がまるで分かっていない。
 ナチスを例えられるべきものにして非難を加えているのも、おかしな話であり、むしろ現在の屁理屈こねた上限金利引き上げ論こそ、ナチスのもとで、生物学者や刑法学者が、ユダヤ人排斥正当化論・優勢種維持のための隔離政策を主張していたおかしさを連想させるのである。43条立法時の説明や現在の金利引き上げ論こそ、およそ信じ難い屁理屈の世界であり、43条違憲論83頁で、「老中田沼意次の賄賂正当化論の屁理屈にも比すべきである」と言ったとおりである。現在の貸金業者のもっともらしい主張は、醜悪なエゴの本音を「ちょいと木の葉で隠す」といった類のものばかりである。
面白いことに、その田沼意次擁護論を定信非難の形で言いだしているのである。
 なお、諸外国に比べて金利が低いなどと述べているのも、全く出鱈目であり、事実の歪曲である。貸金業協会が主張している金利は、利息制限法のそれではなく、出資法上限金利であるから、29.2%である。これに対して、諸外国は、6〜8%であり、アダム・スミスなどは5%を適正金利としているのである(「国富論」上303頁。「グレート・ブリテンのように、貨幣が3%で政府に、りっぱな担保にもとづいて4ないし4・5パーセントで私人に、貸しつけられる国では、現在の法定利子率すなわち5パーセントは、おそらくもっとも適当なものである。」)。利息制限法の15〜20%でも高く、民法の法定利率5%が諸外国に対して胸張って言える利率なのである。
 また、貸金業協会が言う「儒教的な経済思想の『貴穀賎金』から発せられた」というのが意味不明である。儒教にも朱子学・陽明学・古学と三派が拮抗しており、中でも陽明学は新渡戸稲造の「武士道」の本30頁でも紹介されているように、新約聖書の世界と共通のものを持っており、キリスト教も(小野秀誠「利息制限法と公序良俗」、長尾治助「判例貸金業規制法」175頁以下)、イスラム教も、およそ宗教では利息を徴求することを戒めているのだから(イスラムの教えでは直ちに犯罪である)、そうなると「儒教だから『貴穀賎金』」になるとは直結しない。むしろ、朱子学のような儒教は、貸金業者の方がその恩恵に預かっている。なぜなら、仁義礼智忠信孝悌を尊び(この8つを忘れた者を忘八といい、遊女屋の主人のことを指した)、そのうち、信とか義を盾に、約束は守れ、借りたものは返さなければいけない、という儒教モラルを逆手に取って商売しているのが貸金業者の世界なのである。もっとも、その内容として、高金利を当然に含意しているわけではないが。そうすると、「儒教経済」などとわけの分からない批判をするのは、却って自分の足元を掬うことになろう。
要するに、貸金業協会特別声明で言いたいことは、最高裁は、農本主義肯定・貨幣経済否定の思想だから貸金業者を賤しめ差別する感情を持っているところに、その判断の基礎がある、ということであろう。しかし、そのような差別感情により出された判決だと見ることは「異常な感覚」であり、我が身の行為を忘れてなされた発想であり、被害妄想も甚だしい。
 最高裁は、利息制限法の正しい判断はどうあるべきなのか、利息制限法の制限を超過する部分は違法無効である、という当たり前のことを淡々と述べたに過ぎない。
自分の認識不足、不勉強を棚に上げて、言い掛かりをつけているだけの全く失礼千万の反応だというほかはない。
 なお、確かに金は、振り回されて人間性を失ってはいけない、という意味では、拝金思想に陥ってはいけない、という自戒の対象である。このように、世の中で最も賎しいとされるお金を賽銭として投じる行為は、穢れた賎しいものを祓え清めたいという衝動があるからであり、貨幣はケガレの吸引装置であり、神社はケガレの吸引浄化装置であると考えられ、神に結びつく、というケガレの逆転現象がある、ということが、文春新書「なぜ日本人は賽銭を投げるのか」という本の中に出ている(206頁)。どうでもいいことだけど。
 いずれにしても、もし職業のことを云々するのであれば、その職業に伴う行為についてであろう。そして、金を貸したことを奇貨としてどこまでも(違法無効であっても)利潤を追求して、自殺にまで追いやって平気でいる行為そのものは、やはり弾劾されるべきなのである。
 それに対して「職業差別だ」と抗議するのは、見当違いであり、そういった抗議にひるむ必要はさらさらないのである。
 「異常な見解」だというしかない。


3.棄捐令の動機と効果に関する歴史の誤解
 基本的に、この見解には、棄捐令の動機と効果に関する歴史の誤解がある。
この原稿では、専ら、この主張に関して反論を加えることにする。
江戸時代のもろもろのことに触れ、かなり脱線した話にも及ばないと背景が分かりにくいので、その点はご容赦願いたい。
貸金業協会見解自体はまともに相手する次元のものではない。
本論文は、それに対する批判という形に託した江戸俯瞰・江戸散歩くらいのつもりでお読みいただければ、という性質の論文である。
ただ、総論的に先に述べておけば、現在自由主義市場原理を標榜しながら、規制を緩和し、利息制限もなしにしよう、という貸金業者の主張は、それを許すならば、時の社会体制を食い尽くすところまで自己増殖する、社会を空洞化させていく、という例が江戸時代の歴史からも見えてくる、ということである。
食い尽くそうという利鞘を求める商人の攻勢に対して、江戸は幕藩体制自体の持っている経済構造・支配体系上の絶対矛盾により、対応し切れなかった。
現代は、賢明な知恵で、乗り切れるかどうかが問われているのである。
その意味では、この論文は「借金地獄史観」というか「貸金被害通史」とも呼ぶべきものである。

(1)松平定信登場の時代背景
松平定信は、8代将軍吉宗の次男田安宗武の7男に生まれ、幼児期から優秀で、いずれは11代将軍位にと嘱望されていた人物であるが、10代家治の時代に権力を振るっていた老中田沼意次と11代将軍にわが子豊千代を据えたいと策動していた一橋治済(はるさだ)(吉宗の子の一橋宗尹の子)との共同作戦によって奥州は陸奥の国白河藩に養子縁組させられた人物である。田沼意次の弟が一橋治済の用人をしている。
田沼意次はもともと紀州から吉宗が第8代将軍になるにあたって父と共に江戸に入り、9代家重の小姓、御側取次用人に取り立てられ、10代家治の時代には側用人・老中となり、権勢をふるった人物である。
田沼時代は、それまでの農本主義から重商主義に舵取りが切られて、貨幣経済・消費生活が華美に奨励されて放漫財政が行われた時代である。
田沼意次も、印旛沼・手賀沼干拓や蝦夷地開拓や、幕府財政に予算制度を導入したり、新貨幣制度の意欲的改革に努めたり(「貨幣の日本史」195頁)、商人を株仲間などで保護し発展させた反面、運用・冥加金制度を課したり(それまでは商人は年貢のある農民と異なり税がなかった)、前野良沢・杉田玄白らの蘭学を支援したりする意欲的政策を施したりしており、池波正太郎の「剣客商売」では、田沼意次の娘の三冬という人物を登場させて、主人公の息子と共に女剣客としての連作を書き、田沼意次を好意的に描くなど、毀誉褒貶が激しい人物である。
一方では、賄賂政治を公然と認めたりするなど(「江都問答集」で自ら語っている。すでに「43条違憲論」の本の中でも83頁で紹介してある。)、強引で不公平な政治手法には批判が強く、また、賄賂政治の横行で腐敗が進み、武士のモラルが著しく低下し、商人が勢威を広げ、金万能の気風が広がってしまった。
定信が白河藩主時代の天明年間は未曾有の大飢饉があり、また浅間山の噴火や江戸大洪水など、天変地異が相次いで、米価をはじめ諸物価は高騰し、全国で百姓一揆や打ちこわしが続発し、天明7年(1787)には、全国各地で困窮者が一斉に蜂起するという危機的状況が発生した。
こうした社会的混乱と経済危機が、結果的に田沼意次の失脚の引き金となり、田沼批判派の佐野政言により(佐伯泰英の「鎌倉河岸捕物控」の第2巻では佐野善左衛門の名前で書かれている)、田沼の子で若年寄に就任したばかりの田沼意知(おきとも)が江戸城内で刺殺される事件もあり、さらに複雑なことに、11代将軍家斉(いえなり)にわが子を据えることに成功した一橋治済が、今度は田沼の権力を排除する目的で失脚させ、次に定信を老中にすることに奔走したりして、定信が老中に登場したのである。
なお、家斉就任に関しても、もともとは10代将軍家治には家基という極めて優秀な後継ぎがいたのに、18歳の時に鷹狩に行った後で急に食あたりで死んでしまうなどおかしなことがある(佐伯泰英の「居眠り磐音江戸双紙」第14巻の「夏燕ノ道」では、家基がでてくる。現在このシリーズは17巻までだが、いずれこの事件について書かれることになろう)。
この点は、吉宗にも紀伊藩の部屋住みから、上位者が次々に変死するなどの不審なことが多いことなど、江戸の権力闘争は閉鎖的社会の中で進行しているので、興味深いものがある。12代家慶(いえよし)、13代家定(いえさだ)や、孝明天皇などの毒殺の疑いも消えない。「明治維新の敗者と勝者」188頁他多数。

(2)定信に課せられた問題
 松平定信が政策を担当することになった時点では、相次ぐ大飢饉と田沼時代にますます貨幣経済が進展した結果、窮乏化していった武士階級をどう守り、立て直すか、放漫経済のつけをどう解決するか、経済と政治を立て直すことが強く要請されていたのである。
 定信は田沼派を一掃して(徹底しており、田沼の相良藩5万5千石の領地も没収されている)、寛政の改革を行った。それは、先の吉宗の享保の改革と後の水野忠邦による天保の改革と並び、三大改革と称されているが、いずれも緊縮財政を特徴としており、結果的には失敗であったと総括されている。なお、吉宗の倹約令に反発して、華美な消費生活と重商主義政策を尾張で展開した徳川宗春がいるが、最終的には咎められ、失脚に追い込まれている。その墓にはかかる思想が二度と復活しないようにみせしめとして竹矢来を組み、墓石には鎖がぐるぐる巻かれたということである。
その点はさておき、定信としては、当時疲弊しきった経済的混乱を立て直すためには、手の施しようがなくなっていた武士階級の借金問題を解決して体制護持を図る必要が高く、それで、旗本と御家人衆に対する借金の棒引き(棄捐令)を発する必要があったのである(1789年、フランス革命と同じ年。なお、貸金業協会は「江戸時代末期」というが、中期である)。棄捐令の内容は、@札差の6年以前の債権を破棄する、A今後の利息を月利1%、年利12%に制限する、というものである。札差とは、旗本・御家人は給料を米で貰っていたので、その米を手数料を引いて金に換える業者であり、生活費に不足した米しか持たぬ武士には差額を貸付け、利息を取り立てていた。
しかし、これは、もともと江戸幕府の体制それ自身が持っていた矛盾が噴出したことによる武士階級を守るための手法であったことを忘れてはならない。
封建体制維持のためのものなのであって、一般的な利息の制限とは次元を異にする(小野秀誠「利息制限法と公序良俗」209頁)。
神奈川県貸金業協会が、今回の最高裁の判断を棄捐令になぞらえるのは全くの噴飯ものと言わなくてはならない。
 また、棄捐令では借金棒引きの恩典に預かったのは、上記武士だけであり、貸し倒れとなった貸金業者による庶民への取立ては極めて厳しいものになったのであるから、これを一般的に借金が全部とれなくなった事例であるかのように言い立てるのは歴史の歪曲である。 
また、棄捐令による効果は一時的なもので、武士に対する貸金業者の警戒心と高利とを呼んだだけであり、決して幕府崩壊に直結したような効果となっているものではない。別に定信や幕府擁護論を述べる気は全くないが。
 ちなみに、実に美味しそうに食べる場面描写で有名な池波正太郎の「鬼平犯科帳」にでてくる長谷川平蔵は実在の人物であり、「火付け盗賊改め」に登用したのが定信である。定信が隠居して号したのが「楽翁」。吉田雄亮の「〜裁き」シリーズなど、あちこちに出てくる。閑話休題。


3.幕府崩壊は棄捐令によるものか
 定信の緊縮財政は評判が悪く、「白河の清きに魚も棲みかねて、もとの濁りの田沼恋しき」と狂句にうたわれたり、「白河の藪蚊は、ブンブブンブ(文武文武)と夜も寝られず」とけなされたりしていたが、結局、11代将軍の岳父として、政治の実権を握りたがっていた一橋治済らによって追い落とされて、実質6年の施政であった。直接的には、「尊号一件」事件が契機であるが、これは、養子を経て新しい天皇となった光格天皇が、自分の実父親に対しても太上天皇の贈り名をしたいと申し出たことに対して、反対してつぶした事件の責任を取らされる形のものである。
背景には、11代将軍家斉の実父親を「大御所」として西の丸に入れたいとした、家斉・治済の希望をもつぶしたことにもつながっていたからである。
 家斉は暗愚な将軍とされるが、大御所時代を含めて約55年もの長期間実権を持ち、55人の子供(男28人、女27人と言われる)がおり、政治は事実上、一橋治済や老中任せである。家斉の子女の縁組先の大名を優遇するために「三方領知替え」と呼ぶ転封を命じ、有力外様大名などの強い反発と庄内藩領民の激しい転封反対運動でつぶれ、幕府の実力の低下、幕府に対する藩権力の自立化を示す結果となる事件も1840年には起きている。
ちなみに、家斉時代には3翁と言われる人物がおり、岳父一橋治済と、正室茂姫の岳父島津重豪(しげひで)、そして寵愛した側室お美代の方の養親中野碩翁である。中でも、島津重豪は一橋宗尹の娘の保姫を妻としており、若くして亡くなったので茂姫の母親ではないが、徳川と縁戚関係が強く、そのために比較的に自由な行動が保障され、江戸城でも特別待遇を受けていた。そして、西洋に強い関心があり、シーボルトにも開明教育をうけ、進取の気概に満ちた人物であり、島津斉彬に強い影響を与え、これが西郷隆盛や大久保利通らにも影響を与えたということがある。
 ついでに、薩摩藩では、重豪が湯水のように金を使ったことと、幕府に押し付けられた木曽川治水工事を担当したために元金500万両の借金、という疲弊した藩財政となった。これを立て直すために斉興が調所笑左衛門を家老に抜擢し、一大財政改革をし、大阪の大商人からの莫大な借金を無利子250年払いにする荒業を駆使したり、琉球を通じた密貿易などで藩財政を立て直した。それを斉興隠居の後を継いだ斉彬が重豪のように近代工場を作ったりし始めるものだから、(斉彬の子が次々に死んだのも)斉彬が急死したのも久光派による毒殺ではないかと疑われ、そのため、西郷などは最後まで久光とはそりが合わなかった。もっとも斉彬就任前のお由羅騒動も背景にはあるが、省略。
斉彬も息女の篤姫(後の天璋院であり、14代家茂に嫁した皇女和宮と共に、幕末の江戸城無血開城や徳川慶喜延命に力を尽くすことになる。「徳川将軍家の結婚」200頁)を13代将軍の家定に嫁して徳川との縁戚を強めているが、一方で豊かな経済力を作りつつ、簡単に薩摩藩に手がつけられないような実にしたたかな政策を取っている。
 話が飛び過ぎてしまったので、もとに戻そう。


4.松平定信以降の状況と武士階級の生活
 定信失脚の後には、ゆり戻しのように、放漫経済の社会が到来している。
 松平信明を経て、老中首座となったのは、水野出羽守忠成(ただあきら)であり、田沼意次の再来とも呼ばれる。(田沼家も復活して四男の意正が若年寄となって暗躍するという黒崎裕一郎の小説もあるが真偽は確認していない。)
老中に出世したいがために実石15万石以上とも言われる唐津藩を捨てて出世コースといわれていた沼津藩(2万石)への領地替えを訴えて実現した後で老中になった人物である。「三佞人」といわれた若年寄林忠英、御側御用取次水野忠篤、小納戸頭取美濃部茂矩、中野碩翁らが家斉側近として権勢を振るい、賄賂が横行し、家斉自身も大御所となってからワイロを受け取っていたと言われている。「大江戸世相夜話」98頁。
 この時期、定信が施行した強烈な緊縮政策の成果が挙がったことと、米の作柄が回復し、豊作が続いたために、ほとんど無為無策の放漫経済となっている。
一方では、財政悪化の困った状況になると、悪貨の鋳造をしたりするなどの糊塗策が取られたりしている。
ところで、この時期、元禄の時代を超えるような文政バブルの時代となった。
 しかし、米の豊作は、米価の大幅な下落につながり、諸物価を高騰させて、インフレを引き起こすこととなった。
 米価が下落して困るのは、禄米を貰うしか生活収入手段を持たない武士階級と、そして幕府であった。
 また、凶作であっても米の支給はなくなり、名目だけになるので、やはり、武士は窮乏化するのである。
農民は、武士階級の窮乏化対策として、年貢を過大にする安易な方策が採られるのが常であって、農民も窮乏化するので、年貢の負担のない商人だけが、したたかに生き残っていく、というのが江戸時代なのである。
名門の水戸藩も、幕府からの借金が安永のころすでに何万両にも膨れ上がり、たびたび督促をうけ、困ったあげく無期限分割払いの「永年賦返済願」を出し、幕府にすげなく却下されている。幕府も余裕がなくなっていたからである。


5.生産するものを持たない同士での破綻必至の徳川経済体制
 現代社会と決定的に違うのは、利息を取られる借主たる武士階級は、生産するものを持たず、他方、貸金業者も生産するものを持たずに、ただ金利だけを追求するだけの存在である。タコが自分の足を食っているような「花見酒経済」であるとも言える。殖産振興の藩も多いがうまくいかない。
 藩も大商人に高利圧力を受けて経済が貧困化する中で、禄が藩により借り上げられて実質的に給付される禄は減少する。他方、貰う禄がたとえ変わらなくても米価が下落すると事実上の減収となる。つまり、米を貰っても、物々交換が可能であれば別だが、実際には、禄米を札差のところで手数料を取られた上で金に換えるのであり、すでにそこで減収があり、米価が下落すればそれだけ受け取る金は少なくなる。札差・両替屋などが自己増殖していき、金がどんどん吸い上げられていく過程が進行していくことになった時代である。
この構造は必然的に武士が窮乏化していく構造なのである。
逆に、商人とりわけ札差・両替商などの金貸しの果たした役割という面から見れば、発展した貨幣経済を通じて、当時の乏しい生産力を収奪し、富を集中させていった、という構造の時代である。利鞘を稼げば稼ぐ程、そうなる。
商人が栄える反面、社会の活力を奪っていったのである。
そこで、12代家慶の時水野忠邦は「天保の改革」により、貨幣経済の転換を図り、株仲間を解散させたり、在郷商人を統制したりして商業経済の発展を抑え、農村を復興しようと「人返し令」を出し、農民を帰農させ、農本体制への回帰を強行したが(定信も帰農令を出している)、1843年の上知令(江戸・大阪十里地方を幕府直轄地とする)の反発を受け、失敗している。
なお、幕末という時代はいつからか、ということについては、「天保の改革」あたりから始めるのがよいのではないか、と言われている(「江戸300藩最後の殿様」42頁)。
従って、定信のことを貸金業協会が「江戸時代末期」と言うのは間違いである。
「農本主義を原則とする江戸の幕藩体制は、商業資本主義の進展のまえに、もはや膝を屈するほかない状況になっていたのである。」
例えば、水戸藩では、領内に製紙業が盛んになると、農村部に小増言人(こせりにん)という新たな紙商人が出現し、江戸の商人と結んで金を借り受け、それを農家に前貸しして紙を漉かせ、生産力として従属させた。前金(「舟前」と呼ばれた)は、農家が紙を納める際、代金から金利分を差し引かれた。
紙漉農家はどこも困窮していたから、目の前の現金には飛びつかざるをえず、飛びついたら最後、その借金を返済するためにも、せっせと紙を漉かざるをえなかった(「こんにゃくの中の日本史」35頁)。「知られざる日本」という山村を叙述した本の中では、江戸や大阪の商人により、奥深い山村まで収奪されていった過程が書かれている。
 地方の藩の苦しい財政状況については、藤沢周平の小説などにはよく出てくる。また、「武士の家計簿」(新潮新書)などにも、加賀藩藩士について、苦しい武士の家計が如実に残っている。
貸金業者・商人は利鞘を求めて自己増殖し、時の体制の根幹まで、食い散らかしていく、という本質が随所に見られるのである。富への従属と社会の空洞化を生じさせていく。武士は藩の借り上げ米に遭って、兼業化を強いられ、商品経済へ従属していく。「戊辰戦争から西南戦争へ」13頁。
借主はただ窮乏化していくだけである。
貸金業者も金が金を生むという不毛な世界でしか生きていないのであるから、貸す相手がいなくなれば、自分も消える存在でしかないのであり、それを政策的な問題、例えば棄捐令があったからという問題に転嫁することはできない。
金を貸し付けては享楽に走らせて、後は取立てに苦しめられた庶民を生んだ田沼時代の世界を奨励するかのような貸金業協会の見解であるが(今も地方に行けば、パチンコ屋の側にはサラ金がセットになって置かれており、田畑が取り上げられていっている)、綱吉の元禄時代の庶民の苦しみを知っているからこそ、吉宗は金利規制をして、しかも、15%という金利規制をしているのである。すでに吉宗のときに「相対済し令」(あいたいすましれい)を発し、金銭貸借係争事件は公事では取り上げないから当事者で解決しろ、という内容であったために、力の強い武士には事実上踏み倒される、という状況がうまれている。
ついでに言えば、室町時代にも徳政令があり、その後も農民から徳政を要求した徳政一揆が頻発する原因となった。もっとも、吉宗の当時でも、検校、勾当などの座頭金は非常に高い金利が特別に認められていた。それは、幕府への莫大な献上金(冥加金)を得るためであった。


6.食いつぶされた支配階級がどうなったかー幕末から明治へ
 貨幣経済の進展と商人の支配力に対する有効な手立てを持たないままに、ますます幕藩体制は経済的窮乏化の一途をたどった。
1853年ペリー艦隊の来航を受けて、老中首座の阿部正弘は、譜代・親藩どころか、外様藩まで、この難局にどう対応すべきか、アンケートを取った。これにより、公然と、弱まった幕府体制の無能・無策の事実を自白するのも同然となったのである。驚くべきことに300余藩中250藩から回答があり、さらに驚くべきことに、最も多かった大部分の回答は「とくに意見はなし」という不思議なものであった。回答を寄せる意味がない。
無能は幕府だけではなかったのである。
しかし、「幕府なにするものぞ」という気運が一挙に生じたことは大きい出来事であった。
阿部は勝海舟や永井尚志(なおむね)らを抜擢し、東大の前身である蕃書調所を開設したり、開明派とされるが(薩摩藩の斉興を隠居させて、斉彬を藩主に据えた功績もある)、アイデアマンとして「これは前代未聞のいい方法だ」と思ったのかも知れない。しかし、それまで絶対権力者とされていた幕府から出されたアンケート事件は、後に福地桜痴により、阿部の3大失策の一つとされる。
福地桜痴は、「幕府衰亡論」で、第一に、国家主権は徳川幕府にあるにもかかわらず京都朝廷に奉聞したこと(6月13日)、第二に、将軍は最高決定権を持っているのにもかかわらず諸大名に国政を評議させたこと(6月16日)、第三に、水戸斉昭を海防の議に参与させたことーそれらの結果として、幕府みずから、内心では開戦などとても不可能と知りながら、攘夷するという気運を醸し出す破目に至ってしまったのである。「安政江戸地震」65頁。ちなみに、水戸の徳川斉昭は、一橋慶喜の実父であり、歴史上かなりの役割を果たすが、江戸城の大奥に乱入して、女官を手込めにする事件を起こしており、「助平」と言われ続け、人格的には至って評判が悪い。
(なお、この時に、庶民からの黒船攻撃法の願書に「決死隊をつのり、最初は漁師が魚をとっているふりをして、だんだん黒船に近づき、外国人の好みそうな絵や茶わんなど贈って仲良くなる」というものが献策されている。吉原の遊女屋主人藤吉という人物である。「幕末・維新おもしろ事典」36頁。)

幕末は、ほとんど、商人により蚕食されて、幕府・武士階級の力は疲弊しきっている状態である。
ついでに将軍位をめぐる闘争や阿部(斉彬と共に14代へ一橋慶喜擁立派)と井伊直弼(大老−紀州の慶福、後の14代家茂の擁立派)との確執や、安政の大獄、桜田門外の変、薩長同盟、戊辰戦争、大政奉還をはじめとする幕末動乱について語りたいところであるが、きりがないので省略。
 明治4年になって、廃藩置県が施行される。
廃藩置県がいともスムーズにほとんど抵抗なく受け容れられたことが驚異のように語られているが(諸外国にも驚かれる程である)、しかし、これは、むしろ各藩にとっては「万歳!」というようなものではなかったか、と思われる。
正史には、なかなか出て来ないが、各藩とも今で言えば何千億円とか何兆円という莫大な規模の借金を抱えてどうにもこうにも身動きが取れない状況に陥っていたのであるから。
また、司馬遼太郎の「手堀り日本史」122頁以下に述べられているように、すでに幕末当時の藩というものは、ほとんど「法人」という感覚で受け取られるようになっていたのであり、法人を消滅させて、債務をちゃらにする感覚だったと想像される。現在地方公共団体は破産ができない、のはその名残(これは冗談)。なお、伊藤眞「破産法」55頁にも、地方公共団体には破産能力がないことが述べられている。今でも、にっちもさっちもいかなくなった市町村がほかの市町村との合併で経済的赤字状態の脱出と解決ができるとなったら、どうか、という事態を想像すれば分かることである。
これに対して、金があり、国に税を納めることもせず、独立王国のようになっていた薩摩藩だけが怒ったのは当然であり、久光は西郷に、廃藩置県だけはしないということを固く約束させていたのに、西郷が廃藩置県の実行に同意を与えたために(心配して使者として聞きにきた山県有朋に対して、不満な藩が出て来たらどうしましょうかと聞かれ、西郷は「そん時ゃ、おいどんが大将になって軍を率いて征伐に行きもんそ」と答え、それを聞いた東京組が実行した)、藩主島津忠義(茂久)の父親島津久光だけが憤懣やるかたない思いで、磯の御殿の沖の錦江湾に一晩中花火を打ち上げさせて、鬱憤晴らしをしている。なお、島津家では、律儀に大阪商人への250年賦の支払を明治5年まで履行している。

その意味では、明治維新とは、行き詰った江戸時代の崩壊の場面であると同時に、解決困難な程膨張しきった借金地獄からの壮大な脱出の手段でもあった、と位置付けられるのである。
各藩の借財の多寡に応じた倒幕運動への賛成・反対への親近度を分析してみるのもいいかも知れない。ただ、薩摩藩だけがこの尺度には合わないが。
藩がなくなり、武士は、禄を失うことになり、言わば退職金のようなものが給付され、今でいうと、一人200万円位を手にするが、それで始めた仕事も「武士の商法」でほとんどが失敗している。そこらの事情は司馬遼太郎「明治という国家〔下〕」118頁。
その上、明治になって、金利の制限がなくなり、滅茶苦茶な取立てがされる無法な状態になったので、金を借りるしか生きていく術がなくなった旧武士階級は生活困難な状況による不満が沸騰してきたのである(岩波新書の明治時代の本にも明らかである)。明治7年には、佐賀の乱が起きて江藤新平(参議・初代司法卿)が処刑され(江藤は東京の賄賂の横行に憤っており、果断な法治主義を徹底的に進めようとしていた。それを煙たく思っていた連中が、佐賀の方で旧士族の不平不満が高まっているから、これを出身者の江藤に鎮撫に行かせたのである。ところが、逆に何時の間にか東京組の思惑通りに首領にまつりあげられる成り行きとなり、江藤を斬首し、さらし首にするところまでいった、という事件だと言われている)、明治9年には萩の乱があり、そして、明治10年に西南戦争が起きたのである。
 このような金利混乱の事態と金利無法状態を受けたからこそ、明治10年9月11日の太政官布告66号により、旧利息制限法が制定されたのである。
西郷隆盛が自決したのが明治10年9月24日である。
 旧利息制限法は明治23年の旧憲法よりも前であり、明治29年の民法制定よりも前であり、金利制限が何よりも急務だとされたからに他ならない。
(ちなみに、現在まで尾を引いている旧利息制限法2条で、「裁判上無効」とした利息制限法超過部分の取り扱いについて、今、気がついたのであるが、これは裁判外では有効とし、自然債務を認めたもの、というよりも、まだまだ江戸時代の気分を抜けてはいない時期であるから、吉宗の時の「相対済し令」と同じつもりだったのではないか、という気がする。
つまり、裁判上は、超過部分の係争は受付けない、超過部分は当事者で解決しなさい、そうすると、相対済まし令のときのように、「事実上の踏み倒し」で終わるでしょう、という見込みだった、とも考えられる。ところが、江戸の頃とは違い、借手はもはや刀は持っていないので、貸金業者の力が強くなっているから、武士のような踏み倒しの事態は起こらず、民法学者により、裁判外では有効とし、そして、自然債務論が有力化してしまった、のではないか。)
同時に、江戸の高利貸の犠牲になっていた娼妓の解放も急務とされた。明治5年10月2日太政官布告295号によって、人身売買を禁止し、年季奉公人(娼妓芸妓)の開放をうたい、同年10月9日司法省達22号では「娼妓芸妓ハ人身ノ権利ヲ失フ者ニテ牛馬ニ異ナラス。人ヨリ牛馬ニ物ノ返済ヲ求ルノ理ナシ。故ニ従来同上ノ娼妓芸妓ヘ借ス所ノ金銀並ニ売掛滞金判等一切債ルヘカラサル事」とされた。今では直接公序良俗ゆえに無効というところである。

 神奈川県貸金業協会も、棄捐令だけを言うのではなく、なぜ旧利息制限法の制定が歴史的に必要であったのかについて、回答することができなくてはならない。貸金業と多重債務問題については、基本となっている利息制限法を認めることができるかどうかこそが重要なのである。
松平定信時代よりも、賄賂による腐敗の中で金貸しなどの商人だけが我が世の春を謳歌した田沼時代の方が良い、とするも同然の神奈川県貸金業協会の主張は、それだけで、問うに落ちず、語るに落ちる、といった性格のものである。
神奈川県貸金業協会の「異常な特別声明」を機に、貸金業者の圧迫の面から、歴史を見てみる作業をしてみたが、歴史がまた違って見えるのであり、同時に、現在の市場自由化論の下の種々の主張の歴史的不当性も見えてくるのである。
借り手こそ変われど、貸し手は江戸の高利貸と変わらない。


7 高金利が活力・生産力を奪っていくのは現代でも同じであること
 これまでは、貸金被害は、当事者及びその家族や保証人被害について語られることが普通であった。
 社会的影響という観点で、神奈川県貸金業協会の特別声明批判を機会に、現在の状況を貸金被害通史的に見てみれば、やはり同じことが言える。次の影響が挙げられよう。
@ 地域からの高金利による金の流出
A 税金滞納、学費、年金、健康保険滞納
B 生産能力の低下、少子化に拍車
C 医療費、児童手当、生活保護費等の負担増

 平成11年の国会の参考人喚問で、当時の日栄松田一男社長は、5000件が日栄によるものである、と答えた。当時は全国で1万5千件の倒産があったのだから、3分の1である。他の商工ファンド(SFCG)をはじめとした貸金業者を含めると、貸金業者の高利率貸付による収奪によって、全国的に生産力が奪われ、景気が冷え込む大きな原因になっていることがよく分かるのである。
 平成2年にバブルがはじけ、それまでのようにつなぎ資金として借り入れても返せていた時代と違い、借りたら最後、の時代がずっと続いており、その中で、高利貸金業者は、生産力と社会的活力を奪い続けている。

 高金利貸付は15兆円(うち約11兆が「消費者金融」、約4兆が「信販会社」)といわれている。
そこで、15兆を総人口(借りている人も借りていない人も)1億2760万人で割ると、1人当たり11万7500円借りている計算になる。
 この金額に今すんでいる地域の人口を掛ければ、その地域の推定借入額が算出できる。例えば、人口10万人の地域で117億5000万円借りていることになる。そこで、28%の金利が18%になるとすれば、10%分の11億7500万円が地域から流出しないで済むのである。
 その経済効果は、計り知れない。
 税金滞納解消、健康な生活と健全な消費、景気回復、医療費、社会保障費の負担の減少、倒産の減少などに直結するのである。
 個人的な経済効果として、アメリカのトーマス・クラーク氏は個人に高金利で金を自由に貸し出すことで、消費が増え、経済が活性化する、と高金利貸し出し・規制緩和を主張したが、一時的に貸し出した金が消費に回る効果はあっても、後は高金利による苦しい返済が続くだけとなれば、例えば、10年間で1000万円位の過払いが出る場合には、その10年間1000万円が、全く一般流通市場に出ることなく、貸金業者に吸い上げられ続け、その分、消費が冷え込む結果となるのである。
 他方、TKCデータを使った試算では、黒字優良企業であっても、借りて返す作業の中で赤字企業に転落する利率は10%だと言われる。そうであれば、現在の神奈川県貸金業者が主張するような29.2%の金利での営業主張は、企業の生産力および社会の活力を奪い去る主張にほかならない。
江戸時代の貸金業者と同じである。 
神奈川県貸金業協会の「異常な特別声明」は、全く根拠を欠くものであり、このような声明が諸外国に発表されることがあるとするならば、笑いものになることは必定であり、いちじるしく国益を損なうことになろう。
神奈川県貸金業協会が見解や声明を出す度に、その知的水準が測られている。そこに気がついていない。
以 上

《追記・雑感》
最後に、そもそも「消費者金融」という言葉自体が問題の在り処を示しているという点について、触れておきたい。
アダム・スミス前掲書297頁以降の文章を引用しようと思ったが、長文なので、省略するが、アダム・スミスは、有効に借りた貨幣を活用して次の財を作り出すのではなく、ただ消費だけしか目的に有していない契約については、おろかであり、破滅するし、それでもそういう目的のために貸すのは「野卑な高利貸は問題外」とすれば、双方の利益に反することである、と述べている。その意味では、消費だけを目的として貸していると呼ぶこと自体、野卑さを現していることになろう。
他方、「金融」とは、金の投資先を探している者から、利息を払って金を預かり、資金を必要としている者に貸し付けて利息を取り、両方の利鞘で収益を得ていくことである。一般に経済学の本に書いてあることであり、手近かには、「銀行実務講座」や小原鐵五郎「信用金庫読本」などにも書いてある。
ところで、今の貸金業者は一般の預け手大衆から金を集めることをしているわけではない。金主から安く軍資金を手に入れて、或いは自己資本で、それを貸して高い金利を取って儲けている存在である。
したがって、一般大衆の預け手と借り手の間に立っている、というものではないから、実は、「金融」業者と呼ぶのは正確ではない。
「金貸し」であり、高利で貸すのである以上は、「高利貸金業者」と呼ぶのが正しいのである。
「消費者金融」と言っていること自体、不当な虚偽表示であり、おかしなことではある。
そんなことまで、ついでに考えた。
ついでに言えば、利息制限法で何故100万円以上だと15%で10万未満だと20%になるのか、合理的理由があるのか。
理屈をつければ、せいぜい、たくさん借りてくれる人には、サービスしましょう、ということか。あるいは、少額借入れについては、経費がペイしないのでその分高い利率にした、ということも考えられるが、しかし、現在のようにATM取引が発達してくれば、額の多寡では区別される理由がない。
他方で、貸金業者お得意の「貸し倒れリスクが高い者には高金利を」ということから言えば、8万円だけ借りた人よりも150万円も借りている人の方がリスクは高いのではないのか。
そう考えていくと、元金に応じた区別ということについても、きちんと検討しなおした方がいいのではないだろうか。
以 上