「ある裁判官の自殺」に思う



 大阪高等裁判所に勤務していたH裁判官(53歳)は、平成15年3月3日午前5時30分ころ、自宅近くの高層マンションから飛び下り自殺して死亡したということで、現在、「公務上災害の申立て」をしているという。

 その申立書の内容から、H裁判官が、どのような状況で仕事をし、どのような状況に追い込まれて自殺したのかを紹介したい。

 H裁判官は、昭和24年7月生、東京大学卒業、第27期司法修習生となり、昭和50年4月に裁判官に任官し、以後28年間、裁判官として働いていた。

 昭和50年4月札幌地方裁判所、同53年4月前橋家庭、地方裁判所、同54年4月横浜地方・家庭裁判所川崎支部、平成2年4月広島家庭・地方裁判所尾道支部、同5年4月神戸家庭裁判所、同9年4月和歌山地方・家庭裁判所田辺支部、同13年4月大阪高等裁判所。大阪高裁赴任までは、種とし民事事件を担当していた。




H裁判官の公務の過重性

 H裁判官は、昭和54年5月に婚姻、2人の子供が出生、家族4人で生活していた。妻は専業主婦、二人の子供は、H裁判官の収入で生活を維持していた。

 H裁判官は、平成13年4月に、9カ所目の任地として大阪高等裁判所に異動した。それまでの裁判所も、それぞれに忙しく、仕事に追われて多忙な日々を送ってきたが、格別健康上の心配をするほどではなかった。

 H裁判官は、平成13年4月に、和歌山地方・家庭裁判所田辺支部長として単身赴任を終えて、兵庫県芦屋市にある自宅から通勤可能な大阪高裁刑事部に異動となった。それまで、民事事件の経験が長く、刑事事件の担当の期間は短かったため、民事部への配属を希望していたが、刑事部への配属となった。

◆転勤後の多忙さと長時間労働

H裁判官は、転勤後1年目から多忙だったが、2年目からとくに多忙となった。以下の各事実は、家族の記憶だけではなく、パソコンの最終更新記録などにより根拠づけられる。

転勤一年目  平成13年4月から14年3月まで

 普通午前6時ころ起床して、朝食まで1時間30分から2時間仕事をしていたが、週に一日程度、午前3時か4時に起床し、朝食まで3時間から4時間30分仕事をしていた。

 そして、午前8時過ぎころ、軽い朝食を摂り、午前8時半ころ家を出て、9時半前には登庁していた。

 帰宅時間は、大体午後6時ころで、帰宅のちまもなく夕食をとり、その後、入浴して早く寝てしまうことが多かったが、週2日位、夜1時間程度仕事をしていた。また、急ぎの仕事を抱えているときは、夜12時近くまで仕事をすることもあった。

当時は、土、日のどちらか一日は仕事をし、一日は休息するようにしていた。仕事をする日の土曜日か、日曜日には、午前6時ころ起床し、午前中約2時間、午後約3時間、夕食後約2時間程度仕事をしていた。従って、一日7時間程度仕事をしていた。また、宅調(家で仕事をすること)は取っていなかった。

 そのころ、土、日に時折夫婦でドライブに出かけたり、夫婦で一泊旅行などにでかけたるするなど、まだ余裕はあった。


転勤2年目の前半  平成14年4月から9月頃まで

 平日の生活は次のとおりである。

 午前6時ころ起床して、朝食まで1時間30分から2時間仕事をしていたこと、週に1日程度、午前3時か4時に起床して、朝食まで3時間から4時間30分仕事をしていたことは、転勤一年目と同様である。

 転勤2年目になると、H裁判官の帰宅時間が遅くなった。

 平成14年4月ころから同年9月ころまでは、毎日午後8時ころ帰宅していた。裁判所に午後7時まで残って約1時間30分から2時間残業してくるようになった。そして、帰宅後は、夕食を摂り、風呂に入って早く寝るようにしていた。

 土、日の生活は、次のとおりである。

土曜日も日曜日も、仕事をするようになった。毎週末の土曜日か日曜日には、そのどちらか1日は必ず自分で車を運転して裁判所に出かけ、事件記録を自宅まで運び、判決起案をしていた。裁判所に出かけた日は一日約5時間、出かけない日は一日約7時間程度仕事をしていた。

大阪高裁に転勤した2年目からは、ドライブに行くことがなくなった。

転勤2年目に夫婦で出かけたのは、平成14年7月ころ、一泊出高野山にお参りしたことがあるだけである。


転勤2年目後半  平成14年10月ころから同15年3月2日まで

 平日の生活と平日の一週間の仕事時間は、次のとおりである。

 出勤前の仕事時間は、それ以前と同様であった。すなわち、週4日は午前6時ころ起床し、朝食まで1時間30分ないし2時間仕事をしていた。そして、週1日は午前3時か4時に起床し、3時間から4時間30分仕事をしていた。従って、1週間の出勤前の仕事時間の合計は、9時間ないし12時間30分である。

 勤務時間内の仕事時間については、H裁判官は宅調をとっていなかったので、月曜日から金曜日までの5日間につき、午前9時30分から12時までと、午後1時から5時までの一日6時間30分で、一週間の合計は、32時間30分となる。

 またこのころ、H裁判官の帰宅時間は、さらに遅くなり、週2日程度午後7時ころまで、1時間30分ないし2時間残業し、午後8時ころ帰宅していた。また、週に1日は、午後8時ころまで2時間30分ないし3時間残業し、午後9時ころ帰宅しており、さらに、週に一日は、午後9時ころまで3時間30分ないし4時間残業し、午後10時ころ帰宅するようになった。従って、裁判所に残って残業していた時間は、週10時間30分ないし13時間となる。

また、H裁判官は、午後8時ころ帰宅して週3日のうち、週2日程度帰宅後1時間、週一日程度帰宅後2時間程度仕事をしていた。従って、帰宅後の仕事時間は、合計週4時間となる。

土、日の正解と仕事時間は、次のとおりである。

それまでも、土、日のうち一日は、車で裁判所に出かけ、事件記録を運んでいたが、そのころからは、月に一日ないし二日は裁判所に出かけた日に、裁判所で仕事をして来るようになった(裁判所に残って仕事をして来る時と、すぐ帰って来るときとで、格別仕事の時間に違いはなかった。)

そして、裁判所に出かける以外には、土、日とも部屋に籠もりきりで、仕事ばかりするようになった。従って、少なくみても、土、日のうち、裁判所に行った日は約6時間、裁判所に行かなかった日は、約9時間仕事をしていたと認められる。



 以上を合計すると、平成14年10月ころから同15年3月2日まで、H裁判官の一週間の仕事時間の合計は、71時間ないし77時間となり、そのうち、勤務時間内の仕事時間は32時間30分、勤務時間外の仕事時間は、38時間30分ないし44時間30分となる。

 これらの時間から一日当たりの時間を計算し、1か月を30日として計算すると、H裁判官の1か月当たりの仕事時間は、次のとおりとなる。

 1か月の総仕事時間は139時間17分ないし330時間となる。

 内、勤務時間内の仕事時間は、139時間17分、勤務時間外の仕事時間は、165時間ないし190時間43分とないうことになる。


自宅における仕事の公務性

 裁判所が自宅において作業をする場合には、殆どの場合に、担当している事件の判決の起案をしているのであって、自宅におけるしごとは、格別のことがないかぎり、公務性を有するものと認めるのが相当である。

 裁判所には効率よく起案できるように、「宅調」と称して、週1日程度自宅で仕事をする日が認められており、出勤しなくても、勤務したものと扱われているほか、裁判所の公用車で、裁判所から自宅まで事件記録を搬送している裁判所もあり、これらは、裁判所が自宅において公務をなすことを前提とする制度である。H裁判官の場合も、土曜・日曜に自分の車で搬送する以外に平日に大阪高裁の公用車で事件記録を自宅まで搬送してもらっていたことがある。

 H裁判官は、担当事件の処理に追われ、必死になって判決起案の作業をなしていた。H裁判官が自宅で作業をしていたすべての仕事に、公務性を認めるのが相当である。


超多忙な中でのH裁判官の生活や言動の変化

 平成14年6月に、H裁判官の叔父が死亡し、横浜市で葬儀があったが、H裁判官は、仕事が忙しくて参列することができず、妻だけが、参列した。身内の冠婚葬祭を大切にしていたH裁判官が、身近な親族の葬儀に欠席するのはかってないことであった。

 平成14年の夏、H裁判官は6月の葬儀にけっせきしたこともあって、夏休暇を利用して日帰りで法要のため上京したが、親族に対し「休めない、忙しい」と話し、往復の新幹線の中でも仕事をしなければならないと言っていた。H裁判官はこの夏、法要に参列した以外には、自宅に籠もって仕事をして過ごした。

 こまで忙しいときも、年末年始は仕事を離れてゆっくり過ごすようにしてきたが、平成14年末から同15年正月にかけては、仕事に追われ、かなりの日を仕事をして過ごした。

そのうち、H裁判官は、「起案が書けない」「書いたのを書き直すように言われたけれど、その前に次のを書いているから頭が回らない」などと言った。また、大きな判決が一段落したあとも、H裁判官は、「まだまだ大きいのが次から次へと来る」と話し、一つの起案を終えても次から次へと大きな起案に取り組まなくてはならないしんどさを話していた。


民事部への配属替内示後

 平成15年2月下旬、H裁判官は、妻に4月から高裁の民事部へ異動するようにとの内示があったと話した。H裁判官は、その直前の土、日には極端に口数が減り、寡黙になっていた。また、「4月までにやっとかなくてはいけない起案がたくさんあっても、それが書けないんだよ」と、任期中にやり遂げなくてはならない仕事の負担のしんどさを、妻にぶつけるように訴えていた。それ以降、H裁判官は妻の話しかけにも応えることもなくなり、思い詰めた様子でいることが多くなり、3月3日死亡した。

 このような過酷な仕事の中で、H裁判官は、うつ病を発症し、自殺したという。

 H裁判官のうつ病発症・自殺は、公務に起因するとして公務災害の申請をしたという。

 H裁判官のうつ病発症・自殺の公務起因性については、次のような項目で詳細が述べられている。

  1. 仕事量が多く、多忙さによる極度の疲労
  2. 職務の性質や職場における過度のストレスによる極度の精神的疲労
  3. 民事部配属内示による積み残し起案処理の負荷

 以上、裁判官というそれ自体心理的負荷の高い公務による過労・ストレスのうえに、大阪高裁へ転勤後の2年間の刑事部での公務がそれをさらに過重し、心理的に困憊状態となっていた。本件自殺前には、民事部配属替の内示による配属替期限までの判決起案等の処理をしなくてはいけないとの追い詰められた心理状況にあった。こうした中で、うつ病が発症・憎悪して、自殺に至った。

 裁判官は、人の一生を左右する仕事である。

 大阪高裁では、「記録3千頁を越える特配事件と、記録1万頁を越える超特配事件が普通事件とは別に各主任裁判官に平等に配転され、これらの事件にも必ず、年に何件か、 取り組まなければならない」という。

 裁判官が、正常な精神状況で、冷静な判断ができるような環境で、仕事ができるということは、最低の条件ではなかろうか。

 この記者会見の内容からすると、あまりにも、あまりにも、過酷な条件で、人として健康で文化的な最低限度の生活が保証されない状況で、仕事をせねばならなかったことがよくわかる。

 しかし、このような状況で仕事をせねばならないということになったとき、やはり、裁判官が、「このような環境では仕事はできない」という意思表示ができねばならないのではなかろうか。

 ドイツの公証人の人数について、一定の事件数以上の仕事を処理せねばならないことになったときに、人数を増加させるという説明があった。

 裁判官は、裁判官会議でいろいろなことが発言できるということになっているが、現実には、裁判官会議は、形骸化しているという話もある。

 裁判官は、社会のエリートとして、「人を裁く」という仕事に携わっているということである。

 裁判官が、「健康で文化的な最低限度の生活が保障」されなければ、日本という国の将来はない、と思うのは、私だけだろうか。