車社会の刑事政策

亀山継夫


 50年以上も東京に住んでから札幌、前橋と地方の生活をすることになりました。暮らしてみると、地方にはまだまだ人のぬくもりというか、ゆとりが残っているようです。それに比べると、東京は、いつの間にか人の心をすり減らすような住みづらいところになってしまったことに気がつかされます。
 その一例が車の運転です。東京では一瞬のすきを狙って獲物に襲いかかる猛獣のような、あるいは常に周りを警戒して毛を逆立てている針鼠のような運転を強いられます。東京で車を運転していると、とげとげしさがぶつかりあい、自分の心をすり減らしていくような気がします。それにひきかえ、北海道の広々とした大地で車を走らせていると、自動車という偉大な発明が人間に与えてくれた快適さと利便をしみじみと感じることができます。
 その北海道でさえ、交通事故による死傷者の激増、補償問題、暴走族など車社会の問題点は最近とみに大きくなってきました。私がいま住んでいる群馬県は、東京に近いにもかかわらず、心の暖かさとゆとりを残した非常に住みやすいところですが、車に関しては東京並みのようで、行き交う車には東京で感じるのに似た殺気が感じられます。車は交通事故などの表面的な問題だけでなく、社会の奥深いところに深刻な影響を及ぼしているようです。
 問題が深刻かつ広範囲な割には、刑事政策の分野においても交通問題が取り上げられることはそれほど多くないようです。交通事犯が犯罪それ自体としては過失犯であり、あるいは行政罰則違反にすぎないからでしょうか。しかし、交通問題が社会の深層に影響を与えているのと同様、交通事犯問題は刑事司法の基盤部に深刻な影響を及ぼしているように思われます。
 刑事司法の関係者という立場を離れ、1ドライバーの目から眺めると、現在の交通事犯に対する公的対応には、常識的にみて納得し難い点が目につきすぎます。
 その最たるものが交通取締でしょう。何でこんな見通しのいい空いたところでスピード取締をやらなくっちゃいけないんだ、もっと危険な場所、危険な状況でめちゃなスピードだしている奴がたくさんいるじゃないか(そういうところじゃなきゃネズミとりは仕掛けられないんだよ)。高速道路でネズミとりなんて論外だよ、そんなことする暇があるんなら、車間距離0メートルで突っ走るトラックを取り締まったらどうだ、渋滞になるとすぐ路側帯を走り出す奴らもどうにかしてほしいね(そりゃわかるけれどどうやってやるんだね)。こんな交通閑散なところでちょっと駐車しただけなのにキップきられちゃったよ、渋滞の元になっている盛り場の駐車違反をなぜ取り締まらないんだ(浜の真砂と駐車違反はねー)。等々といった具合です。違反をしたくせに勝手なことをと聞き流してしまえばそれまでですが、これらの不満に共通するのは、捕まったのは運が悪かった、もっと悪い奴らがいるのに見逃されている、正直者が馬鹿をみりなどといったところでしょう。警察によって行われている交通取締は、多大の手間と費用を要するものですが、その割には違反の抑止効果が上がらず、かえって違反者、その大部分は車を運転していないときは善良な一市民の警察に対する不信感、反感を醸成する元となっているようです。このようなことが年間百万回となく繰り返されるのですから、刑事警察に対する非協力という風潮を助長し、刑事司法の基盤である遵法精神をむしばむ底流とならない方が不思議なくらいです。
 一方、刑事司法の要を自任する検察は、激増する交通事犯に対処するため、厳罰主義をとりました。しかし、年間数百万件に上るこの種事犯をすべて公判請求することはおよそできない相談ですから、実務の流れは、ほぼ必然的に、起訴猶予(これが検察の機能の最大の特徴なのですが)をほとんど使わない一律起訴、略式手続きによる簡易迅速な流れ作業的処理、少額の罰金といういわば「簡易迅速必罰主義」が大勢となったのです。その結果はどうでしょうか。起訴猶予裁量を許さない必罰主義の方は、相手の過失の方が大きいのにとか、誠意を尽くして示談をしたのにまったく評価してくれない等々の不満を内攻させ、簡易迅速少額罰金の方は、罰金は車を運転するための手数料みたいなものだよとか、この程度の金を払わせられるのにこんなに手間をかけさせられてはあわないよなどというおよそ理不尽な不満まで出てくる始末で、検察の処理に対する不満、不信、罰金の軽視、裁判の権威の失墜を招く結果となっています。
 交通事犯対策の主要な柱ともいうべき交通取締と刑罰がどちらもさしたる効果をあげていないばかりか、刑事司法の基盤を掘り崩すような逆効果を生んでいるのだとしたら、刑事政策にとっては大問題ではないでしょうか。

 再びドライバーの視点からこの問題を考えると、有効な対策は、皮肉なことですが、交通事犯を刑事司法から解散するということ以外にはなさそうです。
 犯罪検挙あるいは抑止の手段としての交通取締や刑罰を効果のないものにする直接、最大の原因は、犯罪としての交通事犯があまりにも大量過ぎることにあります。そのために、交通取締は一罰百戒的にならざるを得ず、正直者が馬鹿をみるという不満を生み、処罰の方は、一律流れ作業的処理が罰金や裁判手続そのものに対する軽視、不信を生じさせているのです。したがって、この問題を解決するには、年間300万件近い交通事犯の中から真に刑事事件として取り扱うにふさわしい事件だけを残し、あとのものを刑事司法手続きから解放してしまう以外に方法は無さそうです。

 具体的方策として考えられるのは、まず、道路交通法違反事件は原則として反則金+行政処分で対応し、悪質なものだけを脱税事件と同様に通告処分を経て刑事手続に乗せて処理をするというやり方です。このようにすれば、交通取締も犯罪の検挙から解放され、交通の流れがスムーズになるよう指導し、規制するという本来の姿に戻ることができます。無免許・酒酔い・法外なスピード違反といういわゆる交通三悪は、事故を起こした際に厳しくチェックすることで対応できるでしょう。
 人身事故に伴う業務上過失致死事件はどうしたらよいでしょうか。この種の事件は、犯罪であるとはいえ、もともと犯したくて犯すものではありません。だからこそ、通常の過失致死傷は罰金どまりで、懲役・禁錮が科せられるのは「重」過失致死傷なのです。「業務上」過失致死傷は、危険な業務に従事する以上、うっかりミスでも「重」過失と同視するという考え方なのでしょうが、自動車運転に関しては、あまり業務上過失を広く、かつ、軽く使いすぎてきたために、「業務上」の中身がすっかり希薄になってしまったような気がします。今こそ過失犯の原点に立ち戻って、軽い過失事犯は原則として民事問題として当事者間で解決してもらい、真に処罰価値のある「重」過失の事件は正式の裁判手続で厳しく処罰するという方針をとるべきではないでしょうか。
 以上のような方策をとれば、少なくとも刑事政策の分野では矛盾を解決することができそうです。しかし、車社会の矛盾を全面的に解決することにはなりそうもありません。依然として、交通事故は増加し、公害は広がり、暴走族は横行し、人々の心はとげとげしくすり減らされていくでしょう。
 この問題の根本的解決策は、ある意味では簡単明瞭です。車を所有し、使用することのできる人を制限し、あるいは車の性能を大幅に制限すればよいのです。
 それが不可能であるとしたら、ここいらで車に対する発想を基本的に転換する必要がありそうです。
 日本では車は社会にとって危険な、いわば悪者として扱われてきたのではないでしょうか。歓迎されざる異端者として封じ込めよう、封じ込めようとしながら、一方で、その利便は遠慮なく享受してきたというのが実状のように思われます。そこで気がついてみれば、生産過程でも、流通過程でも、また一般生活上でも車は無くてはならぬものになってしまっていたというわけです。この間のギャップが車問題のいろいろなところに顔を出しているのではないでしょうか。
 車の運転は社会生活上当然の、かつ、有用不可欠の行為という視点にたてば、交通取締も、犯罪検挙を主眼とするのではなく、交通の流れをスムースにするための規制、指導という本来の姿を取り戻し、すべてのドライバーの支持を得るだけでなく、そのような取締に違反する悪質ドライバーは社会の悪者として厳しく指弾されるでしょう。
 運転免許をとるための教習所の在り方もこのようなひずみを現わしているようです。これまでの教習は、車の運転は危険なことだからなるべく免許はとらせない方がいいという考え方が底に流れているのではないでしょうか。だからこそ、このオートマティック全盛の世の中にマニュアルだけで操縦技術を教え、生徒の方は実技試験を何度も落第して、やっと合格するころにはせっかく習ったほかの有益なあらゆること、例えば安全運転に関する心得などすっかり忘れてでていくのです。とらせない免許ではなく、良い運転をさせる免許という視点にたてば、操縦技術はオートマティックで教え、余った時間で安全、気配りなど車の社会的使用の基本をたたき込むことの方がはるかに有用であり、事故の防止にも役立つのではないでしょうか。車社会に目をつぶった教育から車社会を正視する教育への転換が求められているのだと思います。
 車社会に目をつぶる教育といえば、最近大きな社会問題になりつつある若者による無謀運転とその結果の事故死の続発は、ある意味では高校教育に大半の原因があるともいえそうです。現在多くの高校では、三ない運動とかで、車の免許をとらせない、運転させないという、いわば車を悪とみた封じ込め作戦をとっているようです。高校生が卒業後社会に出て車と無縁の生活を送ることができるのであれば、この方針も正解のうちなのですが、残念ながら現実はまったく逆で、彼らは、卒業するやいなや、車無しでは日も夜もあけぬ社会、しかも自由に車を乗り回せる社会に放り込まれるのです。正しい車との付き合い方を教えられずに、やみくもに欲望だけを押え込まれた若者がある日突然野放しにされれば、暴走するなという方が無理かも知れません。

 今の教育方針は全く逆ではないでしょうか。車の運転を正課として取り入れ、車社会における身の処しかたを徹底的に教え込み、そこで良い成績をとったものから免許をとらせるというくらいにしないと、若者の暴走事故死はなくならないように思われます。
 暴走といえば、いわゆる暴走族の問題も見直しを要する車問題の一つです。暴力団による組織化という点は別論として、暴走族発生の原点は、車の性能とそれを走らせる環境の著しいミスマッチにあるのではないでしょうか。あれだけ性能の良いオートバイや4輪車が手軽に手にはいるのに、その性能をフルに発揮させられる公的な場所はどこにもないのです。国や地方自治体がサーキットをたくさん作り、公道ではルール通りの運転をするのが上手でかっこいいんだという風潮をつくり出すというぐらいでないと、この問題の基本的解決にはならないような気がします。

 読み返してみると、だいぶ乱暴な議論ばかり並べたような気もします。しかし、交通事犯の問題は、一つ一つはマイナーでも、寄り集まって刑事政策上の、ひいては社会政策上の大問題となりつつあるような気がしてなりません。私は車大好き人間です。よくぞこんな便利で魅力的なものを発明し、我々の手に届くようにしてくれたものだと感謝しています。そのようなドライバーの立場からみると、そんな魅力的な車が人の心の暖かさというこの国のもつ最も大切な資産をむしばんでいくような危機感にとらわれるのです。これが私だけの杞憂にすぎなければよいのですが。

(前橋地方検察庁検事正)


出典:罪と罰 平成元年7月 第26巻4号 より