第三章 普通免許取得から、今日まで

☆道路交通法第七五条の一〇  自動車運転者の遵守事項
 自動車の運転者は、高速自動車国道等において、自動車を運転しようとするときは、あらかじめ、燃料、冷却水若しくは原動機のオイルの量又は貨物の積載の状態を点検し、必要がある場合においては、高速自動車国道等において燃料、冷却水若しくは原動機のオイルの量の不足のため当該自動車を運転することができなくなること又は積載している物を転落させ、若しくは飛散させることを防止するための措置を講じなければならない。

☆道路交通法第一一九条
 次の各号のいずれかに該当する者は、三月以下の懲役又は五万円以下の罰金に処する。
・一二号の四 第七五条の十(自動車の運転者の遵守事項)の規定に違反し、本線車道等において当該自動車を運転することができなくなった者又は当該自動車に積載している物を当該高速自動車国道に転落させ、若しくは飛散させた者。

☆道路交通法第一一九条
 過失により前項第一号の二、第二号、第五号、第九号又は第一二号の四の罪を犯した者は、十万円以下の罰金に処する。

小学校のころ、自動車はとてもめずらしいものだった

 私の昭和一七年一二月二四日、満州国で生まれた。昭和二二年ころ、母に連れられて日本に帰国した。母の実家に、私と二つ違いの弟と三人が居候として厄介になった。
 母の実家は、京都の佐賀村という小さな農村だった。食料難の時代だったと聞いたが、おじいちゃんおばあちゃん、それに伯父さん、伯母さん達が農業をやっていたので、ひもじい思いをしたことはなかった。
 日本の道路における法定速度が六〇キロメートルに決められたのは、昭和二二年だという。
 私は、昭和二四年四月に小学校に入学した。
 小学校は、家から四キロ位離れたところにあった。小学校四年生の時、引っ越しをし、学校迄の距離は二キロ位になった。それでも、子供の足で、歩いて通うのに、三十分以上かかった。毎朝、広場に集まって、小学校一年生から六年生まで並んで学校に行くのだった。皆が集まるまで、石蹴りや、縄跳び、かくれんぼなどをし、皆が集まると上級生が一番先に立って一年生から並んで行くのだ。歌を歌ったり、わいわいがやがや話をしたりしながら。

 学校に着くと、又、それから、授業が始まるまで、毬つき、石蹴り、縄跳び、かくれんぼなどをして遊ぶのだった。もうもうと砂煙りが立つ中で毬つきをしていた。
 小学校六年生の卒業の間際になってとんだことが起こった。
 それは、村が合併するというのだ。佐賀村というのは、行政区域的には何鹿(いかるが)郡に属しており、綾部市のほうに属するのだが、地理的には、福知山市と綾部市という二つの市に挟まれていた。福知山市に近いほうは、福知山市と合併したいと言い、綾部市に近いほうは、綾部市に合併したいということで、村民の意見が真っ二つに別れていたらしい。佐賀小学校の側に建っていた佐賀中学校はなくなるというのだ。私たちは、小学校を卒業したが、新学期になってもどこの中学校に行くのかなかなか決まらなかった。
 結局、村が丁度二つに別れて、分村合併することになった。
 そのため、私は、家から二十キロ以上も離れた中学校に行くことになった。

 昭和三十年の四月のことだ。

 スクールバスというのがあったが、スクールバスは決まった時間に帰らなければならないためクラブ活動ができない。そのため、私は、自転車通学をした。
 自転車で一時間以上かかった。そのころ、自動車というものはとても珍しかった。
 佐賀村で自動車を持っている人はいなかったと思う。
 たまに、小さいトラックが、荷台一杯イワシを積んで売りにきた。荷台からは水がしたたりおちていた。水を落としながら小型トラック(多分二トントラックというのだと思う)が来ると、竹の籠一杯、多分十円だったと思うが、イワシを買うのだ。イワシの小骨をとって、酢につけ、イワシ寿司を作るのだ。イワシが舌の上でほわっと溶けるのがなんともいえずおいしかった。
 この小さいトラックが来ると、元気のよい男の子は、トラックの荷台のところにつかまっていた。危ない、危ないと言われても、平気で得意気だった。そして、暫くすると手を離すのだ。手を離すと転ぶが、それでも怪我も何もしなかった。

 当時の車は、どの位のスピードで走っていたのだろうか。
 自動車の運転者さんはとてもえらい人に思えた。

夜間の大学と弁論部、そして司法試験合格迄

 高校を卒業し、私は、最高裁判所の速記官養成所に入った。
 私と同い年の従兄弟は、二十歳過ぎに自動車の免許をとった。自動車の運転の仕事に着いたのだった。たまに、自動車に乗せてくれた。自動車を運転するということは、とても自分にはできないことだと思っていた。
 私は、裁判所の速記官をしながら、夜間の大学に通った。大学に入学したその日に「弁論部」に入った。私は、人前で話をすると顔が赤くなり、思っていることもきちんと話せなかった。
 弁論部の入部を勧める先輩は、「人前で思ったことが言えるようになりますよ」ということを盛んに言っていた。その勧誘に誘われて、せめて、自分の思っていることだけでも、きちんと言えるようになりたいと思ったのだった。

 弁論部の入部の歓迎会の時、多くの先輩が言った言葉は、「大学は誰でも卒業できるが、弁論部を卒業するのは、非常にむづかしい。諸君は、弁論部を卒業するように頑張ってほしい」ということだった。
 私が大学に入ったのは二十二歳の時だから、私の同級生は、浪人をしなかった人は卒業していた。私の同級生は、みんな、私より年下だった。先輩も大半は年下だった。それに、弁論部は、女性は、私一人だった。
 大学を卒業し、弁論部を卒業してから、丸二年して司法試験を受け不思議なことに合格した。できれば、裁判官になりたいと思っていたが、弁護士になった。

 昭和四九年四月のことだ。

 そのころも、私は、自分が自動車の免許を取得し、自動車を運転するようになろうとは思ってもいなかった。
 私のような者が自動車を運転できるようになるとは考えもしなかったのだ。
 昭和四九年、そのころは、相当自動車の数は多くなっていた。

自動車学校に行く

 昭和五〇年の終わりころ、釧路に行くということになった。
 釧路に行くということになった時、釧路では、どうしても自動車の免許が必要だろうという話になった。遠くに行くときに、タクシーを利用できるよう経済的余裕はなかった。
 そして、私は、自動車学校に行くことになった。
 豊平川の川べりにあった自動車学校だった。
 丁度、仮免許をとった時は、昭和五一年一月ころから、路上教習となった。
 札幌の市内は、ひどい大雪が降った。わだちがあちこちにできてひどい道路状態だった。こんな悪条件下で路上教習を受けることができるのはとても幸運だと、教師は言った。しかし、教わるほうは、路上教習の度におそろしい思いをした。ハンドルをとられる、タイヤが滑る、その度に助手席に乗っている教師が、ブレーキを引いたり、ハンドルを回したり、何回も補修をうけ、なんとか実技試験に合格したのだった。
 学科試験の前日は、忘れもしない「長沼事件」の控訴審において、突然、審議打切りが宣告された日だった。長沼事件は、画期的な判決が札幌地方裁判所で出され、国側が控訴していたのだった。ところが、控訴審の裁判官は、実質審理に入らず審議打切りを宣告したため、被控訴人が「裁判官忌避」を申立て、忌避理由書の作成のために、夜中まで懸命に、法廷でのやり取りを録音したテープを反訳したのだった。
 その翌日が、自動車免許試験の学科試験の日だった。前日徹夜に近い状態で仕事をしていたため、殆ど学科試験の問題集をやる時間もなかった。私と同じ事務所の先輩弁護士も学科試験を受けることになっていた。弁護士が学科試験に落ちたら「みっともないね」といいながら、泥縄式に問題集に目を通した。そして、試験が終わった。
その直後、先輩弁護士と幾つかの心配な問題について意見交換をした。私と先輩弁護士の答えは違っていた。「こりゃまずい。どちらか間違いだ」と二人で話し合った。
 しかし、めでたく、二人とも学科試験に合格し、普通自動車免許を取得した。

中古自動車の購入

 昭和五一年四月初めに、釧路に転居した。最初は、安い中古車を買ったが、すぐに運転するのは怖かった。事務所兼住宅の家から、釧路地方裁判所まで自動車を運転して通った。
 釧路にきてから、一ケ月位たったころ、根室の事件の依頼を受けた。しかし、まだ、一〇〇キロ以上の遠距離を運転する自信はなかった。タクシーで根室迄往復したことを覚えている。

はじめての交通違反検挙  一旦停止違反

 自分で運転するようになって、数ケ月たったころだった、裁判所からの帰りの信号機のない変則交差点の手前で、お巡りさんに止められた。

「なんで、止めたかわかりますか?」

「わかりません」

「あそこに一旦停止の標識があるのですが、一旦停止をしませんでしたね」

「えっ?」

 私は、思わず、お巡りさんの指さすほうを見た。私が、運転してきた少し手前に、確かに、一旦停止違反の標識が立っていた。しかし、それは、本当にみにくいところにあった。
 その場所は、信号機のない変則交差点で、きわめて見通しが悪いので、必ず、交差点に進入する手前で止まって、右側をずっと見なければならないところだった。しかし、一旦停止の標識のところで止まっても右側の道路から車が来るかどうかはわからない。そこで、反則切符をきられた。職業を聞かれた。「弁護士」と答えたところ、どこでやっているの、とか、何時から、とか、弁護士であるかどうか疑われていることがはっきりわかるような質問だった。
 そして、一旦停止違反が、二点であることがわかった。

 その後も、何回もその道路を通ったが、何時も、一旦停止違反の標識の手前ではなく、そこを通り越して右側から来る車が見えるところまで行って止まったが、その後は、一度も一旦停止違反で検挙されたことはない。

速度違反での検挙  全部で三回

 最初に速度違反で検挙されたのは、何時だったか。免許取得後、二年位たったころではなかったか思う。
 白糠の町から郊外に出るところで、大きな橋を渡った、すぐのところだったと思う。
 四〇キロ制限のところで、その大きな橋を渡ると追越し禁止となり、それまでは、片側二車線になっているが、追越し違反が始まるところから片側一車線となるところだった。私の前にはタンクローリーがいた。追越し禁止の道路で、ずっと、このタンクローリーの後について走らねばならないということは非常に苦痛だと思われた。そこで、私は広い橋の上で片側二車線のところで、タンクローリーを追い越すことを決意したのだった。
 そして、悠々と追い越してタンクローリーの前に出た直後だった、私の車の前に、お巡りさんが出てきた。そして、私は検挙された。確か、速度違反は一八キロオーバー位だったと思う。

 それから、又、二〜三年後だったと思う。
 今度は、帯広の裁判所からの帰りに、オートバイを追い越した。すると、そのオートバイが私を追い抜き返して、私は止められた。覆面パトカーを追い越したのだ。これは、一五キロ以内の違反だったと思う。
 そして、一〇年程前に、網走の原生花園の海岸線の道路で速度違反で検挙された。それは、網走の裁判所の仕事が早く終わったので、知床横断道路を回って帰ろうかと思って、快適なドライブをしていたのだった。広い道路で、本当に気持ちのいい日だった。
 二人乗りのパトカーが私を追い越して止めたと記憶している。

「ここは、制限速度六十キロメートルです。あなたは、十八キロメートルオーバーしています」
というように言われたと思う。

 私は、お巡りさんに話した。
「こんな良い天気で、なんの障害もないのに、六〇キロでなんか走れないわよ。おかしいと思わない。」

「いえ、これは、法律で決まっているんですから」

「こんな制限速度で一番困るのは、お巡りさんでしょう。」

「どうしてですか?」
「だって、お巡りさん、休みの時なんか、スピード違反で捕まったら、すぐ、署長に報告されるとかで、処分されたりするんでしょう」

「まあ、そういうことはありますけど、やっぱり、法律は法律ですから」

 というようなやりとりをして、反則切符に署名・押印したのだった。
 追越し違反は、根室からの帰りだった。新酪農村に入る道路の近くで、非常に見通しのよいところで、タンクローリーを追い越した直後に、パトカーが追いかけてきた。お巡りさんは、私に語った。

「ここでは、何時もやっているんですよ」

 追越し違反は、黄色い線で明確にわかるから、故意でやるわけである。しかし、なんで、ここが、追越し違反なのというところは沢山ある。同じ一本の道路を、種々雑多な車が走っている。タンクローリーは、六十キロメートル前後出しているが、普通車両は、七〜八〇キロ以上出している。そんなところで、ずっーと、タンクローリーについて走れというのは、精神衛生上よくないと思う。

 一度、北見からの帰りに、真夜中、お巡りさんに止められたことがあった。
 その日は、ひどい霧で、前の車のテールランプを見ながら走行しているという状況だった。速度は、二〜三十キロメートルだった。まったく、前方は見えず、ハンドルにかぶさるように前を見て道路の端を確認して走るという状況だった。

「何で止められたかわかりますか?」

「いいえ、わかりません」

「あそこに、一旦停止の標識があるのですよ」

 お巡りさんが、私が回ったばかりの道路の曲がり角を指さした。

「そんなもの、見えないですよ」

「あそこに、一旦停止の標識があるのですから、一旦停止違反です」

「一旦停止の標識があるかどうか知らないけど、こんな濃霧で、前ばかりみて運転しているんですよ。トラックなら、運転席が高いから見えるかも知れないけど、私には見えなかったことは明らかですから、正式裁判で争います」

「それだと調書をとらないといけないんですけど」

「いいですよ。調書とって下さい」

「調書の紙が、交番にいかないとないんですが」

「じゃあ、早く交番で調書とって下さいよ。もう、遅いんだから」

 もう、真夜中の十二時になっているような遅い時間だった。

「じゃあ、交番まで、ついてきて下さい」

 私は、パトカーの後ろをついて行った。五分位走っただろうか、パトカーは赤信号を無視してサイレンを鳴らしながら高速で走り出した。私には、なんで赤信号を無視して走りだしたのかわからなかったが、ともかく、ついていかねばならない。私も赤信号を無視してパトカーを見失わないように高速で走った。パトカーは、橋を渡ったあと、土手のほうの道に入って止まった。
 私も、パトカーの後ろに止まった。お巡りさんが、やってきた。

「あの車が赤信号を無視して走った」

 お巡りさんの指さす方向に一台の車が止まっていた。

「そんなことは関係ないでしょう。私の方はどうなるんですか。早く調書を取ってください」

「もう、いいから。」

「あの警察に行かないんですか?」

「もう、いいから」

 私は、釈然としなかったが、真夜中の十二時を超えていたこともあり、そのまま家に帰った。

車のトラブル

釧路から根室は、一二五キロ離れている。根室の裁判所に自動車を運転して行ったところ、途中で、どうも車の調子がおかしくなったので、ガソリンスタンドに車を持ち込んだ。
 ガソリンスタンドでは、エンジンがおかしいということであった。修理しなければ運転できないという。そのままでは、釧路地方裁判所根室支部に午前一〇時迄に行くことはできない。どうしようかと思っていたところ、丁度、釧路弁護士会の先輩弁護士の車が走行してきた。そして、道路端で、途方にくれている私を見つけて、同乗させて下さった。なんとか午前一〇時迄に裁判所に行き、仕事をすませることができた。

 釧路から、北見迄は、一四五キロ離れている。私は、何時もの如く、自動車を運転して北見に向かった。途中で、突然、車がピタッと止まってしまって、動かなくなった。私にはなんでか、全くその理由がわからなかった。
 そこは、周辺には全く家がなく山道がずっと続くところだった。
 私は、車の側で通りかかる車に向かって手を振った。何台目かの車が止まってくれた。

「どうしたんですか?」

「車が動かないんです」

 その人は、私の車にのって、エンジンをかけてなんとか動かそうとしていたが、車は、全く動く気配がなかった。

「ガソリンは入っているんですか?」

「えっと、ガソリン???、何時もは、気にしているんですが、ちょっと、???」

「ああ、ガスケツだ。ガソリンが入っていないんですよ」

 近くにガソリンスタンドはなかった。

「じゃあ、近くのガソリンスタンドに行って、ガソリンを買ってきて入れるしかないですね」

「すみません」

 その人は、私に車の運転席に乗るよう指示し、その人が車の後を押して、私の車を山道に入れた。そして、私は、その人の車の助手席に乗り、約十五分位走ったところにある小さなガソリンスタンドに行き、タンクを借りて、ガソリンを購入した。私は、スタンドから電話を借りて、裁判所に電話をして事情を話して遅れることを伝えた。
 又、スタンドから、十五分走って、私の車のところまで帰ってきた。その人は、ガソリンを私の車に入れてくれた。
 新車を購入したばかりのころ、姪が二人奈良から遊びにきた。私は、網走に遊びに連れて行き、流氷館の駐車場に車を止めた。その駐車場から出る時に、うっかり、隣の車にぶつけてしまった。暫く待ったが、自動車の持主は帰ってこなかった。仕方なく、紙に、ぶつけたことのお詫びと連絡先を書いて、車のワイパーのところに挟んで帰宅した。暫くして、連絡があったが、その人は、横浜の人だった。保険会社が修理代金を払ってくれたが、私のほうの車の修理代も相当かかった。

死ぬ目に逢う

 忘れもしない一〇年位前の一一月の勤労感謝の日の前日か、翌日だった。いわゆる「クレジット名義借り事件」(被告数約二〇〇名)の訴訟が和解解決となり、和解報告会が終わって、北見から釧路に戻る時だった。酷い雪吹雪だった。夜の一〇時を超えていた。速度は、三〇キロも出していなかった。阿寒の町中に来た。そこは、片側一車線だったが、広い道路だった。私の前を大型のトラックが走っていた。私は、このままずっと、このトラックの後について釧路迄戻らねばならないと思うと鬱陶しいと思った。ここは、見通しがよく前方からも全く車はきていない。 ここで追い越そうと思った。そして、追い越しを掛けた。中央線を超えて、反対車線に入り、トラックを追い越して相当前に出て、ハンドルを切りトラックの前方に出ようとしたところ、道路の真ん中に雪が積もっていたため、ハンドルがとられてしまった。そして、私は、トラックの前を一八〇度回転して道路の路側帯の端にぶつかって止まった。私は、一瞬「死んじゃったのかな」と思った。車道は、歩道から一段下がっていた。道路に平行に止まっていた。背中がぞくぞくとした。暫くして、死んではいないことに
気がついた。そして、自動車をゆっくり方向転換した。しかし、ハンドルが曲がったような気がして自動車がだんだん斜めの方向に走っていくような気がして気持ちが悪かった。自動車は真っ直ぐ走ってくれないのだ。道路からはみ出さないように気をつけて、私は、それから、約六〇キロ、時速三〇キロ位でゆっくりと走行して帰った。

 この話は、暫く誰にもしなかった。車も特別壊れたりしていなかった。
 全く、運がよかったのだ。
 あのトラックの運転手は、びっくりしただろうと思った。

 車のタイヤをスタッドレスにした年のことだった。

 それから、私は、スタッドレスは嫌だと公然と話していた。私の運転技術が未熟だったのかも知れないが、車は、一瞬の不注意で命を落としてしまうことを身をもって知った。

 私の車のトラブルは、この位だ。