第五章 判決



論告

■犯行態様が非常に悪質である。

 本件は、いわゆる交通三悪に数えられる制限速度違反の事犯であるところ、被告人は、特別な必要もないのに、法定の最高速度(六〇キロメートル毎時)を著しく超過する九七キロメートル毎時という法外な高速運転をなしたものであって、極めて無謀かつ危険な常軌を逸する犯行というほかない。
 交通戦争と言われて久しく、いわゆる交通三悪を伴う危険かつ無謀な運転に起因する人身事故が後を絶たない現状、ことに北海道においては、交通事故による死亡者数が全国一となっている状況にあって、その死亡事故の主たる原因が速度の出しすぎによるものであるという事情を考慮すると、本件のごとき著しい制限速度違反の刑事責任は重大である。

■被告人の規範意識は乏しく、社会的な責任を放棄する独善的な態度は強く非難されるべきである。

 被告人は、当公判廷において、法定の最高速度(六十キロメートル毎時)の規制は、合理的な根拠を失っており、本件道路の道路状況においては、例え九七キロメートル毎時の高速度で運転行為うしても、交通事故を惹起することはないと供述している。
 しかしながら、法定の最高速度(六〇キロメートル毎時)の規制は、立法政策の問題であることを措いても、このような被告人の態度は、法を軽視する独善的なものというほかなく、規範意識が乏しいと断ぜざるをえない。
 即ち、道路交通においては、そこに関与する者が、交通規制を遵守しないで、自己の判断に基づき、勝手な運転を行なえば、道路交通の秩序は成立しえないことは明らかであって、お互いに交通規制を遵守し、交通の安全の確保に務めることが当然の前提となっているというべきであって、そのような予測可能性の存在なくして、道路交通の秩序を維持し、交通の安全を図ることは困難であるところ、被告人の本件行為は、自己の運転技術を過信するばかりか、交通規制を無視し、道路交通に関与する他者に対する配慮を欠くものというほかなく、社会的な責任を放棄する独善的な態度と認められる。
 交通事故を惹起しなければ、交通の安全を確保したなどということはできないのであって、むしろ交通事故の惹起する原因は、運転者が、道路状況を十分に把握しないで、道路交通に関与する他者に対する配慮を欠いたまま、自己の運転技術を過信するなどして、無謀な運転を行なうことにあるといえるが、この意味でも、被告人の本件所為は、交通事故に直結するものと評価するほかない。(この部分は、何をいわんとするか理解困難であるが、原文のままである)
 本件では、法定の最高速度を三七キロメートル毎時超える九七キロメートル毎時の速度で運転されたものであり、場所は、片側一車線の一般道であり、側道や人家もあることを考えると、具体的な危険の存在も十分に認められるというべきである。

■被告人には反省の態度が希薄であり、厳重処罰の必要がある。

被告人は捜査・公判を通じてなんら反省の情を示しておらず本件犯行を真摯に後悔し反省する態度が全くみられない。 
 このような被告人の態度に対しては、被告人を厳罰に処し、社会的な責任を思い知らせるとともに、いかにその犯行が重大なものであったかを自覚せしめ、規範意識を涵養することが不可欠である。

 求刑は、『罰金六万円』であった。

弁論要旨

 事実関係について、「誤測定」の可能性があることについてのレーダーの性能の問題についての主張。
 法律上の問題として、「速度違反の認定は、機械的、形式的に行うのではなく、交通の安全に対する危険の創出の有無や程度(殆どとか、ごくわずかとか、ある程度というような一種の量的評価を交えて)を考察した上で、構成要件該当性や違法、有責の判断をなすべきである。」と主張。
 道路交通法違反の検挙件数は最高水準時の一三〇〇万人台から八〇〇万人台に下がり、なかんずく最高速度違反の検挙件数は五〇〇万人近くから約半分の二三〇万人程度に急速にさがった。そこには、道路交通法違反と事故防止の関係や、速度違反の事故抑止効果に関する疑問が諸方面から強く寄せられたことが明らかに影を落としている。裁判所は、旧態依然たる杓子定規な解釈に固執するなく、種々の要因と契機で、捜査当局が事案の処理について妥当な判断を見失ったときや、裁判所として審理を遂げた結果たまたま裁判上の制裁を科すことが妥当でないことが判明した際には、勇断をもって当該事案につき裁判上の制裁を科すことが失当である旨宣言する権限と責任を負う。

 最近、業務上過失致死傷罪の起訴率が全国的に激減し、全送致事件のおおむね一五パーセント程度にまで下がったことが知られている。現実に事故を発生したときに不起訴で終わりそれ以上の刑事責任が問われないのに、そのニアミスに過ぎない道路交通法違反で高額の罰金が徴収されるという一種の「逆転現象」が発生している。これも、道路交通法違反事件の処理の妥当性に関する科学的で、総合的な判断の欠落の結果である。道路交通法違反を形式的に処罰することの無意味さは、今や交通刑法の適用の諸側面で一気に露顕している。

 当該道路における基準的走行速度は、規制速度ではなく、当該道路を一般的に走行する車両の速度(松宮教授はこれを『相場速度』と言う)によって判断すればよい。(本件でも、検挙対象を一七キロオーバー以上に設定していることには、その考え方が事実上一部反映していると見ることができる)。
 松宮教授は、そのような違反については起訴がなされるべきではなく、もし誤って起訴された場合や起訴後にごくわずかの危険しかないことが判明したような場合には、裁判所は裁判手続を打ち切る形で集結できるとする。
 弁護人は、伝統的な解釈を踏まえ、その様な場合にも、公訴棄却の判断がなされてよいと考えるが、打切りという裁判もまたありうると解する。
 又、弁護人は、当初に述べたとおり、仮に実体判断に踏み切むとすれば無罪の判断もありうるものと考える。

最終陳述

一、はじめに
 私が起訴された道路交通法違反事件の事件自体に関する事実関係、法的観点からの主張は、弁護人においてされますので、私は、自分が検挙された速度違反事件の審理で明らかになったこと、この事件で学んだこと、この事件について、どう思っているかについて、私の意見を述べたいと思います。

二、免許の更新手続の際の交通取締担当警察官の講義と「交通安全マップ」について
 私は、平成八年一二月一日(日曜日)、免許の更新手続に行きました。一二月一日から交通安全週間だということで、何時もの講習担当者の講義の一部を割いて、特別に、交通取締担当の警察官(以下、講師と言います)が来られて講義がありました。
 講習を受けている私達に、「この管内にもオービスが設置されている。オービスによる測定の場所がどこにあるか知っているか」との問いがありました。
 オービス設置場所の場合には、警告もあるし、運転者は、オービスの設置場所を知っていて、その場所では、スピードを落とす。しかし、オービスの設置場所の前とか、オービス設置場所を過ぎたら、又、スピードを出す。実は、速度違反取締は、オービス設置場所の少し前とか、すぐ、後で速度違反取締がされているから、気をつけるようにと、黒板にオービス設置場所の図を書きながら説明をして下さいました。
オービスの前後で事故が多いし、オービスの前後でスピードを出す人が多いということでした。
 講師は、札幌から釧路に転勤してきたということでした。釧路にきて、スピードが、釧路管内は札幌より平均で二十キロ早いことに驚いたと言いました。その理由は、すぐ隣町でも六十キロ・九十キロと離れているからだということ分かったと言われました。
 その後、講師は、私達に「釧路管内でレーダーによる測定をやっている場所知っているか」と質問しました。講師は、測定をするには、直線道路でないと駄目、測定に必要な場所を貸してもらえないと駄目。商売をやっている人が、測定場所を警察に貸したら、売上が半減する。もし、同じ場所で、一年もやったら、店がなくなるかも知れない。だから、営業に関係のない人しか場所を貸してくれない。そういうところで速度違反取締をやるから、そういう場所は、よく知っておくようにと注意して下さいました。
 又、一番、よく測定の場所を知っているのは、営業車のトラックだという話でした。その理由は、「リアルタイムで測定の場所を無線で教えてもらっている」から、そういう車両が速度を落としている時には、追い越したら捕まる、捕まるのは、馬鹿らしいから十分気をつけるようにと親切に講義してくれました。しかし、具体的な場所は教えてくれませんでした。
 一度、捕まった場所はよく覚えておくようにと念を押して教えて下さいました。
 この話の順番は違っているかもわかりませんが、同日免許更新の講習を受けた人はみんな聞いています。この講師の講義は、三〇分位で、後は、講習担当の人が約一時間半講義をしました。
 こんな「ザックバラン」な講習の講義を受けたのは始めてです。講師の方は、北海道は交通事故が多く、その原因として速度違反が多いからだというつもりで、特別講義をして下さったのだと思います。
 しかし、私は、このお話を聞いて、取締る側の警察においても、速度違反そのものについては、交通事故の原因としてあまり重要だとは思っていない、交通の流れにそって走行することが重要だが、特に遅い速度での走行車両かある時は、それにはそれなりの理由があるのだから、よく注意し、その車を追い越すようなことはしないよしに、速度違反でつかまるようなことのないようにしなさいと教えて下さったのだと思いました。そして、速度違反でつかまらないようにするためには、常時速度違反取締をやっている場所をよく知っておくことや、リアルタイムで速度取締場所の連絡を受けている営業車両が通常より遅い速度で走行しているときは、その車両を追い越さないことだと親切に教えて下さったのだと思いました。私は、この講師の人間性に、非常に親しみを覚えました。

 今回の訴訟で証拠として出していただいた「交通安全マップ」は、この免許更新手続の時に頂いたものです。私は、このような書籍が出されていることは全く知りませんでしたから、もらった直後に、私が速度違反をしたとされている国道の地図を見て、平成二年から平成七年迄の間に、車両単独事故・車両同士の事故・車両と人間・自転車との間のいずれの形態においても全く交通死亡事故が発生していないことを知りましたが、同時に、北見・美幌・網走と続く道路上において、非常に多くの交通死亡事故が発生していることを知りました。
 私が、どんなに声を高くして、私が運転していた道路は安全で速度違反取締など全く不要だと訴えても、私が北海道全域で発生した交通事故の資料を分析して、このような地図を作成するなどして、客観的な資料でそれを明らかにする等到底できません。
 私は、自分が違反をしたとして審理を受けている速度違反事件の最中に、このような速度違反事件に関係する貴重な資料を、免許更新の講習の際にもらったということは、非常て幸運であったと思いました。

三、松宮教授の証言について
 私は、松宮教授が証言されたドイツの道路交通規則では、「自動車運転者は彼が自分の自動車を常にコントロールできるような速度でしか走ってはならない。彼は、その速度をとりわけ道路、交通、視界、天候といった事情及び彼の個人的な能力、そして自動車や積荷の状態に合わせなければならない」というふうに規定されていると証言された時、雷に打たれたような衝撃を受けました。正に、このことこそ、私がこの裁判で訴えている内容、そのものだったからです。
 検事は、私に対して、「季節とか、日時、場所とか、道路状況とか、その人の力量によって適当な速度が違うという考えなのですか」と質問されました。
 私が、その質問に対して、的確な表現でお答えすることができませんでしたが、もし、ドイツの道路交通法規を知っていたならば、もっと、自信をもって的確にお答えができたと思います。私は、正に、ドイツの道路交通法規に定められた「天候・道路状況・車両の性能・運転者の状態」に見合った速度で運転することが認められるべきだと思って、この裁判を受ける決心をしたのです。
 ドイツの道路交通規則では、「霧、降雪、または降雨のために視界が五〇メートルに満たないときは、運転者はより遅く速度が指定されていない限りで時速五〇キロメートルを超えて走行してはならない。運転者は視認可能な距離以下で停止できる速度でのみ、運転してよい。しかしながら、対向車両が危険にさらされるおそれのあるほど狭い車線では、運転者は視認可能な距離の半分で停止できる速度で運転しなければならない。自動車は合理的な理由もないのに、交通の流れを妨げるような低速で走行してはならない。車両の運転者は、子供、扶助を要する人々及び老人に対して、とりわけ速度を抑えブレーキをいつでもかけられるようにしてこれらの交通関与者が危険にさらされることのないように行動しなければならない。」と定めれており、最高速度についても、各別にきめ細かく定められているということです。その概要は、集落地内では、あらゆる自動車について時速五〇キロメートル、集落地外では、乗用車及び総重量二・八トン以下のその他の自動車については、時速一〇〇キロメートルと定められているということです。この速度内で、運転者は自己の車両を常に支配できるような速度で運転しなければならないというのです。
 尚、トラックやバスは各別に最高速度が定められており、高速道路には適用がないとされています。
 私は、松宮教授の証言を聞きながら、日本においても、昭和三二年に最高速度が六〇キロと道路交通法で定められた時には、ドイツの考え方と同じ考え方だったのではないかと思いました。なぜなら、昭和三二年ころの日本の道路状況は、未舗装道路が大部分だったと思われますし、車両の性能も現在よりは格段に悪かったと思いますし、交通標識等も現在より非常に不十分だったと思われるからです。昭和三二年当時、未舗装道路を六〇キロで走ることは相当に困難だったのではないかと推測されるからです。尚、北海道においては、最高速度が七〇キロ、八〇キロに定められていた道路もあったと聞いていますが、現実にどこの道路がそのように定められていたかについては、現在調査中です。
 松宮教授の証言の中で、私は、亡くなられた伊藤栄樹最高検察庁検事総長の「交通事件の取扱い」と題するエッセイ(一九八九年九月発行「時の法令」)、元警視総監であり、法務大臣でもあった秦野章氏の「何が権力か」という書物の中の「ネズミ取りの発想はナンセンス」と題するご意見、平成元年七月当時前橋地方検察庁検事正であった亀山継夫氏の「車社会の刑事政策」と題する論文(平成元年七月発行「罪と罰」)、平成三年七月当時法務省刑事局長であった井嶋一友氏の「道路交通秩序と刑罰」と題する論文(平成三年七月発行「罪と罰」)の内容について、大変感激しました。私も、伊藤栄樹元検事総長のエッセイについては知っておりましたが、それ以外の論文については全く知りませんでした。これらのエッセーや意見は、私が、正に、この裁判で訴えたいと思ったことそのものだったからです。
 わが国の刑事司法の各所における責任者たる立場にあるすべての人が、このような立派な意見を発表されていることに涙が出るほど感激しました。
 なぜ涙が出るほど感激したかというと、法務大臣であり、警視総監であった人、法務省刑事部門の責任者たる刑事局長、検察の最高責任者たる検事総長、現職の検事正の意見は、私が、常識はずれの人間ではないということを、明らかにして下さったと思ったからです。私は、私なりに、この裁判を受けることについて悩みました。略式裁判で簡単に終わらせたほうがよいのではないかと悩みました。しかし、これら責任ある立場にある方々がこのような意見を発表されているということを知っただけでも、この裁判を受けてよかったと思いました。これら責任ある立場にある方々がこのような意見を発表されるということは、非常に勇気のいることだったと思い、尊敬いたします。
 私は、一〇年位前から、わが国刑事司法の責任ある立場にある人々が、このような意見を発表されているのに、なぜ、それが速度違反取締の抜本的な改善、道路交通法の抜本的な改正につながらなかったのか、それが、わかりません。不思議としか思われませんが、その最大の一つに、私たち在野法曹といわれる法律家の責任があると思いました。

四、今回の速度違反事件についての意見
 車載式レーダースピードメーターによる取締り記録表によれば、平成七年十月一三日の速度測定において、私が最高の速度を出していたということであり、悪質であるとされています。
 私は、この記録表をみて、次のような感想を持ちました。
 この記録表によれば、美幌町字古梅において、午前一〇時四七分から午後四時六分迄の間に八台の検挙件数がありますが、留辺蘂町字泉においては、午後一〇時三九分から同一一時四八分迄の間に三台の検挙件数があります。美幌町においては、六時間の間に八台ですが、留辺蘂町においては、僅か一時間余の間に三台です。
 留辺蘂町泉は、「交通安全マップ」Jの地図の留辺蘂の「北見温泉」と書かれた付近ですが、この幹線道路は、非常に交通死亡事故が発生していることがわかります。
 留辺蘂町における検挙数は僅か一時間余で三台ということになっていますが、違反の発見・追っ掛け・停止・調書の作成という時間を勘案すれば、ほぼ、ひっきりなしに検挙していたということではないかと推測され、交通量も相当あったのではないかと推測されます。美幌町古梅のほうは、約五時間二〇分の間に八台の検挙数です。昼間見通しのよい状態での運転と、夜間の運転との間には、いかに天気が良くても、いかに街路灯等の設備が完備していても、月夜であったとしても、その危険性の度合いが格段に異なることは常識的に明らかであります。
 夜間見通しの悪い走行車両や人通りもあると推測される道路における八〇キロでの走行と、昼間見通しのよい走行車両のない道路における一〇〇キロの走行とでは、いずれが危険性が高いかは、およそ常識的に明らかだと思います。交通事故を減少させ、安全走行をさせようとの高邁な目的からすれば、夜間見通しが悪く人どおりもあると推測される道路における八〇キロが反則金の範疇にはいり、昼間全く他の走行車両もなく人通りもなく見通しのよい道路における一〇〇キロの走行が刑事処罰の対象となるということの不合理性は明らかだと言わねばならないと思います。
 松宮教授の証言では、ドイツにおいて、最高速度は一〇〇キロと定められているが、霧が濃いときは、その半分位の速度で走行するようにと言われているということでした。具体的に天候が悪い時、夜中などその状況に応じて速度を落とすということは非常に重要です。夏も冬も、昼も夜も、天気の良いときも、悪い時も、すべて同じ法定速度を守れとする速度規制の不合理は明白だと思います。

五、私は、車の運転というのは、「いわれなき苦痛を伴う」ものであってはならない
と考えます。車は、日常生活に組み込まれたものであり、車を運転する者の手足であります。
 車の運転は、「車社会」「国民皆免許時代」といわれる世の中において、日常生活に組み込まれたものであり、車なくしては、日常生活は考えられない状態にあります。確かに東京等の大都会においては、公共交通機関が発達しており、車がなくても日常生活に不便はないかもわかりません。それでも、多くの人が車両運転の免許をとり、車を所有しております。しかし、北海道、特に釧路地方において、車のない生活は考えられません。
 憲法には、「すべて、国民は、個人として尊重される。生命・自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする」(第一三条)、「すべて国民は法の下に平等であって、人権・信条・性別・社会的身分又は門地により、政治的・経済的又は社会的関係において差別されない」(第一四条)、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」(第九九条)と定めています。
 車の運転は、ある人にとっては、仕事そのものであり、ある人にとっては、日常生活において必要不可欠な交通手段であり、ある人にとっては家族団欒の娯楽の一部となっているものであり、ある人にとっては根を詰めた仕事からの開放のための気分転換の手段であるなど、人それぞれにとって、車の運転が日常生活に占める度合い・意味合いは異なるでありましょう。
 しかし、車の運転は、普通の常識的な人間にとって、一種の緊張感を持った行為であり、誰しも、運転する自分、同乗者、道路上の歩行者・他の自動車運転者等に対して、危険性のない安全な走行をしようと考えて行っているものであります。その車の運転において一定の規制が必要なことは間違いないでしょう。しかし、その規制が、科学的・合理的であって、車を運転する者の大多数が、「納得」できるものであり、かつ、「遵守」できるものでなければなりません。「北海道の広々とした大地で車を走らせていると、自動車という偉大な発明が人間に与えてくれた快適さと利便をしみじみと感じる」ことができるような走行が、処罰の対象となるというようなことは絶対にあってはならないと思います。 釧路市の大楽毛の国道に設置されている「オービス」の場合、そこに至る道路端に二度にわたって「速度監視道路」の標識が設置されており、その次に、八〇キロ以上で走行している車両に対して、「スピード落とせ」の警告が出され、さらに、その後、一〇〇キロを越えるスピードを出している車両のみ写真をとり、検挙するということとなっているということです。この国道三八号線は、私が走行した国道よりも遙に交通量が多く、「交通安全マップ」によれば、釧路空港(阿寒方面)への分岐点から白糠町庶路に至る迄の間に、赤丸(車両同士事故による死亡事故)が4つ、青丸(車両単独事故による死亡事故)が1つあります。

このような道路においても、警告を二度出してかつ、一〇〇キロ以上の速度違反のみを検挙しているということと、私が運転していた国道二四三号線において警告なしに、一〇〇キロ以下で検挙するということとの間には、明らかな不平等があると思います。
 北海道大学の木佐教授は、法学教室という法律雑誌に行政法の演習で「交通取締りと行政救済」の項目で、速度測定の問題を検討されています。その中で、「高性能のレーダー探知器が発売され倫理観からこれを取付けていない者との間に不平等がある」と指摘されています(法学教室・99・95頁)。私も、何度か、「レーダーを設置したら」との温かい助言をいただきましたが、そのようなことは、卑怯だと思い、設置しておりませんし、将来も設置するつもりはありません。
 ある裁判官は、免許はとったが、全く運転はしていない、今は「ゴールド免許」だと話しておられました。釧路において公安委員になった人は、例外なく、自分で自動車を運転することを止めるという話も聞きました。免許を取得した人が、安心して車両の運転をすることができない、そんな馬鹿げたことはありません。
 自動車を運転するものの大半を犯罪者とする法律は、憲法上保障されている国民の幸福追求の権利を踏みにじるものであると言っても過言ではないと思います。
 私は、日本の国の国民の一人として、日本という国について誇りを持ち、日本人であるということに誇りを持ちたいと念願しています。
 私が居住しています釧路管内において、雪が降ったり、雨が降ったり、夜中であるなどの悪天候ではなく、天候状態のよい郊外の道路を法定速度で走行することはできません。
 私は、道路交通法に定められた最高速度(法定速度)での運転を刑罰で強制することの問題について、如何に不勉強であったか、如何に、自分の職務に誠実でなかったかを恥じております。
 私は、私が速度違反をしたとされる形態について、何か、自分を非難できる理由があれば、あえて、正式裁判を求めることはなかったと思います。多数の車両が走行していたとか、人通りが多かったとか、見通しが悪かったとか、天候が悪かったとか、何か、自分が反省をする拠り所となる条件があれば、あえて、正式裁判を求めるということはしなかったと思います。
 しかし、私は、どのように考えても、あの直線道路で、快晴という天候状態で、道路に隣接した家屋もなく、道路上になんの障害もない状況において、私が走行していた速度が危険であったとは、思えません。
 私は、この裁判で、検事から「被告人の規範意識は乏しく、社会的な責任を放棄する独善的な態度は強く非難されるべきである」と言われ、「被告人には反省の態度が希薄であり、厳重処罰の必要がある」とされ、「被告人は、捜査・公判を通じてなんら反省の情を示しておらず、本件犯行を真摯に後悔し反省する態度が全くみられない。このような被告人の態度に対しては、被告人を厳罰に処し、社会的な責任を思い知らせるとともに、いかにその犯行が重大なものであったかを自覚せしめ、規範意識を涵養することが不可欠である」と厳しく糾弾されました。
 私は、私の真意が検察官に理解していただけなかったこと、いかに検事が口を極めて糾弾されても、私が真摯に反省することができなかったことを残念に思います。

 日本の国においては、正直であることが犯罪となるのでしょうか。

 日本の国においては、面従腹背でなければ生きていけないのでしょうか。

 無線を設置し、リアルタイムで取締り状況の連絡を受けて走行する者、免許はとったが全く自動車を運転したことがない者が無事故無違反の優良運転者とされる、そんな不合理なことは許されるべきではないと思います。
 私は、科学的で、合理的で、納得の行く交通行政が行われなければ、交通事故を減少させることはできないと思いますし、運転者が、真に「責任」を自覚して運転することはできないと思います。

判決

 平成九年三月二四日、求刑通り「罰金六万円、一日五、〇〇〇円に換算した労役場留置」の判決が下された。
 判決によれば、「速度違反の罪は、いわゆる抽象的危険犯であるが、この規定は、道路交通の安全を確保するための行政取締規定であって、処罰の対象となる行為が、規範的な理解による解釈の余地を残さず、画一的に規定されていることからすると、この規定の処罰根拠となる抽象的な危険がない場合を想定することはできないというほかなく、本件における被告人の運転行為は前記速度違反の罪の抽象的な危険う有していたことは明らかである」とされた。

 この判決を聞いて、私は、裁判官は、はっきり言って、判断を放棄したのだと思った。

 即日控訴した。