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ザルツブルクの人々

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Johann Lorenz Hagenauer

1712 - 1792

ヨハン・ローレンツ・ハーゲナウアーはザルツブルク旧市街ゲトライデガッセ9番地の建物とデリカテッセン販売の営業権を祖父から相続し、1階でデリカテッセンの店を営んでいた。 夫人マリア・テレジア(旧姓シュースター)と協力して商売に励み、当時ザルツブルクにあった12のデリカテッセン店のうち4番目の地位を獲得していた。 子供の数は11人。 1712年8月10日に生まれ、1792年4月9日に同地で没した。

レオポルト・モーツァルトはこの4階(ヨーロッパ式に数えると3階)を借りて住んでいた。 1756年1月27日、ヨハネス・クリュソストムス・ヴォルフガングス・テオーフィルス・モーツァルト(Joannes Chrysostomus Wolfgangus Theophilus Mozart)が誕生。 1880年にモーツァルテウム財団はこの4階部分を一般公開。 さらに1917年に建物全体を入手し、現在この生家はモーツァルト記念館になっている。

デリカテッセンの香りは建物全体に漂い、4階に住んでいたモーツァルト一家も毎日その香りに包まれていただろう。 幼いモーツァルトと姉ナンネルはハーゲナウアーの店でお菓子をもらっていたという。 ハーゲナウアー家とモーツァルト家は子供たちも含めお互いに親密な交際が生涯保たれていた。 ハーゲナウアーの息子で、幼なじみのカイェタン(Cajetan 1746〜1811)が修道院に入るとき、モーツァルトは『ドミニクス・ミサ』(K.66)を書いている。


モーツァルトが17歳になるまでこの家に住んでいたが、1773年9月、一家はもっと大きな住居に引っ越した。

ハーゲナウアーとレオポルト・モーツァルトの関係は非常に重要である。

ヨハン・ローレンツ・ハーゲナウアーは、26年間にわたってモーツァルト家の大家であったのみならず、この一家の忠実な友人でもあった。 彼は、大司教への有力な「つて」をこの一家のためにふるに活用してやったばかりでなく、ビジネス面でもおおいに彼らを援助していた。 彼は、自分の取引先ならヨーロッパ中どこでも換金できる信用状を発行し、クレジットカードの発案されるずっと以前、すでに、現金払いなしの旅行ができるよう、この家族に取り計らってやっていた。 一方、その代償として、ハーゲナウアーはモーツァルト一家から商売上の重要な情報を得ていた。 たとえば、レオポルト・モーツァルトは彼に、1763年夏のアムステルダム不況の影響でフランクフルトのいくつかの商家が倒産したことを書簡で知らせている。 この他にも、外貨交換率、購買力の比較、多額の仕入れ等の話題についても二者間でやりとりされていた。
[ヘルミンガー] p.31
こうして、レオポルト・モーツァルトは旅先から家主ハーゲナウアーに多くの手紙を書き送ったのである。
 
 

Franz Joseph Johann Nepomuk Bullinger

1744 - 1810

ザルツブルクでのモーツァルト家の友人。 僧院長。 旅行の費用を貸してくれた。


 

〔参考文献〕

 


2013/12/01
Mozart con grazia