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なぜモーツァルトの曲は多くの人に愛されるのか? 私も(その一人として)なぜ彼の音楽に惹かれるのか? モーツァルトの音楽の神髄とは何か? どこにあるのか?

このことについて、古今東西、有名無名の実に多くの人が意見を述べているが、ここでは、その中の一つだけを紹介したい。(私も同じように感じているから) もちろん他の意見は見当違いだと言うつもりではないことを最初に断ってもおきたい。言葉こそ違え、皆同じことを言っているように思う。

まず、ここにウィーンからモーツァルト(26才)がザルツブルクにいる父へ送った手紙(1782年12月28日)がある。

することが多くて、何から手をつけていいか時には頭が混乱します。午前から2時までは授業で、食事の後は約1時間、哀れな胃袋に消化の暇を与えねばなりません。 書き物をするのは夜だけですが、これまたよく演奏会に頼まれるので、あまり確実じゃありません。 今のところ僕の予約演奏会にあと2曲のピアノ協奏曲(K.413K.415)を書かなくてはなりません。 これらは、やさし過ぎもせず、むつかし過ぎもせず、その中間で、とても輝かしく、耳に快く、自然で、音楽通だけが満足するところでありながら、通でない人たちにも何故かきっと満足するように書かれています。 予約券は6ドゥカーテンです。そのほか出版されるはずのオペラの抜粋も仕上がっているし、同時にジブラルタルに取材した賛歌 K.386d (Anh.25) の作曲という実に厄介なものも手がけています。 その詩は大袈裟で熱っぽく聞こえます。今の人たちはあらゆるものについて、中庸、つまり本当のものを知らないし、尊重もしません。 喝采を得るには、町の馭者でも歌えるほどやさしいか、常識家には理解できないほど難しいということで気に入られるか、といったものを書かねばなりません。 でも、僕の言いたいことは別のことです。

柴田治三郎氏編訳「モーツァルトの手紙(下)」(岩波文庫)

この手紙(ほかにも似たような内容を述べた手紙もあるが)から、モーツァルトの音楽の神髄(あるいは芸術に対する彼の信条)とは次のようなものであろう。

誰にでも分かる通俗性と音楽通にしか分からない名人芸とを絶妙に融合させ、効果的に、魅力的に、しかも自然な流れとなるように作らなければならない。

そのように隅々まで計算されつくされた作品だから、通俗的に作られた私の体は何の拒否反応を示すこともなくその音楽を受け入れ、生き返る感じがするのだと思う。 そして、演奏家の違いなどによって新たな発見の楽しみがあり、いつまでも飽きることがないのも、ここにその理由があるのだと思っている。 フィッシャーが言っている、「形式的よそおいはきわめて単純であるにもかかわらず、モーツァルトの曲の演奏がむずかしいのはそのためにほかならない」と。

また、音楽療法で有名なトマティスは「なぜモーツァルトなのか」について、次のように断言している。

モーツァルトには他の作曲家たちにはない効果と影響力がある。彼の曲には特別に痛みから解放し、治癒する、いってみれば、癒しのパワーがある。 彼の音楽は、その先達・・・同時代の人、後輩をはるかに抜きん出ている。

なお、よく知られているように、上の手紙には「僕はできたら本を1冊、実例つきの小さな音楽批評の本を書きたいのです。ただし僕の名でなく。 Ich haette lust ein Buch, -- eine kleine Musicalische kritick mit Exemplen zu schreiben. -- aber NB: nicht unter meinem Nammen.」とも書いているが、実現していたらどんなに良かったか、と残念に思う。

ところで、このページの最後に、フィッシャーの「音楽を愛する友へ」の中から一節を引用したい。 なぜなら、私がこのホームページのタイトルを何にしようか迷い、かつて読んだ本をあれこれ当ても無く目を通していたとき、フィッシャーの「優美に con grazia」という言葉に出会ったからである。

モーツァルトは決してお砂糖の利いた、あまったるい音楽でもなければ、工匠の細工物でもない。 モーツァルトは心の試金石なのだ。彼によって、われわれは趣味や精神や感情のあらゆる病患から身を護ることができるのである。 ここには、簡素にしてしかも気高く、健康で、かぎりなく澄みきった一つの心情が、音楽という神々の言葉で語りかけているのである。
Edwin Fischer (佐野利勝訳)

参考文献
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