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Emanuel Schikaneder

1751 - 1812

1751年9月1日、シュトラウビングに生まれ、本名はヨハン・ヨーゼフ・シッケンエーダーといった。 レーゲンスブルクのイエズス会の学校で学び、1773年頃、モーザー(Franz Joseph Moser)の一座に入団した。 1777年に一座の団員だったエレオノーレ(本名 Maria Magdalena Alt, 1751 - 1821)と結婚。 1778年には一座の座長になった。 その後、一座を率いて数年間、旅回りの巡演をし、ザルツブルクにも来演した。 また、1780年9月17日、シュミット作「領主の好意」を公演したとき、シカネーダーは上演期間中、モーツァルト家に全席自由の入場を許したという。 このようなことからモーツァルトとは旧知の仲となる。

モーツァルトがウィーンで活動するようになってから、しばらくしてシカネーダーも一座を引き連れてウィーンに出てきた。 1784年11月には、クンプフ(Hubert Kumpf)と共同してモーツァルトの「後宮からの誘拐 K.384」を、ヨーゼフ2世臨席のもとケルントナートーア劇場(ウィーンで「ブルク劇場」につぐ第2の宮廷劇場)で上演した。 さらに、1785年には「フィガロの結婚」の上演を計画したが、「人に不快感を与えるものを多く含んでいる」ので、上演は許可されなかった。

1785年から翌86年までウィーンのブルク劇場と契約したり、その後ふたたびザルツブルクに巡演したりしていた。 また、妻エレオノーレは別の一座を結成し、巡演していた。 1789年、フリーデル(Johann Friedel)の跡を継いで、ウィーン郊外のヴィーデンにあった「フライハウス劇場」(または「ヴィーデン劇場」ともいう)の監督となり、ドイツ語による台本を多作し、大衆的な音楽劇を盛んに上演するようになった。 作曲はおもにシャックが担当し、ときにゲルルも作曲に加わった。 そのオーケストラには35人もの奏者がいたという。 指揮はヘンネベルクが務めていた。 また、シカネーダーはいつの頃かフリーメーソンに属していたことも知られている。

モーツァルトも作曲を手伝ったものに、「賢者の石、またの名、魔法の島」がある。 それにはゲルル、シャック、ヘンネベルクが作曲したが、モーツァルトは喜劇的二重唱「いざ、いとしき乙女よ、共に行かん」 K.625 (592a) に曲を書いた。 このオペラは1790年9月11日にヴィーデン劇場で初演され、シカネーダー自身も出演している。

1791年3月、モーツァルトにドイツ語劇「魔笛」K.620の作曲を依頼した。

魔笛の家
この頃、妻コンスタンツェ(フランツ・クサヴァーを身ごもっていた)がバーデンに保養に行き、弟子ジュスマイヤーや当シカネーダーの家で食事をさせてもらうなどして孤独だったモーツァルトを慰め、ヴィーデン劇場近くの小屋(右の写真)に住まわせ、オペラの作曲に没頭させた。 その小屋は1897年にザルツブルクに移され、「魔笛の家」と呼ばれ、その後モーツァルテウムの庭に移されて現在に至っている。

国際モーツァルテウム財団本部の庭園内にはウィーンから『魔笛の小屋』が移築されている。 写真の左手に緑の苔が生えた屋根が見えるのがそれである。 7、8月モーツァルテウム・ホールでコンサートがある時だけ訪れることができるという。

JPEG 45 KB 1791年9月30日「魔笛」の初演。モーツァルトがピアノを弾きながら指揮をし、ジュスマイヤーが譜めくりをした。 シカネーダーはパパゲーノを演じ、また彼の兄(Urban Schikaneder, 1746 - 1821)はモノスタートス役だった。 初演はあまり成功とは言えなかったが、10月2日に再演され、人気は次第に上昇した。 シカネーダーの劇場は宮廷劇場と違って、一般庶民のものだった。ようやく時代が変わろうとしていたが、モーツァルト自身はそれを見ることなくこの世を去る。
左の写真はザルツブルク旧市街にあるパパゲーノ像。 ただし、それがシカネーダーをモデルにしたものというわけではない。

「魔笛」のほかにシカネーダーの詩になる作品として次がある。

1801年、新しく「アン・デア・ウィーン劇場」を開設したが、翌年それを売却した。 1806年から1809年までブルノ劇場で監督を務めた。 1812年、ブダペストで新しい劇場を引き受けたが、精神病のため、ウィーンに戻され、その年の9月21日死亡。
 
 

Benedikt Emanuel Schack

1758 - 1826

1758年2月7日ミロチツェに生まれ、プラハのイエズス会の聖歌隊に入った。 1776年からウィーンで声楽を学び、1786年にシカネーダーの一座に加わった。 シカネーダーが次々と書き上げる台本に曲をつけていた。 そのとき、モーツァルトに助けてもらったこともあるらしい。 1791年9月30日の「魔笛」初演のとき(33歳)、タミーノ役となった。 また、そのとき妻エリーザベト(Elisabeth Schack, 旧姓 Weinhold)は第3の侍女の役だった。
モーツァルトが死の床にあったとき、ゲルルとともに「レクイエム」の歌い合わせに参加した。 さらに、ゲルルとともに葬儀に参列したことも知られている。
その後ウィーンを離れ、グラーツ、ミュンヘンに移り住んだ。 ミュンヘンでは娘アントーニエ(1784 - 1851)も歌手として働いていたことが知られている。
1814年にシャックは引退し、宗教音楽の作曲で余生を過ごし、1826年12月10日、ミュンヘンで没した。
 
 

Franz Xaver Gerl

1764 - 1827

ザルツブルクでレオポルト・モーツァルトの弟子で、1785年にバス歌手となる。 のちに、シカネーダーひきいる一座に加わり、歌手兼俳優として活躍。 また、シカネーダーが次々と書き上げる台本にシャックとともに曲をつけていた。 モーツァルトとは1777年以来の友人であり、モーツァルトが死の床にあったとき、シャックとともに「レクイエム」の歌い合わせに参加した。 さらに、シャックとともに葬儀に参列したことも知られている。
JPEG 60 KB 妻バルバラ(Barbara Gerl, 1770 - 1806, 旧姓 Reisinger)もシカネーダーの一座のソプラノ歌手。 1791年9月30日の「魔笛」初演のとき、ゲルル(27歳)はザラストロ役となり、バルバラ(21歳)はパパゲーナを歌った。 右の写真はザルツブルクのミラベル宮殿内にある「パパゲーナ像」。 ただし、その像がバルバラをモデルにしたものというわけではない。

1793年、ゲルル一家はウィーンを離れ、ブルノに移り住んだ。 それからさらに、1802年からはマンハイムで生活。 バルバラは第2子の誕生後に没した。 ゲルルは1826年に歌手を引退し、バルバラの姉マリーア・マグダレーナ(Maria Magdalena, 1768 - 1839)と再婚した。 彼女はマインツの劇場監督ゲオルグ・デングラーの未亡人だった。
 
 

Johann Baptist Henneberg

1727 - 1791

ヘンネベルクはシカネーダーの一座の指揮者であり、やはり作曲もしていた。 そして、「魔笛」の上演でも(最初の2回までは作曲者のモーツァルト自身だったが、その後は)指揮をしていた。
 


 
2005/11/12
Mozart con grazia