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ウェーバー家。 父(Franz Fridolin Weber, 1733-79)はヴァイオリン奏者、歌手、写譜家としてマンハイム宮廷に仕えた。 くしくもモーツァルトが生まれた1756年にマリア・チェチーリア・シュタム(Maria Caecilia Stamm, 1727-93)と結婚した。 二人の間に4人の娘と3人の息子ができた。
ただし、モーツァルトは父に「5人の娘と1人の息子がいる」と伝えている。(1778年1月17日の手紙)
フリドリンの弟フランツ・アントン(Franz Anton 1734-1812)はマンハイム宮廷音楽家。彼は1785年ゲノフェーファ・ブレンナー(Genoveva Brenner 1764-98)と再婚した。
二人から作曲家カール・マリア・フォン・ウェーバー(Carl Maria von Weber 1786-1826)が生まれている。
1762年1月5日ツェルで生まれた。
1782年、モーツァルトと結婚。右はその頃の肖像画。義兄ヨーゼフ・ランゲが描いた。
モーツァルトが彼女のためにかいた作品は、なぜか未完のものが多い。
1797年、デンマークの外交官ニッセンと親しくなった。
右は1802年、ハンス・ハンゼンが描いた油絵。
1809年、ニッセンと再婚。
1820年、ザルツブルクに移住。
1826年、ニッセンの死後、ゾフィー・ハイベルと共に暮す。
1842年3月6日ザルツブルクで没。
ザルツブルクの聖セバスティアン教会の墓地に眠っている。
左の写真の中央にある大きな墓は「コンスタンツェ・フォン・ニッセン」のもの。
その右下の小さな石版がレオポルトの墓標。
レオポルトは同じ墓地に眠り、妻と息子ヴォルフガングの墓はなく、娘ナンネルは別の所に眠っている。
さらに、その聖セバスティアン教会の墓地には、コンスタンツェの2番目の夫ゲオルク・ニッセン、コンスタンツェの姉アロイジア、妹ゾフィーが埋葬された。
1761年1月22日ハデルスレフに生れた。
デンマークの外交官で、1793年ウィーンへ赴任。
1797年コンスタンツェと親しくなり、1809年に結婚。その後コペンハーゲンに移住。
1820年ザルツブルクに移り、モーツァルトの伝記を書いたが、それが世に出たのは死後。
1826年3月24日ザルツブルクで没。
1828年「W.A.モーツァルトの伝記」(オリジナルの書簡ならびに彼について書かれた全資料に基づき、多数の新資料、石版画、楽譜、ファクシミリを収録)約2千部を刊行した。
予約購入者は600名を越え、中にはオーストリア皇帝をはじめとする王侯貴族や、音楽家メンデルスゾーンなどがいたという。
ウェーバー家の長女。1780年頃からソプラノ歌手として活動。
1788年7月21日、ウィーンでフランツ・ホーファーと結婚。
1789年、モーツァルトは彼女のためにアリア「はや、やさしき春はほほえむ」K.580を書いた。
1790年、シカネーダー一座の「魔笛」K.620初演のとき、夜の女王を歌った。
夫フランツ・ホーファーの死後、1797年、歌手で俳優のF.S.マイヤー(1773-1835)と再婚。
ヴァイオリニスト。1780年からウィーン聖シュテファン大聖堂に、1787年からは宮廷楽団にあった。 1790年、モーツァルトに同行してフランクフルト、マンハイム、ミュンヘンを旅している。
モーツァルトが死の床でレクイエムK.626を作曲していたとき、テノールで歌い合せに協力した。
1763年10月ツェルで、ウェーバー家の末娘として誕生。
1807年ディアコヴァール大聖堂の聖歌隊長ヤコブ・ハイベル(1762-1826)と結婚。モーツァルト晩年の頃ウィーンの母のもとにいた。 そしてモーツァルトの臨終に立会い、手記を残した。
1826年、夫ハイベルの死後はザルツブルクの姉コンスタンツェのもとにいった。そしてニッセンの「モーツァルト伝」執筆に貴重な資料を提供した。
1846年10月26日、ザルツブルクで他界。
作品