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1790年

34歳

1790年1月




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1月

26日、ブルク劇場で、昨年秋から作りはじめていた(ダ・ポンテ詞になる)

の初演。 この月 を作曲したかもしれないが、紛失。

1790年2月
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2月

2月から5月にかけて、プフベルクに無心する手紙を次々に書いている。 詳しい文面については、「モーツァルトの手紙、上・下」(柴田治三郎、岩波新書)などを参照されたい。

20日には、横取りしたビールのことを詫びて、ほんの数日の期限で数ドゥカーテンを貸して欲しいと書いている。
これに対して、プフベルクは25フローリン送金。

同じ日、皇帝ヨーゼフ2世(1741-)が死去。 ウィーンは喪に服し、オペラの上演がいっさい中止されることになった。 後継の弟レオポルト2世は劇場や音楽に関心が薄く、モーツァルトを取り巻く状況は悪化し、ダ・ポンテもウィーンを去ることになった。

1790年3月
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3月

13日、ヨーゼフ2世の後継者としてフィレンツェからレオポルト2世がウィーンに到着した。 ただし実際に帝位に就くのは9月30日である。 モーツァルトは人事異動により自分が宮廷の副楽長に採用されることを期待して請願書を提出した。

3月末か4月始めにモーツァルトは、ファン・スヴィーテン氏の書付けを同封し、「もう一度、これを最後にして」と前置きしながら無心している。 これに対して、プフベルクは150フローリン送金。
その手紙には

ご承知のとおり、私の現在の事情は、もし表向きになったら、宮廷での私の請願についても、私にとってまずいことになりかねません。 そのためこれは秘密にしておかなければならないわけです。
と書かれてあり、モーツァルトが秘密裏に副楽長の座を狙っていることと、新任の皇帝が宮廷の根強い抵抗をはね除けてくれることに期待していることが読み取れる。 しかし不首尾に終ることになる。

1790年4月



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4月

8日頃に、ハーディク伯爵の音楽会で、シュタードラー五重奏曲と(モーツァルトがプフベルクのために書いた)トリオを演奏するので、招待することを伝え、借金を申し出ている。
明金曜日に、ハーディク伯爵がシュタードラー五重奏曲と、私があなたのために書いたトリオを聴かせてもらいたいということです。 勝手ながら、それにあなたをご招待いたします。 ヘーリングが弾きます。 お伺いしてじかにお話しいたすべきですが、リューマチ気味の痛みで、頭がすっかり縛られているようで、このため私の状況が一層こたえて来ます。
ハーディク伯爵(Johann Karl Graf Hadik)はハーディク元帥の息子で、ハンガリー宮廷に仕えていた。 シュタードラー五重奏曲とは「クラリネット五重奏曲 K.581」であり、プフベルクのために書いたトリオとは「弦楽三重奏のためのディヴェルティメント K.563」である。 ヘーリング(Johann Baptist von Haering, 1761?-1818)はヴァイオリン奏者であり、また収集家でもあった。 プフベルクは彼をよく知っていたと思われる。 その演奏の際、モーツァルトはヴィオラを弾いたのだろうか。 なお、モーツァルトのこの無心に対して、プフベルクは25フローリン送金。

1790年5月





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5月

17日頃には、一文なしになってしまったので、プフベルクにいくらでもいいから貸して欲しいと願っている。
今はもう一文なしになってしまい、最愛の友であるあなたに、何とかして、あなたのほんのご不用な分だけでもお貸し下さるよう、お願いせざるをえない次第です。 ・・・ このごろはずっと私の四重奏曲の完成も妨げられています。 ・・・ 今度の土曜日には私の四重奏曲を自宅で演奏するつもりです。 その時は奥さまもご一緒にぜひお出で下さい。 ・・・
これに対して、プフベルクは150フローリン送金。 「私の四重奏曲」とは「プロシャ王」と呼ばれる「弦楽四重奏曲第22番変ロ長調 K.589」かまたは「第23番ヘ長調 K.590」である。

モーツァルトが5月前半にオーストリア大公フランツに宛てて書いた請願書の下書きが残っていて、宮廷の副楽長として採用されたいこと、楽長のサリエリは教会音楽を学んだことがないが、自分は幼時からそれに親しんでいること等が申し立てられている。 ただし不首尾に終った。

この頃ヨーロッパでは短いちぢれ毛が、おさげ髪とはりねずみスタイルに代って流行していた。 その姿はサリエリを見よ。

チェロ奏者でもあったプロシャ王フリードリヒ・ウィルヘルム2世との約束の

を作曲。

1790年6月

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6月

最後の弦楽四重奏曲となる を作曲。

楽譜の出版をコジェルフのところで自費版刻しようとしたが、金が工面できず、やむなくアルタリアという出版社に二束三文で手放した。 これらの連作の楽譜は、モーツァルト死後1791年12月ウィーンのアルタリア社から出版された。
コジェルフ(1747〜1818)は抜け目のない男で、モーツァルトが最晩年に得た帝室作曲家の地位を彼の死後手に入れ、前任者の倍近い年俸を取った。 → 1787年12月6日

妻コンスタンツェの療養先のバーデンに行き、倹約のためにそのままそこに留まっていたが、オペラ「コシ・ファン・トゥッテ」を指揮するためにウィーンに出てきて、 12日頃、プフベルクに借金を申し込む手紙を書いた。 その中で、金に困って弦楽四重奏曲「プロシャ王」セットを二束三文で手放したこと、ピアノソナタを書いていること、バーデンで「戴冠ミサ曲」が演奏されることを伝えている。
これに対して、プフベルクは25フローリン送金。 その手紙にある「ピアノソナタ」は確定できないが、

と関係あるかもしれない。 なお、この頃からモーツァルトは歯痛、頭痛、風邪、不眠などに悩まされるようになっていた。

1790年7月



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7月

スヴィーテン男爵の依頼で、ヘンデルのオラトリオ を編曲した。

8月

14日、プフベルクへ借金の手紙を書いているが、そこには「昨日さんざん歩いて汗をかいたので、風邪をひいたらしい。 そのために一晩中苦しくて眠れなかった。 病気のところへ、心配と気遣いが一杯の状態で、回復できないでいる」と窮乏をうったえている。
これに対して、プフベルクは10フローリン送金。

月末、シカネーダーの台本により、ベネディクト・シャックはオペラ「賢者の石」を作曲しようとした。 このときモーツァルトも手伝ったらしく

を作曲。

1790年9月


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9月

11日、オペラ「賢者の石 Stein der Weisen」の初演。

23日、モーツァルトは義兄でヴァイオリニストのフランツ・ホーファーと下男のヨーゼフの3人でウィーンを出発し、フランクフルト・アム・マインに28日に到着した。 その地で行われる皇帝レオポルト2世の戴冠式に際して、演奏会を開いて収入を得ようと考えていた。 この旅行のための資金として、富豪ラッケンバッヒャーから千グルテン借りた。

・・・ 当地の特権を有する商人にして高貴な生まれのハインリヒ・ラッケンバッヒャー氏は私の求めに応じて、又私の当座の必要のために元金1000フローリン即ち千グルデンを私に貸与され、いかなる割引きもなく現金で手渡されました。・・・
・・・ 私、私の相続人、子孫はこの元金を前記の貸主、その相続人、又は新たな債権者に2年後の本日、予告なく、前記と同じ金種により、何等の抗弁なく返還致します。 但し同貨幣により百分の五の利子をつけます。・・・
旅先から、モーツァルトはまるで日記を書くように、妻コンスタンツェに手紙を送っている。 宛先は、コンスタンツェがウィーンにいるかバーデンにいるか分からないので、ホーファー夫人ヨゼファにしている。

28日、フランクフルト・アム・マインから妻へ「馬車が快調に走ったので旅がとても素晴らしかったこと、途中のレーゲンスブルク、ニュルンベルク、ヴェルツブルクなどでの食事の様子」などを、いつものように詳しく手紙で伝えた。 そして、妻の健康を心配し、また絶望的な状態に陥ることがないように仕事を出来るだけよくしようと固く決心していることも書いている。

同じ日、ヨーゼフ・ハイドンは雇い主ニコラウス・エステルハージ侯爵の死去により自由の身となった。 新侯爵は「カペルマイスターの肩書きと年金1000グルテン」をそのまま与え、仕事は命じなかったという。

30日、フランクフルトから妻へ「返事を待っている。家に帰るのが子供みたいに嬉しい。自分の周りは何もかも氷のように冷たい。」

1790年10月




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10月

3日、フランクフルトから妻へ「時計師のためのアダージョをすぐに仕上げて、愛する妻の手に何ドゥカーテンかを握らせようと決心したが、とても厭な仕事なので、さっぱりうまく行かない。 翌日の月曜日に皇帝レオポルト2世の入城があり、一週間後に戴冠式が行われる。」

4日、レオポルト2世一行がフランクフルト到着。 ウィーンからはサリエリを始め、十数名の音楽家が派遣されたが、モーツァルトには声がかからなかった。 彼はこの祝典でチャンスを掴むことを期待し、多額の借金と質入れまでしてフランクフルト行きを決心した。 しかし何の成果も上がらず、借金だけが残った。

8日、フランクフルトから妻へ「水曜か木曜に自分の演奏会を開き、金曜にはトットと帰るつもりだ。ウィーンで一生懸命働き、生徒を取れば、きっと不自由をせずにすむはずだ。」

9日、レオポルト2世の戴冠式が行われた。 戴冠式にはベートーヴェンの「レオポルト2世皇帝即位によせるカンタータ」が演奏されたともいわれる。

四重奏の予約演奏会は実現しなかった。ホフマイスターは1785年に3曲のピアノ四重奏の出版を契約した。 その第1曲K.478に対して(1785年11月20日の手紙)前払金を渡した。 しかし、あまり受けなかったので、前借を帳消しにする条件で契約は破棄された。

15日、フランクフルトから妻へ「この日、自分の演奏会があったが、金銭的には貧弱なものに終った。 いろいろ邪魔が入ったからだが、自分は上機嫌だし、みんなに大変喜んでもらえて、今度の日曜にもう一度発表会を開くと約束された。月曜にフランクフルトを立つ。」

フランクフルト市立大劇場で開いたこの演奏会で、交響曲第39番K.543、ピアノ協奏曲K.459、K.537を(シュタインのフォルテピアノで)演奏した。 しかし戴冠式にちなんで作曲されたヨハン・イグナツ・ワルターの「カンタータ・サクラ」の上演と日が重なったため、モーツァルトの収益はなかった。

17日、マインツから妻へ「前の手紙を書いていると、涙がポタポタ紙の上に落ちた。でも今は元気。ほら、つかまえろ。びっくりするほど沢山のキッスが飛び回っている。 こん畜生! 僕にもいっぱい見える。ハッハッハッ! 3つひっとらえた。こいつは貴重なものだ!」

22日、マインツで副宰相コロレド侯爵を招いた音楽会があり、モーツァルトはピアノを共演し、165フローリン得た。 コロレド侯爵はザルツブルク大司教コロレド伯爵の兄。

23日、マンハイムから妻へ「明日、シュヴェツィンゲンの庭園を見に行く。今晩ここで初めて『フィガロ』が上演される。それから明後日ここを立つ。 ここにいるのは『フィガロ』のためにほかならない。出演する人達が、ここにいて試演に立ち会ってくれと頼むのだ。 17日にマインツから出した手紙は受け取ったろうね。出発の前日に選帝侯の屋敷で演奏したが、たった15カロリン貰っただけだ。 Hの件はうまくいくようにがんばりなさい。もう2週間で、つまりこの手紙が着いて6日か7日したら、間違いなくお前が抱ける。 でもまだアウクスブルクとミュンヘンとリンツから手紙を出す。」

26日、ロンドンのイタリア座支配人オレイリから、イギリスでの作曲家の地位を提供するという手紙が届いた。 手紙はフランス語で書かれ、1790年12月末にロンドンに着き、翌年6月まで滞在してオペラを少なくとも2曲作ってくれれば300ポンド支払うなどの条件が明記されている。 返事が欲しいと書いてあるが、この申し出をモーツァルトが知ったのはウィーンに帰った11月上旬であり、どう返答したかは不明。 結局ウィーンを離れなかったところを見れば、断わったと思われる。自分の健康の衰えや妻の病気などの理由が考えられる。
ただし、この時期、ロンドンからザロモンという興業主が、ハイドンとモーツァルトの二人とそれぞれロンドンで仕事をする契約を結ぶ目的で、ウィーンを訪れていたので、本当のところは謎である。

29日、アウクスブルクの旅館「ツーム・ヴァイセン・ラム(白羊館)」に泊る。そこはかつて21才のとき母と一緒にパリに向う途中に寄った思い出のところだった。 なお3月16〜19日、この宿にゲーテも泊っている。

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11月

4日頃、ミュンヘンから妻へ「マンハイムの滞在は1日だけにしようと思っていた。ところが選帝侯がナポリ王のために演奏会をしてくれと頼むものだから、5日か6日まで留まらなければならない。 王が他国で僕の演奏会をどうしてもお聴きになるなんて、ウィーンの宮廷にとって大いに名誉なことだ。お前の所へ帰るのが楽しみだ。 話がたくさんあるからだ。今度の夏の終りに可愛いお前とどんな風に遊び回ろうか考えている。違った温泉地へ行ったら、気晴らしや運動や違った空気がお前の病気に効くだろうし、 僕の体にも大変いい。さて、カンナビヒの所へ行かなければならない。演奏会の稽古がある。さよなら、可愛い妻よ。いつまでも、死んでもお前を愛している。」

上旬、愛妻の待つウィーンに帰る。 留守中に引越しがあり。新居はラウエンシュタイン通り970番地の2階。 彼の最後の住まいとなり、1年後ここで息を引き取る。 この頃、エステルハージー公の死去により自由の身となっていたハイドンは興業主ザロモンの勧めでロンドン行きを決心していた。

1790年12月


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12月

ハンガリーのトストのために を作曲。

前月から書き始めていた

をなんとか仕上げた。 これは、7月14日に死んだロウドン元帥を記念する霊堂を建設するにあたり、ダイム伯爵がモーツァルトに時計用自動オルガンのための作品を依頼していたもので、モーツァルトは翌年にかけて数曲書いたが、そのうち5曲が現在まで残っている。

15日、ハイドンがウィーンを離れザロモンと共にロンドンへ旅立った。 その日、モーツァルトは食事を共にし、二人が馬車に乗るのを見送った。 ハイドンの伝記作家ディースは次のように語っている。

・・・ ハイドンとザーロモンは出発の日取りを決め、1790年12月15に出発した。 ・・・ モーツァルトはその日友人ハイドンの傍らを片時も離れなかった。 食事を共にし、別れの時がくると彼は言った、「この世での最後の別れを述べているような気がします」。 ・・・
また、ハイドンの弟子フォン・ノイコムは次の手紙を残している。
モーツァルトは自分の死を予感していた時期がありました。 わが師ハイドンがこう言っていたことを思い出します。 ・・・ モーツァルトは別れを告げると、目に涙を浮かべて、「パパ、お互いに会えるのはこれが最後のような気がします」と言った、と。 モーツァルトよりもかなり年配だったハイドンは、これは自分の年齢のせいで、これが最後になりそうな旅で危険な目にあうのを心配して言っているのか、と思ったようでした。
このときモーツァルトは「来年、私も必ず行きます」と繰り返し言ったともいうが、実際、これが最後の別れとなった。


参考文献


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2012/05/20
Mozart con grazia