Mozart con grazia
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このページの目次
- エーベルリン Johann Ernst Eberlin (1702 - 62)
- ロリ Giuseppe Francesco Lolli (1701 - 78)
- アードルガッサー Anton Cajetan Adlgasser (1729 - 77)
- シャハトナー Johann Andreas Schachtner (1731 - 95)
- ヴァレスコ Abbate Giambattista Varesco (1735 - 1805)
- ブルネッティ Antonio Brunetti (1744頃 - 86)
- ハーゲナウアー Lorenz Hagenauer (1712 - 92)
- ブリンガー Franz Joseph Johann Nepomuk Bullinger (1744 - 1810)
- トマゼッリ Giusepe Tomaselli (1758 - 1836)
Johann Ernst Eberlin
1702 - 1762
シュヴァーベン地方イェティンゲン出身。1724年にザルツブルク移住。
1729年、グーグル(Matthaeus Gugl)の後任としてザルツブルク大聖堂のオルガン奏者となる。
1762年6月21日に没するまでザルツブルク宮廷楽長を勤めた。
レオポルトの音楽の師とも言われる。
- K.221 → Anh.A1 キリエ ハ長調
- K.326 → Anh.A4 賛歌「主は正しき者を導きたまえり」
第3版ではK.93d(1771年 ザルツブルク)とされていたが、エーベルリン作と判明し、第6版から付録A4におかれた。
- 朝と晩 自動オルガンのための小曲。
Giuseppe Francesco Lolli
1701 - 1778
エーベルリンの死去に伴い、1763年2月28日に副楽長だったロリが昇任した。
そのときモーツァルトの父レオポルトが副楽長に就任した。
1778年8月にロッリが死去したあとルイージ・ガッティ(Luigi Gatti, 1740-1817)が楽長になるが、ただし就任したのは1783年2月14日と遅かった。
Anton Cajetan Adlgasser
1729 - 1777
1729年10月1日インツェルで生まれた。
エーベルリンの弟子。ザルツブルクのオルガニストで作曲家。
生涯に3回も結婚した。
- 1752年(23歳)エーベルリンの娘マリア・ヨゼファと
- 1756年(27歳)マリア・バルバラ・シュヴァープと
- 1769年(40歳)宮廷歌手マリア・アンナ・フェーゼマイヤー(1743-82)と。このときレオポルトは立会人を務めた。
モーツァルトはマルティーニ神父に「(ザルツブルクでは)ミハエル・ハイドンとアードルガッサーの二人は最も優れた対位法の達人 due bravissimi contrapuntisti です」と伝えている。
1766-67年、ザルツブルク大司教ジギスムントの依頼でオラトリオ「第一戒律の責務」K.35の第3部を作曲。
このとき、マリア・アンナ・フェーゼマイヤーが歌っている。
1777年12月22日、オルガンの演奏中に急逝したという。48歳。
レコード化された曲
- モテット「アヴェ・マリア」
パウムガルトナー指揮ザルツブルク・モーツァルテウム・カメラータ・アカデミカ
フィリップス&中央公論社 MOZT178 [t=5'55]
Johann Andreas Schachtner
1731 - 1795
モーツァルト家と親しかった。
1792年、ナンネルの求めに応じてモーツァルトの子供時代の回想録を書いた。
そのなかに書かれている有名なエピソードがある。
モーツァルトが7才のときのことであった。
私が非常に良いヴァイオリンを持っていたのを覚えていらっしゃると思います。
やわらかくて厚みのある音を持っていたので亡くなったヴォルフガンゲルルはいつもバター・ヴァイオリンと呼んでいました。
ある時、あなた方がヴィーンから帰って来られた直後彼はそのヴァイオリンを弾いたのですが、今度はあまりほめられない風でした。
一両日後私は又彼を訪問しました。
ちょうど彼自身のヴァイオリンで楽しんでいる所でした。
彼はすぐにこう言いました。
「あなたのバター・ヴァイオリンはどうかしたの。」
そして又思いのままに弾き続けました。
そして又ちょっと考えてこう言いました。
「シャハトナーさん。
あなたのヴァイオリンは僕のより八分の一音低いですよ。
僕がそれをこの前弾いた時の通りの音になっていればですけど。」
私は笑っていました。
しかしその子供の並はずれた音感覚と記憶力をよく知っていた父上は私に私のヴァイオリンを持って来るよう頼みました。
彼の言うことが正しいかどうか見たいということでした。
私はそうしました。
正にその通りでした。
[ドイッチュ&アイブル] p.255
ザルツブルクのトランペット奏者カスパル・ケストラーに師事。
1754年、ザルツブルク宮廷楽団のトランペット奏者になり、のちに「娯楽局長」に任命された。
ヴァイオリンとチェロも弾け、文筆家でもあった。
- K.196 オペラ・ブッファ「偽の女庭師」のドイツ語翻訳
- K.344 ジングシュピール「ツァイーデ」の執筆
- K.366 オペラ・セリア「クレタ王イドメネオ」のドイツ語翻訳
Abbate Giambattista Varesco
1735 - 1805
ジャンバティスタ・ヴァレスコ神父。次のオペラの台本を書いた、ザルツブルク在住のイタリア人神父。
Antonio Brunetti
1744頃 - 86
ザルツブルク宮廷楽団のヴァイオリン奏者。
- K.261 ヴァイオリンのためのアダージョ(ホ長調) 1776年末 ザルツブルク
これは、K.219の第2楽章として。
- K.364 ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 変ホ長調 1779年晩夏 ザルツブルク
- K.373 ヴァイオリンのための協奏風ロンド ハ長調
- K.380 ピアノとヴァイオリンのためのソナタ 第36番 変ホ長調 1781年4月7日? ウィーン
1786年、レオポルトは娘ナンネルへの手紙で次のように伝えている。
- 5月5日、ハインリヒが宮殿でヴァイオリン協奏曲を弾きます。
- 9月15日、あれからハインリヒはヴァイオリンをびっくりするくらい練習した。
- 10月20日、ハインリヒがいまや宮廷の首席ヴァイオリン奏者になった。ブルネッティはもう1週間も宮廷伺候ができませんが、みじめな有様です。健康回復もむずかしいでしょう。
- 11月29日、一昨日の早朝、ブルネッティにはすべての聖なる秘蹟が与えられました。昨晩はもういちど瀉血が試みられました。彼は猊下が到着されるまではもう生き延びられないでしょう。
- 12月1日、ブルネッティはまだ生きていて、吐血する日もあれば回復して見える日もあります。
- 12月19日、ブルネッティはまだ死にません。
- 12月22日、ブルネッティにまだ命がありはするものの、彼が死にでもしたら、私はガッティと一緒に彼が管理していた楽譜などを吟味しなくてはならない。
- 12月29日、聖なるクリスマスの日、ブルネッティさんが永遠の眠りにつきました。
- 1787年1月26日、ハインリヒはヴァイオリンの首席を弾いています。
ハインリヒ・マルシャンは短期間だが宮廷の首席ヴァイオリン奏者になったのち、ザルツブルクを離れた。
Lorenz Hagenauer
1712 - 1792
ザルツブルクでのモーツァルト家の家主。夫人マリア・テレジア。娘マリア・マルタ。息子カイェタン(Cajetan 1746〜1811)は神父。
レオポルト・モーツァルトは旅先から家主ハーゲナウアーに多くの手紙を書き送った。
- 1756年1月27日 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが誕生。
現在この生家は美術博物館になっている。
- 1769年10月モーツァルト(13才)は、修道院に入っていた幼なじみの4男カイェタン・ルーペルトが新任司祭ドミニクスとなって初めて行なうミサのためにミサ曲ハ長調K.66、通称「ドミニクス・ミサ」を作曲した。
- 1770年9月29日 娘マリア・マルタの病気について手紙
- 1773年9月下旬、モーツァルト一家はハンニバル(現在のマカルト)広場にあるもっと大きな住居に引越した。
そこは以前の住人から「舞踏教師の家(タンツマイスターハウス)」と呼ばれていた。
Franz Joseph Johann Nepomuk Bullinger
1744 - 1810
ザルツブルクでのモーツァルト家の友人。僧院長。旅行の費用を貸してくれた。
Giusepe Tomaselli
1758 - 1836
ロベレートに生まれ、1781年から1807年までザルツブルク宮廷楽団のテノール歌手。
モーツァルト一家と親しく交際していた。
その後ウィーン宮廷礼拝堂の歌手として活躍し、さらに1833年にヴュルツブルクに移り住み、生涯を閉じた。
ザルツブルクの有名な「カフェ・トマゼッリ」 (2004年5月)
■参考文献
- [ドイッチュ&アイブル]
ドイッチュ&アイブル 「ドキュメンタリー、モーツァルトの生涯」 井本晌二訳、シンフォニア 1989
2011/10/28