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ジングシュピール「ツァイーデ」 K.344 (K6.336b) 未完

〔編成〕 2 fl, 2 ob, 2 fg, 2 hr, 2 tp, timp, 2 vn, 2 va, vc, bs
〔作曲〕 1779年~80年 ザルツブルク

第1幕

  1. 合唱 「さあ、陽気にやろう。誰にも悩みがある。苦情を言っても始まらない」
    Coro "Brüder, lasst uns lustig sein"
  2. ゴーマッツのメロローゴ
    Melologo Gomatz "Unerforschlige Fügung"
  3. ツァイーデのアリア 「おやすみ、いとしい人よ、安らかに」
    Aria Zaide "Rule sanft, mein holdes Leben"
  4. ゴーマッツのアリア 「運命がどんなに荒れても、この絵姿を盾にして防ごう」
    Aria Gomatz "Rase, Schiksal, wüte immer"
  5. ツァイーデとゴーマッツの二重唱
    Duetto Zaide/Gomatz "Meine Seele hüpft vor Freuden"
  6. ゴーマッツのアリア 「友よ、ありがとう。あなたを抱きしめ、別れを急ぐ」
    Aria Gomatz "Herr und Freund!"
  7. アラツィムのアリア 「大胆に試せ幸運を。諦めず勇気を出せ」
    Aria Allazim "Nur mutig, mein Herze"
  8. ツァイーデ、ゴーマッツ、アラツィムの三重唱
    Terzetto Zaide/Gomatz/Allazim "O selige Wonne!"

第2幕

  1. ソリマンのメロローゴとアリア 「ライオンも馴らせば、やさしい主人につながれる」
    Melologo & Aria Soliman "Der stolze Lüw' lässt sich zwar zähmen"
  2. オスミンのアリア 「空腹で食卓についたのに」
    Aria Osmin "Wer hungrig bei der Tafel sitzt"
  3. ソリマンのアリア 「腹がたつ。充分償って思い知らせてやろう」
    Aria Soliman "Ich bin so bös'als gut"
  4. ツァイーデのアリア 「悲しい鳥は篭の中で、不自由な絶望にむせび泣く」
    Aria Zaide "Trostlos schluchzet Philomele"
  5. ツァイーデのアリア 「虎よ、そのまがった爪で捕らえた獲物を早く殺せ」
    Aria Zaide "Tiger! wetze nur die Klauen"
  6. アラツィムのアリア 「権力者は無情に奴隷を見下すのみ」
    Aria Allazim "Ihr Mächtigen seht ungerührt"
  7. 四重唱
    Quartetto Gomatz/Allazim/Zaide/Soliman "Freundin! stille deine Tränen"

登場人物

原作はセバスチアーニ(Franz Joseph Sebastiani, 1722-72)であるが、それをザルツブルク宮廷楽団員シャハトナーが編作した。 『ツァイーデ』とはこのオペラの女主人公の名による仮称で、正式なタイトルではない。 [事典]と[全作品事典]では別名「後宮 Das Serail」も併記している。 ニール・ザスローは

タイトルについては、1838年に出された初版における『ツァイーデ』でも、ヴェルシュの台本に基づく『後宮』でも差し支えないであろう。
[全作品事典] p.74
と言っている。 さて、まだ未完成で題名が決まっていないこのオペラについて、モーツァルト父子の間では次のようにやりとりしていた。
1780年12月11日、レオポルトから息子へ
シャハトナーの芝居に関しては、いまのところ、なにもやることはありません。 劇場がお休みだからです。 曲はまだ完全に出来上がっていないのだから、事の成り行きにまかせましょう。
[書簡全集 IV] p.505
1781年1月18日ミュンヘン、父へ
シャハトナーのオペレッタを持ってきてくださるよう。 その種のものを聴きたがっている人たちが、ときどきカンナビヒ邸にやって来ます。
同書 p.568
1780年10月にモーツァルトは『クレタ王イドメネオ』(K.366)上演のためにザルツブルクを離れ、ミュンヘンに滞在中であった。 レオポルトが書いている「劇場がお休み」というのはベーム劇団のことだろうと思われる。 それから1781年3月にモーツァルトは、大司教の命令を受けてウィーンに移動したのち、最後に次のように書いている。
1781年4月18日ウィーン、父へ
シャハトナーのオペレッタの件、うまく進みません。 その理由は、ぼくがたびたびふれた通りです。 弟のシュテファニーが、新しい良い台本を書くとぼくに言っています。 そしてもしぼくが当地にもういないなら、送ってくれるはずです。 ぼくはシュテファニーをとがめるわけにはいきませんでした。 ぼくはただ言っておきました。 長ぜりふはたやすく変えられるので、それは別として、台本はとてもいい、でも喜劇的作品を好むヴィーン向きではないと。
[書簡全集 V] p.40
モーツァルト自身はシャハトナーの台本そのものに不満はないかのように言っているが、完成しないままでいた。 それをミュンヘンの音楽家たちに見せて、一時は完成する気になったのかもしれない。 しかしよく知られているようにザルツブルク大司教はモーツァルトがミュンヘンに長居しようとすることは許さなかった。 6週間の予定の休暇が大幅に伸びて、単なる使用人に過ぎないモーツァルトがミュンヘンで自由に行動しているのは当然咎められるべきことだった。 女帝マリア・テレジアの葬儀のためウィーンに滞在していた大司教はモーツァルトにすぐウィーンへ来ることを命じ、それに応じてモーツァルトはウィーンへ向う。 しかしモーツァルトはその地でもうまくやっていけると感じ、このオペラを実現しようと考えたのであろう。 台本をシュテファニーに見せたところ、「私が新しい良い台本を書いてあげるよ」と逆に提案されたのである。 モーツァルトはシャハトナーの自尊心を傷つけないようにと考え、「ウィーンの聴衆には確かに向いていない」と父に伝えたのだろう。 そしてまもなく、7月30日にシュテファニーから約束の台本を受け取ることになる。 それが『後宮からの誘拐』(K.384)であった。 それとともにこのオペラ(ツァイーデ)は忘れ去られてしまったのである。

このオペラが再び姿を現したのはモーツァルトの死後であった。 残された楽譜の中から1799年に発見されたとき、草稿は2幕15曲までの未完成作品であった。 作曲の動機は不明であり、序曲もなく、実際のタイトルもわからないままである。 未亡人となっていたコンスタンツェもこの曲については何も知らず、そのため彼女は情報提供を求める新聞広告を出したが、それに対する回答はなかったという。 そして1800年に約300の自筆譜とともに音楽出版者アンドレに買い取られた。

いぜんとして題のついていないこの作品の自筆譜をも手に入れたJ・アントーン・アンドレが、結局1838年に『ツァイーデ』という題をつけて出版したのである。
[アインシュタイン] p.621
さかのぼって作曲の動機をさぐると、当時ザルツブルクに来演中のベームの劇団のためと推測することができるのである。
ベームの一座は一週間に3回か4回の公演を行った。 役者や楽士は40人ほどおり、これに土地の楽士たちの応援を加えて彼の劇場オーケストラは弦楽器のほかにオーボエ(またはフルート)、ファゴット、ホルン、時にトランペットとティンパニーが加わるという編成だった。 その演目は音楽を伴うものがほとんどで、歌芝居(ジングシュピール)、軽オペラ、数多くのフランスのオペレッタの翻訳上演などの中に、一握りの音楽なしの喜劇や悲劇がまじっていた。
[ソロモン] p.358
もちろん確証となるものはなく、異論もあるが、このような状況にあって、モーツァルトがザルツブルク宮廷楽団のトランペット奏者シャハトナーによる台本に曲をつけようとしたと想像するのは自然である。
彼(シャハトナー)の手本は、ヨーゼフ・フォン・フリーベルトの作曲によって、ボーツェンで1779年に上演された、『後宮。またの名、奴隷となった父と娘と息子の突然の』(思いがけぬ)『遭遇』という題の、みじめな音楽的ジングシュピールであった。 シャハトナーもおそらく、『後宮』という題をつけていたのだろう。 モーツァルトはこの作品を1779年の末に、ヴィーンでの上演を期待しながら、ベームの旅一座のために作曲した。 それは、いとわしいザルツブルク以外のどこかで地位を得ようとする、彼のたくさんの試みの一つだったのである。
[アインシュタイン] p.622
ただしフリーベルトが曲をつけた『後宮』は、ザスローによれば、ザルツブルクとリンツの間に位置するヴェルシュで1777年に上演されていたが、出版は1779年になされたという。 「トルコ的な」すなわち「イスラム教的な」主題による演劇やオペラは、当時、大流行を見ていたので、その台本はモーツァルト親子に大いに触発したに違いないとザスローは言う。 そこで彼らは「かつてドイツ語の台本で手助けした」ことのある親友シャハトナーにその出版された台本を手渡したのだった。

ところが、なぜか完成されなかった。 モーツァルト自身は1781年4月18日の父へ手紙で、作曲がうまく進まない「その理由は、ぼくがたびたびふれた通りです」と書いているのだが、はっきりとはわからない。 ザスローは、モーツァルトが『ツァイーデ』を完成させるには「何かが彼の気に入らなかった」からであり、その「最もありそうな原因は台本である」と言う。 シュテファニーの台本によるジングシュピール『後宮からの誘拐』(K.384)を仕上げたあとでは、もはやシャハトナーの台本に戻って同じ内容の劇作品を書く気にならなかったのだろう。


ベンダ
このオペラはモーツァルトのオペラの中で特異な作品であり、それは2曲のメロローゴが含まれていることである。 彼が1778年にマンハイムで受けた「メロドラマ体験」の影響だといわれる。 そのときモーツァルトはベンダ(Georg Anton Benda, 1722-95)のメロドラマ『メデーア』を大きな関心をもって観たのだった。 メロドラマ melodrama とはギリシャ語のメロス(melos 歌)とドラマ(drama 劇)を合わせたもので、ルソー(Jean-Jacques Rousseau, 1712-78)によって創始された。 それはレチタティーヴォではなく普通の語り方で独白や対話が行われ、その合間にオーケストラが情調を表現しながら劇が進行するという新しいジャンルであった。 そのメロドラマの中で語られる部分はメロローゴ melologo と呼ばれる。メロスとロゴス(logos 言葉)を合わせた造語である。 モーツァルトは初めのうちはこの種の劇に否定的な考えを持っていて、「こんなものが効果をあげるわけはない」と思っていたが、実際に観て考えが変ったことを父に伝えている。

1778年11月12日(マンハイム) 父へ
ここでそういう作品が二度も上演されるのを観て、ぼくは大満足でした! 実際に、こんなに驚いたことはかつてありません!
きっと御存知のように、そこでは歌われるのではなくて、朗唱されるのです。 そして音楽は助奏付(オブリガート)レチタティーヴォのようなものです。 ときには音楽に合わせてせりふが語られることもありますが、それがすばらしい効果をあげます。
[書簡全集 IV] p.329
そして、滞在中のマンハイムでダールベルク男爵からのメロドラマ(二人劇)の作曲依頼に大喜びで応じることにしたのであった。 男爵は当時マンハイム公演に来ていたザイラーの一座の総監督であり、この作曲で440フロリンの収入が約束されていたが、その作品「セミラミス Semiramis」のための音楽(K.315e)は完成されず、また楽譜も失われて残念ながら現存しない。 そのときモーツァルトが観たのはベンダの一人劇『メデーア』だったが、もう一つの作品の二人劇『ナクソス島のアリアドネ』も素晴らしいと高く評価し、「この二作はとても気に入っているので、いつも持ち歩いています」と言っている。 そして次のように断言している。
オペアのなかでも、大部分のレチタティーヴォはこのように扱われるべきです。 そして、ただときおり、歌詞が音楽によってうまく表現されるときにのみ、レチタティーヴォが歌われるべきです。
同書 p.330
しかし作曲者自身が『ツァイーデ』を永遠に葬り去ったことで、このオペラの中で実験的に取り入れられたメロドラマという様式はこれ以後二度と彼の作品で使われることはなかった。 そうなったことを、アインシュタインは「幸運だった」と言っている。
幸運にもというのは、メロドラマというものが怪しげな雑種的ジャンルだからである。 しかしこのジングシュピールのなかでは、メロドラマは実際に、対話とアリアのあいだの好都合な、正当な媒介物なのであって、二つの楽曲はともに、モーツァルトの表情に満ちた諸方式の真の宝庫なのである。
[アインシュタイン] p.625
また、アインシュタインは1779年4月に作られた交響曲ト長調(K.318)が実はこのオペラの序曲であると言っている。

あらすじは

トルコの太守ソリマンの捕虜になっているゴーマッツと太守の侍女ツァイーデとの恋を太守の部下アラツィムが助け、二人は逃亡しようとするが、オスミンの妨害によって捕らえられる。 激怒した太守は死を宣告する。 最後の四重唱でソリマンは「どんな涙も役に立たぬ。二人の死は免れない」と歌う。
ここで音楽が終り、作品としてまだ完成されていない。 これでオペラが終ってはウィーンの聴衆ならずとも納得できない。
《徳の高い、しかもしいたげられている人物たち》は、捕虜となって皇帝(ズルタン)のもとで奴隷にされている高貴なゴーマッツ、眠っているこの男に同情しながら見いり、彼にひそかに金銭を与え、彼と手に手をとって逃走しようと決心する寵姫ツァイーデ、皇帝に仕えながらもこの二人に対するやむにやまれぬ同情心に襲われて、その逃走を助ける背教者である。 もちろん逃走は不成功に終り、三人はすべて死刑にされることになる。 皇帝は容赦しないようにみえる。 そのとき背教者は、(モーツァルトにおいては彼はアラツィムという名だが、実はルジェーロ侯爵なのである)、自分が15年前に皇帝の命を救ったことを証拠だてる。 そして最後の瞬間に、ゴーマッツとツァイーデは背教者の息子と娘であることが明らかになる。 皇帝は一同に自由を与えるが、「ヨーロッパだけでなく、アジアにも徳の高い魂を生みだすことができるのだ」と強調せずにはおかないのである。
[アインシュタイン] p.623

この時期にモーツァルトが相次いで作曲した『エジプト王ターモス』(K.345)と『ツァイーデ』のうち、前曲が『魔笛』(K.620)の、そしてこれは『後宮からの誘拐』(K.384)の先行作と見られている。 余談であるが、名前 Zaide を「ザイーデ」ということもある。 なお、第1幕ツァイーデのアリア「おやすみ、いとしい人よ、安らかに Rule sanft, mein holdes Leben」は特に美しく、単独で歌われることも多い。

〔演奏〕
CD [BRILLIANT CLASSICS 99734/1-5] t=90'24
Zaide - S. Piau (S), Gomatz - M. Ciolek (T), Allazim & Osmin - K. Mertens (Bs), Sultan Soliman - P. Agnew (T), Narrator - G. Frank ; Ton Koopman (cond), Radio Kamerorkest
2001年2月、ユトレヒト、 Muziekcentrum Vredenburg
ベンダ作曲メロドラマ『ナクソス島のアリアドネ』
CD [NAXOS 8.553345] t=41:11
C. Benda (cond), Prague Chamber Orchestra
1994年11月、プラハ
CD [EMI TOCE-6596] (1) t=1'05, (10) t=2'54
(1) シュライヤー Peter Schreier (T), (10) ベリー Walter Berry (Bs)
演奏年不明
CD [東芝 EMI TOCE-55200] (3) t=6'19, (13) t=4'42
ナタリー・デセイ Natalie Dessay (S), ラングレ指揮 Louis Langree (cond), ジ・エイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団 Orchestra of the Age of Enlightenment
2000年8月・9月、ロンドン、 Air Studios
CD [PHCP-11026] (3) t=3'21
シェーンハーツ R. Schönherz (p, synthesizers), オボア S. Obois (soprano sax), マリング M. Manring (fretless bass)
1995年、編曲

〔動画〕

 


 

Johann Gottlieb Stephanie

1741 - 1800

ヨハン・ゴットリープ・シュテファニーは1741年2月19日ブレスラウで誕生。 医師の息子。 兄クリスティアンと区別して「若い方の」シュテファニー Stephanie der Jüngere(Stephanie the Younger)と呼ばれ、モーツァルトから父への手紙(1781年4月18日)で「弟のシュテファニー」と訳されている。 1800年1月28日ウィーンで没。

法律を学んだのち兵士となったが、1768年にフランツ・アントン・メスマーのすすめで素人芝居をやらされ、それが縁で演劇の道に入ったという。 1769年から99年までウィーンのブルク劇場の座員だったが、モーツァルトとは1773年夏に(シュテファニー32才、モーツァルト17才のとき)ウィーンで知り合った。 喜劇役が得意であったが、あまりすぐれた俳優ではなかったらしい。 そのかわり多くの脚本を書いている。 1778年から82年にかけてヨーゼフ2世が推進したドイツ語オペラを積極的に導入しようとする「ドイツ国民劇場」構想にのってシュテファニーの台本も取り上げられる機会が多かったが、モーツァルトと縁があるのは1782年7月16日ウイーンのブルク劇場で初演されたジングシュピール『後宮からの誘拐』(K.384)である。 それはちょうど「ドイツ国民劇場」構想の終焉時期にあたり、その後またイタリア語によるオペラの復活へと流れが変ってゆき、モーツァルトはダ・ポンテと組んで『フィガロ』(K.492)の作曲に没頭することになったが、ちょうどそのときに時期外れとも言えるジングシュピール『劇場支配人』(K.486)が登場するのだった。
 


〔参考文献〕

 

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2018/01/21
Mozart con grazia