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Franz Joseph Haydn

1732 - 1809

1732年オーストリアのローラウに生まれた。 1761年(29歳)エステルハージ侯爵の副楽長に、1766年(34歳)楽長になり、1790年9月(58歳)まで仕えた。
ハイドンとモーツァルトが親しくなった時期は不明だが、ハイドンの弟ミハエルとモーツァルトはザルツブルクで親しかったので、兄ヨーゼフとも早くからお互いに名前は知っていただろう。 それでなくても、モーツァルトは神童としてヨーロッパ中に知られていたのだから。 モーツァルトがハイドンを高く評価していたと思われる最初の資料は1784年4月24日の父レオポルト宛ての手紙にある。
1790年12月16日ウィーンを離れ、ロンドンに行くことになったが、その前日がモーツァルトとの最後の別れとなった。

1785年2月12日、モーツァルトは自宅にハイドンを招き、後に「ハイドン四重奏曲」呼ばれる曲を演奏した。 演奏者は、モーツァルトの父レオポルト、ティンティン男爵兄弟、そしてモーツァルト自身。 このときハイドンはレオポルトに「私は誠実な人間として神に誓って申し上げますが、あなたの御子息は私が個人的に知っている、 あるいは名前だけ知っている作曲家の中で、最も偉大な人です。御子息は趣味が良く、その上、作曲に関する知識を誰よりも豊富にお持ちです」と言ったという。

ハイドンは、当時モーツァルトが真の天才であることを知っていたほとんど唯一の人物だった。 モーツァルトの死後(1791年12月20日の手紙で)、 「後世は100年たっても、これほどの才能を再び得ることはないでしょう」と語っている。

 

Johann Michael Haydn

1737 - 1806

ヨーゼフの弟。 兄と同じくウィーン聖シュテファン教会少年聖歌隊に入る。 1757年からハンガリーで楽長として活動していたが、1763年2月28日、ザルツブルクの宮廷楽団の副楽長ロリの昇任にともない、レオポルトが副楽長に就任したので、 その後任としてミハイルが首席奏者となった。 さらに1781年、モーツァルトがザルツブルクを去ったとき、その後任となった。 以後、終世ザルツブルクを離れなかった。

彼の残した作品は、教会音楽が約360曲、交響曲が46曲、協奏曲が5曲、そのほかに室内楽曲、歌劇がある。

CD[AEOLUS ACCD S111] ドイツ語ミサ 変ロ長調 から
ツム・ベシュルス Zum Beschluss
ナッハ・デア・ヴァントルンク Nach der Wandlung

 

Maria Magdalena

1745 - 1827


 

Ludwig van Beethoven

1770 - 1827

1787年4月、16歳のベートーヴェンがウィーンを訪れた。 このときモーツァルトと出会ったと言われるが、どんな会話がなされたか不明。 さらに、ベートーヴェンの即興演奏を聞いてモーツァルトが「世界を驚かす音楽家になるだろう」と予言したという逸話は疑わしいという。 その頃、モーツァルトは父の死が近いことを気にかけながら、オペラ「ドン・ジョヴァンニ」の作曲に心を奪われていた。

モーツァルトの死後、1795年3月31日、コンスタンツェがブルク劇場でオペラ「ティト」を上演した。 その幕間に、 K.466 ピアノ協奏曲第20番ニ短調が演奏され、ベートーヴェンがピアノを弾いた。 これはベートーヴェンが愛した曲で、カデンツァを書き残している。
 



 
2001/11/25
Mozart con grazia