Mozart con grazia > 年代記 > 1784年
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1784年

28歳
1784年1月



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1月

この年の初め、モーツァルトが自作目録に記入しなかった最後の曲だろうと推定されている舞曲がある。 次の曲からモーツァルトは自作目録を作り始めた。 これ以降の完成された作品については作曲時期の考証がいらなくなる。

2月

9日、3月17日の予約演奏会用に、弟子のピアニスト、バルバラ・プロイヤー嬢のために を作曲。 これは自作目録第1番。 3月20日付けの手紙で、この曲の発表が好評だったと父に伝えている。

10日、父への手紙で、オペラ「カイロの鵞鳥」K.422(ヴァレスコ詩)よりも、すぐにも金になるもの(たぶん6つのピアノ協奏曲K.449, 450, 451, 453, 456, 459のこと)を作らなければならないと書いている。 いかにピアノ曲を重要視していたかは、20日の手紙からも分かる。 なお、「午前中はレッスンで歩き回り、作曲をするには夜しかない」と伝えている。

20日、父への手紙で、最新作の交響曲「リンツ」K.425とプロイヤーのためのピアノ協奏曲K.449について、興味あることを書いている。 それらのオリジナルを送り、前者は写譜したあと「送り返すか、誰かにあげるか、どこかで演奏するか」好きにしていいが、後者は写譜したあと「すぐ送り返し、誰にも見せない」ことを求めている。 これと同じようなことを別の手紙でも書いている。 つまり、後者の方がモーツァルトにとって大切な商売道具だったわけである。

1784年3月
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3月

15日、24日に行われる演奏会のために大編成のシンフォニックで、技巧的にも難しい を作曲。 自作目録第2番。 次の第16番K.451とともに「汗をかかせられる協奏曲だと思います」と父への手紙(5月26日)に書いている。

17日、トラットナーホーフの広間でコンサートを開き、新作のピアノ協奏曲K.449を演奏した。 トラットナー邸での予約演奏会では毎回、新作のピアノ協奏曲が1曲づつ発表される。

20日、父への手紙で自分のコンサートの予約者174人の名前を列記し、それはリヒターとフィッシャーを合せたよりも、30人も多い予約であることを伝えた。 予約は一人6フローリンで、全部で千フローリンの収入になったという。 ただし、その後、劇場での最初の発表会を開こうとしたところ、リヒテンシュタイン侯爵が自分の邸でオペラを催し、貴族のおもだった人達や、オーケストラの最良のメンバーも引き抜かれ、そのため、モーツァルトの発表会は4月1日に延期された。 そして、5年後には、モーツァルトのコンサートの予約者はヴァン・スヴィーテン男爵たった一人になってしまう。

22日、自作目録第3番となる

を作曲。 3月31日に初演。 前曲第15番ほど難曲ではないが、この曲から交響曲風のピアノ協奏曲を追求し始めたとみなされている。

23日、アントン・シュタドラーがブルク劇場で行った音楽会のために

を作曲したかもしれない。 ただし、いつ書かれたのかは不明。

24日、トラットナーホーフの広間でコンサートを開き、新作のピアノ協奏曲K.450を演奏した。

30日、自作目録第4番となる

を作曲。 モーツァルトが「これまでに書いた最上の曲」と考えたもの。(4月10日の父への手紙)

31日、トラットナーホーフの広間でコンサートを開き、新作のピアノ協奏曲K.451を演奏した。

1784年4月



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4月

1日、ブルク劇場の演奏会で新作の2つのピアノ協奏曲K.450、451とともに自らクラヴィアを弾いて初演した。 初演の広告に「まったく新しい大規模な五重奏曲」と記し、この特殊な楽器編成がもたらすかつてない音楽の境地を切り開いた意欲を伝えている。
そのときの様子を4月10日の手紙で父に知らせているが、非常に好評だった。モーツァルトはピアノを弾いてばかりいたので最後には疲れてしまったが、聴衆の方は一向に疲れなかったという。
父子の関係は、モーツァルトがザルツブルクへ帰ろうとしなかった頃から緊張をはらんでいたが、コンスタンツェとの結婚以来、さらに深刻になっていた。 それでも父は生涯変わらずわが子の音楽の誠実な鑑賞者だった。 モーツァルトは父に対する感情の冷却を何とか覆い隠そうとして、 少なくとも1785年までは、几帳面に父へ手紙を書いて、作曲、演奏、日常の生活など、こまごまと書き送っていた。

12日、プロイヤー嬢のために、予約演奏会用の

を作曲。 自作目録第5番。

弟子のピアニスト、バルバラ・プロイヤー嬢のために

を残している。 その中に「対位法の大家の葬送行進曲」と題されて記載された がある。 ピアノ協奏曲K.453の冒頭と同じリズムで始まり、大げさな内容を持ったこの小品は、真面目な葬送を風刺している。

21日、ウィーンを訪問中のヴァイオリニスト、レジーナ・ストリナザッキーのために

を作曲。 自作目録第6番。 ヴァイオリンは伴奏以上の役割が与えられているので、彼女はかなりすぐれた演奏ができたと思われる。 1784年4月29日ウィーンのケルントナートール劇場で彼女と共演した。 そのときピアノのパートはまだ出来ていなかったが、即興で演奏し大成功を収めた。

24日、父へ

マントヴァの有名なストリナザッキが今当地に来ています。この人の演奏にはとても趣味と感情が溢れています。 私は今ソナタを書いていますが、この人の発表会で一緒に弾きます。 それから今度、ヨーゼフ・ハイドンの弟子で、プライエルという人が四重奏曲を出しました。 まだご存じなければ、何とかして手にいれてみて下さい。それだけの値打があります。 非常によく書かれていて、気持ちのいい曲です。 お聴きになれば、先生が誰かすぐ分かります。 プライエルがそのうちハイドンの跡を継ぐことができれば、音楽にとって結構な、幸いなことです。

1784年5月





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5月

15日、父へ「リンツでトゥン伯爵のために作曲した交響曲と4曲の協奏曲を今日送ったが、協奏曲の写譜は家で(父の目の前で)させるようにしてほしい」と書いた。 写譜屋が信用できないということと、モーツァルトにとって「交響曲よりもピアノ協奏曲の方が大切」なことを物語っている。 また、「ホフシュテッターがハイドンの曲に2つ目の写譜を作っていること、自分は彼が写譜した最新の交響曲を3曲持っていること」を具体的な事例として上げている。
なお、「最新の3曲」とはハイドンが1783年5月から1784年3月にかけて作曲した「長調P.16、変ホ長調P.17、変ロ長調P.18」であり、そのうちP.16に序奏をつけたのが となる。 この頃、ウイーンで忙しく活動していたとき、不足気味の交響曲の作品を補うために借用したものと推定されている。

24日、父に送った(15日)4曲のピアノ協奏曲(変ホ長調K.449、変ロ長調K.450、ニ長調K.451、ト長調K.453)のうち、「変ホ長調を別にして、3曲の中でどれがお父さんと姉さんに一番気にいるか知りたい」と書いている。

27日、ウィーンの街角で、モーツァルトは1ヶ月半前に作曲したピアノ協奏曲K.453第3楽章のテーマをさえずる小鳥を見つけ、買ってきた。 むく鳥シュタールは3年間その陽気な主題を歌い続ける。

モーツァルト父子の文通は6月以降、急にとだえる。 時おり文通のあったことは、父から娘ナンネルへの手紙によって知られ、息子が父に書いた手紙の内容はわずかに窺い知ることができるが、その間の往復書簡は保存されていない。

1784年6月

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6月

ウィーン訪問中のサルティの前で

を演奏。 これは、サルティのオペラ「他人の喧嘩で得をする」のミンゴーネのアリア「仔羊のごとく Come un agnello」からテーマをとったもの。

8月

18日、姉へ
あらゆる幸せと楽しみがありますように願っています。 ただ残念でならないのは、都合が悪くて婚礼に出席できないことです。 今は一人ぼっちで暮らすことになった愛するお父さんが何よりも気の毒です。 お父さんは忌々しい音楽堂に縛り付けられているのです。 僕だったら、もうこんなに勤めたのだから、大司教に引退を願い出て年金を受け、娘のところへ行って静かに暮らすでしょう。 大司教がその願いを聴いてくれなかったら、解雇を求めてウィーンの息子のところへ行くでしょう。 お二人が仲良く暮らして行きますように。 僕の詩的な脳味噌をしぼったちょっとした忠言を受け取って下さい。

結婚したらいろいろ分かってくるよ、今までは半分謎だったことが。
何ごとにも二つの面がある。夫婦生活は多くの喜びも与えるが、また心配も生み出す。
夫が不機嫌になって、暗い顔をすることがあったら、男の気まぐれだなと考えなさい。
そして言うのです、「昼間はあなたのお好きなように。夜は私の思いのままに」と。

23日、姉ナンネルはザンクト・ギルゲンの地方貴族ベルヒトルト・フォン・ゾンネンブルクと結婚。 この男はすでに2人の先妻と死別し、5人の子供を持ち、ナンネルよりも15歳も年上だった。

25日、グルックのオペラ「メッカの巡礼者」の中のアリエッタ「愚民の思いは」をテーマに

を作曲。 自作目録第7番。 ウィーンで次第に人気が出てきたモーツァルトに対して、嫉妬から反対派が増え始めたが、長老グルックだけは常に好意的で、モーツァルトの演奏会に度々姿を見せていた。

9月

21日、ウイーンで、次男カール・トーマス誕生。 後に会計官吏を勤め、1858年没。

30日、盲目のピアニスト、マリア・テレージア・フォン・パラディスの依頼により

を作曲。 自作目録第8番。 第2楽章にバルバリーナのカヴァティーナ(ヘ短調)を予見させるフランス風の主題(ト短調)と変奏があるのが特徴。

10月

14日、自作目録第9番となる を作曲。 7ヶ月後の幻想曲K.475ハ短調と共にウィーンのアルタリア社から出版された。 そのため、この2曲は続けて演奏されることが多い。 このソナタは重く深い内容をもって、来るべきベートーヴェンのソナタ群を予告するものとして評される。

9日、自作目録第10番で、ハイドン・セット第4番となる

を作曲。 第1楽章の冒頭主題が狩猟のときの角笛の響きに似ているので狩あるいは狩猟という副題がつけられている。 ウィーンを訪れた父レオポルトがナンネルにあてた手紙(1785年2月14日)の中で「いくぶん軽いが、たいへんよく作曲されている」と書いている。

11月

17日、「後宮からの誘拐」のザルツブルクでの初演。

12月

11日、自作目録第11番となる を作曲。 予約会員が174名にも達した演奏会のシーズン開幕に弾かれた。 さらに1790年フランクフルトでのレオポルト2世の戴冠式で、K.537とともに演奏した。

14日、モーツアルトはフリーメーソンのウイーンにおけるロッジの一つである「善行に向かって進む Zur Wohltatigkeit」に入会し、死ぬまでの7年間、熱心な会員となった。 最初の階級は第1位階の「従弟位階」。 このロッジは前年2月2日にゲミンゲン男爵によって結成されたもので、彼にはモーツァルトは1777〜78年にマンハイムで世話になっていた。 (1778年からウィーンに移住していた)ゲミンゲンは、さっそくモーツァルトに結社への加入を勧めたものと思われる。

24日、フリーメーソンのウィーンにおける最大の支部が集会を開き、モーツァルトは出席した。


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2001/04/22
Mozart con grazia