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オペラ・ブッファ「フィガロの結婚」 K.492

Opera buffa "Le nozze di Figaro" 序曲と4幕28曲
〔編成〕 2 fl, 2 ob, 2 cl, 2 fg, 2 hr, 2 tp, timp, 2 vn, 2 va, vc, cb
〔作曲〕 1785年10月末〜86年4月29日 ウィーン

原作はボーマルシェが1778年に書いた物語であり、『セビリアの理髪師』の続編にあたる喜劇であるが、貴族を痛烈に批判する内容であるため、パリでの1781年の初演が延期され、1784年4月にようやく上演された曰く付き作品であった。 しかし上演は大喝采を博し、ウィーンでもドイツ語訳で上演したいという人物が現れた。 1785年のこと、シカネーダー(33歳)である。

彼はプレスブルクなどの都市でドイツ語オペラを上演、成功し、啓蒙君主ヨーゼフ2世のドイツ音楽に対する熱意をうまく引き寄せていた。 前年の1784年10月、ヨーゼフ2世はプレスブルクでシカネーダーのオペラを観劇した際、ウィーンでの興行活動を許可している。 さっそく彼は意気揚々とウィーンに向かい、ヨーゼフ2世の御意に沿うかたちで、11月5日の最初のケルントナートーア劇場公演で『後宮からの誘拐』(K.384)を上演した。

シカネーダーのこのジングシュピール上演は好評だった。 しかし彼はむしろジングシュピールから手をひくポーズをとる。 次回興行には先のプレスブルクでの新作『ブツェンタウルス、またはヴェニスの海との結婚』をもってきて、支配者の「寛容さ」を説いた。 『後宮からの誘拐』同様、人の上に立つものはこうあるべきでしょう、という押付けだった。 次のフリーデル作『正体不明の男』では、貴族階級に跋扈する陰謀を暴いて見せた。 年が明けると1785年2月4日上演に向けて、こともあろうにブルク劇場でボーマルシュの芝居『フィガロの結婚』を準備した。 貴族をあからさまにからかったあの「危険思想」の『フィガロ』である。
[原] p.88
1785年2月

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「ウィーン地方新聞」に次のような記事が掲載されている。
1785年2月2日
ラウテンシュトラウホ氏はパリで大喝采を博した喜劇『フィガロの結婚』を最近ドイツ語に翻訳した。 明日同作品がシカネーダー氏とクンプフ氏の共同で初演される。
 
2月4日
シカネーダー氏の予告した喜劇『フィガロの結婚』は昨日は上演されなかった。 昨日ビラで聴衆に知らされた所によると、同作品は検閲当局が印刷は許したが、上演はさせなかったとのことである。
[ドイッチュ&アイブル] p.174
当然のことながら貴族の大反発があり、皇帝ヨーゼフ2世は警察長官ベルゲン伯爵宛に次の書簡を送っていたのである。
1785年1月31日
有名な喜劇『フィガロの結婚』がケルントナートーア劇場でドイツ語で上演されると聞き及んだ。 この作品には無礼な所が多いとのことである。 それで検閲当局がその作品を全く禁止するか、又は然るべき変更を加えてその作品がかもし出すであろう雰囲気が責任を持てるようにするか、いずれかを要請する。
同書 p.173
このようにして、シカネーダーによる目論見は頓挫したが、このとき検閲当局によって許されたドイツ語訳の台本は印刷され、モーツァルトはその一部を所有していたという。
1784年9月


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余談であるが、このオペラの作曲の舞台となる有名な場所がある。 それは現在「フィガロハウス」と呼ばれている建物である。 1784年9月29日、モーツァルトはそれまで住んでいたトラットナー館から、聖シュテファン大聖堂近くの現在のシューラー通り(Schulerstraße)8番地とドーム通り(Domgasse)5番地に位置する住居に引越した。 モーツァルトはこの建物の2階を借り、窓際の部屋を仕事場として使っていた。 部屋数が多く、家賃は半年で230グルデンで、トラットナー館の65グルデンと比べて3倍以上も高額であった。 ただし不思議なことに、当時の徴税台帳の借家人にモーツァルトの名前がないという。 彼は1787年4月24日にウィーン郊外に引っ越すまでここに住み、数々の名作を生み出すが、そのなかの傑作の一つが『フィガロの結婚』であることは有名であり、それにちなんでこの住居が「フィガロハウス」という名称で呼ばれていることはよく知られている。

父レオポルトはザルツブルクを離れ、ウィーンの息子のもとに滞在(1785年2月11日から4月25日まで)したことがあるが、そのときこの立派な借家を拠点にして息子が八面六臂の大活躍をしているのを見たのであった。 レオポルトはザルツブルクの娘ナンネルに書き送っている。
1785年2月16日
おまえの弟が家に必要な家財道具一切合切がついた立派な住居を持っていることは、家賃を460フロリーンも支払っていることからおまえにも分かるでしょう。
[書簡全集 VI] p.37
さらにヨーゼフ・ハイドンが訪ねて来て、モーツァルトの新作の弦楽四重奏曲(K.458K.464K.465)を一緒に演奏し、最大の賛辞をレオポルトに語ったのもこの家であった。
ハイドンさんは私にこう言われました。 「誠実な人間として神の御前に誓って申し上げますが、御子息は、私が名実ともども知っているもっとも偉大な作曲家です。 様式感に加えて、この上なく幅広い作曲上の知識をお持ちです。」
同書 pp.37-38
モーツァルトはウィーンで本格的なオペラを作曲するチャンスを狙っていたが、1782年の『後宮からの誘拐』(K.384)のあとその機会に恵まれなかった。 ありきたりのドラマではなく、ウィーンの聴衆を、ウィーンの町全体を感動の渦に巻き込むようなオペラを作りたいと考えていた。
1783年5月7日、ザルツブルクの父へ
いま当地では、イタリア語のオペラ・ブッファがまた始まって、たいへんな人気を呼んでいます。 ブッフォ歌手が特に際立っています。 ベヌッチという人です。 ぼくは軽く100冊は、いやそれ以上の台本を読みましたが、それでも、満足できるのはほとんどひとつもありませんでした。 少なくとも、あちこち大幅に変更しなくてはならないでしょう。 たとえ、詩人が引き受けてくれたとしても、完全に新しいものを書いたほうが、おそらく楽でしょう。 それに新しいほうが、常にいいにきまっています。
当地には、ダ・ポンテ師とかいう詩人がいます。 この人は、作品を劇場用に書き直す仕事を山ほどかかえています。 サリエーリのために、まったく新しい台本を義務として書かなくてはならず、それに二か月はかかるでしょう。 そのあと、ぼくのために新しい台本を書いてくれると約束しました。
[書簡全集 V] p.368
ダ・ポンテは、ある日(1785年2月頃?)モーツァルトと語り合っていたときのことを回想している。
相手がこう訊いてきた。 どうだろう、あなたならボーマルシェの喜劇『フィガロの結婚』をオペラに作りなおすのはそうむずかしくないだろう、と。 この発案にはなるほどと思って、わたしはそれをやってみると約束した。 ところが、これには克服すべき大きな困難があった。 つまりこの数日前に、皇帝はドイツ劇団の仲間に当の喜劇の上演を禁じていた。 このコメディーはどうも品がない、というのが皇帝の思し召しだった。
[ブレッチャッハー] p.117
彼の回想を鵜呑みにすると、モーツァルトの方から宮廷劇場付詩人のダ・ポンテに提案があったようであり、二人は「台本と音楽を極秘に作り、これという好機を見計らって劇場査察官たちあるいは皇帝に(ダ・ポンテ)が持ち込む」という案で一致したようである。 アインシュタインは言う、「いっさいの音楽的なものがまさに爆発寸前に達している。 必要なのはただ大きな機会だけであった」と。 その機会がここに訪れたのだった。 こうしてモーツァルトの『フィガロの結婚』の作曲が始まったのだろう。 それは1785年の夏頃だったかもしれない。 自作目録を見ると、ちょうど8月から10月までの間が空白となっていて、他方、モーツァルトからザルツブルクの父への手紙も書かれていない。
1785年11月3日、レオポルトからザンクト・ギルゲンの娘へ
おまえの弟からはまだ文字のひとつももらっていません。 彼の最後の手紙は9月14日付けでした。
[書簡全集 VI] pp.166-167
この手紙に中でレオポルトは息子が新作オペラに取り組んでいることを間接的ながらも初めて知るのである。 それから間もなくして、ようやく本人から直接オペラのタイトルが伝えられた。
1785年11月11日、レオポルトからザンクト・ギルゲンの娘へ
とうとう11月2日付けでおまえの弟の手紙を受け取りましたが、なんと12行のものです。 彼は許しを乞うていますが、それというのも、オペラ『フィガロの結婚』を大急ぎで仕上げなければならないからというのです。
この時期のモーツァルトの手紙は残念ながら失われてしまったので、モーツァルトとダ・ポンテの二人がどのようにして困難を乗り越えてオペラの完成と上演の実現まで漕ぎ着けることができたのかわからないことが多い。 また、『後宮からの誘拐』(K.384)の作曲でモーツァルトが語っている詩と音楽の関係、オペラ観について、詩人と作曲家の間で激しいやりとりがあったであろうが、それも何一つわからない。 ダ・ポンテは序文で次のように語っている。 「劇場における上演の一般的慣習に規定される上演時間、同じく習慣によって制限される登場人物数、さらに衣裳、上演地、観衆に関する他のさまざまな熟慮された見解と配慮などを考え合わせて、わたしはこのすぐれた喜劇の翻訳の代りに」原作の変容を提供しようと決心し、以下のように続けている。
そこでわたしはこの喜劇の16人の人物をどうしても11人にへらし、そのうちの二人は一人の俳優でやれるようにしなくてはならなかったし、また、一幕全体を省いたほかに、ふんだんに出てくるきわめて魅力のある場面や多くの機智あふれる台詞を省かざるをえなかった。
(中略)
簡潔さを目ざす作曲者と不肖とのあらゆる熱意と配慮にもかかわらず、このオペラは劇場用として最も短いものの一つとはならなかった。 願わくは、この劇の精緻な複雑さ、長さと大きさ、俳優をいたずらに舞台に立たせないためと、長いレチタティーヴォの退屈さと単調さを軽減するために、どうしても必要となった楽曲の多様さなどが、この作品の弁明となってくれるように。 ここに現れるさまざまな心の状態をさまざまな色彩で描きあげること、そしていわば新しい種類の劇を、きわめて洗練された趣味とたしかな理解力を持たれる聴衆に提供しようとするわれわれの特別の意図の実現に、われわれはおそらく成功したかもしれない。
[アインシュタイン] p.586
問題のオペラはほぼ半年の月日を経て、1786年4月29日に完成した。 ただしモーツァルトは新作オペラの作曲だけに没頭していたのではなく、自作目録を見てもわかるように、ピアノ協奏曲を3つ、ジングシュピールを1つ、そのほかいくつかの曲を書きながら、自分の演奏会に飛び回り、さらにまたフリーメーソンの集会など多忙を極めていたのであり、彼の驚異的な才能には改めて驚くばかりである。

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レオポルトはナンネルに「4月28日に初演される」と伝えていたが、予定は延期されて5月1日にブルク劇場で、モーツァルト自身の指揮により上演された。 そのときの配役は以下の通り。

劇の内容は、アルマヴィーヴァ伯爵が「初夜権」という古い特権を復活させ、伯爵夫人に仕える若いスザンナに手を出そうと企てるが失敗するというものである。 スザンナは伯爵の従僕フィガロと婚約中であり、伯爵夫人と小姓ケルビーノと協力して伯爵の浮気を空振りに終らせる。 伯爵夫人はセビリアの医師バルトロの養女であるが、フィガロはそのバルトロと夫人の女中頭マルチェリーナの間に生まれた子供であったことがこの騒動の中で明らかになるなど、11人の登場人物にアッと驚くような関係が仕掛けられてあり、生き生きとした人間模様がモーツァルトの輝くばかりの旋律にのせられて描かれている。

第1幕

  1. フィガロとスザンナの二重唱 「5、10、20、30、…」
    Cinque...Dieci...Venti...Trenta...
  2. フィガロとスザンナの二重唱 「奥様が夜中にご用の時は」
    Se A Caso Madame
  3. フィガロのカヴァティーナ 「もしも踊りをなさりたければ」
    Se Vuole Ballare
  4. バルトロのアリア 「仇討ち、そう仇討ちこそ」
    La Vendetta, Oh, La Vendetta
  5. スザンナとマルチェリーナの二重唱 「どうぞお先に、すてきな奥様」
    Via Resti Servita
  6. ケルビーノのアリア 「自分で自分がわからない」
    Non So Piu Cosa Son, Cosa Faccio
  7. スザンナ、ドン・バジリオ、アルマヴィーヴァの三重唱 「何たることだ、その女たらしを追い出せ」
    Cosa Sento! Tosto Andante
  8. フィガロと村の若者の合唱 「娘たち、喜んで花を撒きたまえ」
    Giovanni Liete
  9. フィガロのアリア 「もう飛び回れないぞ、愛の蝶よ」
    Non Piu Andrai, Farfallone Amoroso
第2幕
  1. ロジーナのカヴァティーナ 「愛の神様、慰めの手を差し伸べて下さい」
    Porgi Amor, qualche ristoro
  2. ケルビーノのアリエッタ 「恋とはどんなものなのか」
    Voi Che Sapete che cosa è amor
  3. スザンナのアリア 「こっちへ来て、膝をおつきなさい」
    Venite, Inginocchiatevi, Che Novita!
  4. スザンナ、ロジーナ、アルマヴィーヴァの三重唱 「スザンナ、出ておいで」
    Susanna, Or Via, Sortite
  5. スザンナとケルビーノの二重唱 「開けてよ、はやく、スザンナ」
    Aprite, Presto, Aprite
  6. フィナーレ 「出て来い、ふらちな小僧め」
    Esci, Ormani, Garzon Malnato, Signori, Di Fuori
第3幕
  1. アルマヴィーヴァとスザンナの二重唱 「ひどいぞ、今までじらして」
    Che Imbrazzo È Mai Questo
  2. アルマヴィーヴァのアリア 「ため息をつきながら召使の幸せを見るのか」
    Vedrò, mentr'io sospiro
  3. 六重唱「この抱擁は母であることの証」
    Hai Gia Finta La Causa! E Susanna Non Vien!
  4. ロジーナのレチタティーヴォとアリア 「今はどこに、あの甘く楽しい思い出は」
    Riconosci In Questo Amplesso
  5. スザンナとロジーナの二重唱 「そよ風が」 (手紙の二重唱)
    Sull'aria
  6. 村娘の合唱 「どうぞお受け取り下さい、奥方様」
    Ricevete, O Padroncina
  7. フィナーレ 「さあ、行進曲ですよ。参りましょう」
    Ecco La Marcia
第4幕
  1. バルバリーナのカヴァティーナ 「なくしてしまった。どうしよう!」
    L'ho Perduta... Me Meschina!
  2. マルチェリーナのアリア 「牡山羊と牝山羊は」
    Il Capro E La Capretta
  3. ドン・バジリオのアリア 「人生経験も乏しく」
    In Quegli Anni In Cui Val Poco
  4. フィガロのアリア 「ちょっとは目を開けて見ろ、恋に盲目な男よ」
    Tutto È Disposto, Giunse Alfin Il Momento
  5. スザンナのアリア 「とうとうその時が来たわ、早くおいで、美しい喜びよ」
    Pian Pianin Le Andro Piu Presso, Gente, Gente, All'armi, All'armi
  6. フィナーレ

オペラの初演はかなり成功を収めただろうと思われるが、それを伝える手紙(たぶんあったはず)は残っていない。 この時期のモーツァルトが父に送った手紙には『フィガロの結婚』を作曲し始めてから上演までの困難と苦労、そして上演のときの反響などが詳しく書かれていたに違いないが、それらの手紙をレオポルトは娘ナンネルに転送してしまい、そのため後世に残らない結果となったようである。 ただし、自筆譜は幸いなことに残っている。 それはベルリン国立図書館(旧プロイセン王立図書館)に所蔵されていたが、第2次世界大戦の戦火を逃れて、第3幕と第4幕がその他の文化財とともにシュレージエン地方に疎開され、戦後ポーランド・クラクフのヤギエロン図書館に秘蔵されていることが1977年になって明らかにされた。 同図書館はほかにもモーツァルトの貴重な自筆譜を120点あまり所蔵しているという。 第1幕と第2幕の自筆譜はベルリンの図書館に残存している。


1791年、宮廷劇場で公演されたときのポスター(ウィーン、オーストリア国立図書館蔵)

このときのブルク劇場のビラが残っている。

新しいジングシュピール。 帝室王室国民宮廷劇場で本日1786年5月1日『フィガロの結婚』が上演される。 イタリア語のジングシュピールで5幕。 音楽は楽長モーツァルト氏。 台本はイタリア語とドイツ語のものがあり、いずれも20クローネで場内係が発売。 開演は6時半。
[ドイッチュ&アイブル] p.193
5月1日の初演につづいて、3日に再演、8日に再々演された。 やはりモーツァルトが父に送った手紙(これも失われた)からこのオペラは好評だったと思われる。
1786年5月18日、レオポルトからザンクト・ギルゲンの娘へ
おまえの弟のオペラの再演では5曲が、それに再々演では7曲がアンコールされたが、そのなかで小二重唱曲は3回も歌わざるをえなかったのです。 あの子が約束を守るなら、オペラの台本とオペラ全曲の総譜は5月末に駅馬車で着くはずです。
[書簡全集 VI] p.290
自筆総譜と台本は7月に父のもとに届き、さっそくレオポルトはそれを娘に送っている。 このオペラがウィーンの聴衆の耳にどのように届いていたのか、「退屈だった」と記す個人の日記もあるが、7月11日の「ヴィーン実業新聞」は次のように報じている。
パリでは上演を禁じられ、当地でも「喜劇」としては翻訳が良くても悪くても上演を許されなかったこの作品を、我々はようやく「オペラ」として見ることができたのである。 この点に関してはフランス人より我々の方が上だと言えよう。
モーツァルト氏の音楽は最初の公演の時に既に大方の識者の賞賛を得た。
(中略)
何回かの公演を経た今、モーツァルト氏のこの音楽が芸術上の傑作であるということ以外の意見を述べようとすれば、それは陰謀かさもなければ無知によるものだとは誰の眼にも明らかであろう。
[ドイッチュ&アイブル] p.196
ウィーンでの再々演の翌日、このオペラの評判が日に日に高まるのを恐れて、皇帝ヨーゼフ2世は「聴衆に、一声部以上から成る部分を繰り返させてはならないと早急に通知するのが適切である」と通達を発していたことを踏まえて、上の新聞記事は『フィガロ』は傑作であると伝えているのである。 ただしウィーンでの上演は9回で打ち切られた。 宮廷側は力づくでも抑え込まなければならないと危機感を抱き、さまざまな陰謀があったからに違いない。 かわりに登場したのはダ・ポンテの台本によるイ・ソレールの『ウナ・コーサ・ララ(椿事)Una cosa rara』であり、ウィーンではその後1789年まで『フィガロ』は忘れ去られてしまう。

しかしウィーン初演から半年ほど経て、1786年12月に『フィガロ』がプラハで初演されたときは状況がまったく違っていた。 当地の名オペラ歌手を集めたボンディーニ(Psquale Bondini, 1737-89)の一座による上演は大成功となり、聴衆の熱狂的な支持を受けて再演を繰り返した。 この評判を受けて、プラハの「大識者愛好家協会」がモーツァルト夫妻を招待し、1787年1月8日、モーツァルトは妻コンスタンツェと数人のお供を連れてプラハに向かい、11日に到着。 プラハの新聞は次のように報じている。

我が偉大にして人気のある音楽家モーツァルト氏がヴィーンから当地を訪れた。 ボンディーニ氏が彼にその音楽的天才の発露である作品『フィガロの結婚』を上演させるであろうことを我々は疑わない。
[ドイッチュ&アイブル] p.198
プラハに着いたモーツァルトは友人のゴットフリート・フォン・ジャカン宛に書いている。
1787年1月15日
なにしろここでは、話題といえば『フィガロ』で持ちきり。 弾くのも、吹くのも、歌うのも、そして口笛も『フィガロ』ばかり。 『フィガロ』以外ほかのオペラになんか目もくれないんだ。 明けても暮れても『フィガロ』、『フィガロ』。 たしかに、ぼくには大変な名誉だよ。
[書簡全集 VI] p.339
そして1月22日、プラハ市民待望の瞬間が来た。 モーツァルト自身の指揮により『フィガロ』が上演されたのである。 彼はプラハで1000グルデンも稼ぎ、さらにボンディーニから「作曲料が100ドゥカーテンと公演1回分の売上金」という条件で次のシーズン用のオペラ作曲を依頼され、2月8日頃、ウィーンへの帰途についた。 ウィーンでは1786年12月18日を最後に『フィガロ』の上演は途絶えていたが、約2年半後の1789年8月29日に再上演された。 そのときスザンナ役のナンシー・ストレースはイギリスに帰国していたので、かわりにアドリアーナ・ガブリエリが歌うことになり、モーツァルトは彼女のために新たに2つの曲を追加した。 それは第4幕第28曲スザンナのアリア「とうとうその時が来たわ、早くおいで、美しい喜びよ」の代替曲ロンド「君を愛する人の願いに」(K.577)とアリア「喜びに躍りて」(K.579)である。 ヨーロッパ各地で『フィガロ』が上演されるようになるのもこの頃からであった。
モーツァルトの『フィガロの結婚』は、私にはオペラ史上まさに初めての「人間劇(コンメーディア・ウマーナ)」を創り上げた傑作に思える。
(中略)
現代のオペラ劇場で常に上演が可能で、しかも人気のある作品を私たちは「レパートリー・オペラ」と呼んでいる。 モーツァルトの『フィガロの結婚』はまさにオペラ史上最初の「レパートリー・オペラ」なのだ。 その歴史的位置のみか、現在でももっとも現在的なオペラ、それがモーツァルトの『フィガロの結婚』にほかならない。
[海老沢2] p.227
余談であるが、モーツァルト夫妻が熱狂的な『フィガロ』人気を背にプラハを離れ、ウィーンに戻って間もなく1786年2月23日ナンシー・ストレースの告別演奏会があった。 彼女が「汝をいかに忘れえん。恐れるな、愛する人よ」(K.505)を歌い、モーツァルトがオーケストラと協奏するピアノを弾いた。 この頃モーツァルトは英語の勉強をしていたらしく、イギリスへの旅行(あるいは移住)を考えていたと言われている。 しかし彼はかなり重い病気にかかったようであり、そのためか4月24日に「フィガロ・ハウス」を出て、安い家賃の借家(ラントシュトラーセ224番地)に引っ越した。 そのことをザルツブルクの父に伝えてはいるが(例によってその手紙も失われた)引越しの理由は書いていないという。 非常に紛らわしい話であるが、レオポルトは娘ナンネルの義理の息子ヴォルフガングの面倒をみていたようであり、そのヴォルフガングが重病で「長くはもたないだろう」という医者(バリザーニ博士)の言葉をナンネルに伝えているが、しかしレオポルト自身はもっと重い病気にかかっていて、5月28日に死去。 ヴォルフガングは7月6日に13歳で夭折。

〔演奏〕(全曲)
LD [東映EMI TOLW-3551〜2] t=180分
演出 : ホール Peter Hall
フィガロ ... スクラム Knut Skram / スザンナ ... コトルバシュ Ilena Cotrubas / バルトロ ... リンツレル Marius Rintzler / マルチェリーナ ... コンドー Nucci Condo / ケルビーノ ... フォン・シュターデ Frederica von Stade / アルマヴィーヴァ伯爵 ... ラクソン Benjamin Luxon / 伯爵夫人 ... テ・カナワ Kiri Te Kanawa / ほか プリチャード指揮ロンドンPO、グラインドボーン音楽祭Cho, ; 1973
LD [東映 LSZS 00197] t=164分
演出 : フェルゼンシュタイン Walter Felsenstein
フィガロ ... デネ Jozsef Dene / スザンナ ... ラインハルト・キス Ursula Reinhardt-Kiss / アルマヴィーヴァ伯爵 ... クリスィヒ Uwe Kreyssig / 伯爵夫人 ... ファレヴィチ Magdalena Falewicz / ケルビーノ ... トレケル・ブルクハルト Ute Trekel-Burckhardt / バルトロ ... アスムス Rudolf Asmus / マルチェリーナ ... ショープ・リプカ Ruth Schob-Lipka / ほか オーバーフランク指揮コーミシェ・オーパーO, Cho, ; 1976年
CD [EMI TOCE-9123-24] t=152'43
タッディ (B, フィガロ), モッフォ (S, スザンナ), シュワルツコップ (S, アルマヴィーヴァ伯爵夫人), ヴェヒター (Br, アルマヴィーヴァ伯爵), ほか
ジュリーニ指揮フィルハーモニア管弦楽団・合唱団, ; 1959
CD [CLASSIC CC-1064] (ハイライト)
ディスカウ (Br), プライ (Br), ヤノヴィッツ (S), マティス (S), トロヤノス (S), ジョンソン (Ms), 他
ベーム指揮ベルリン・ドイツ・オペラO, Cho, 1968

〔演奏〕(一部)
CD [ドイツ・シャルプラッテン 22TC-280] t=3'59(序曲)
スウィトナー指揮シュターツカペレ
CD [ポリドール POCL-1076] t=4'21(序曲)
プリチャード指揮ウィーンPO
CD [CBS SONY CSCR 8246] (27) t=4'44
グルベローヴァ (S) ; 1989
CD [EMI TOCE-7588] (6) t=2'35 (10) t=3'41 (11) t=2'53 (19) t=5'51 (27) t=5'12
シュワルツコップ (S) ; 1959
CD [COCO-78047] (23)行進曲 t=2'03
グラーフ指揮モーツァルテウム ; 1988
CD [PHILIPS PHCP-10552] t=4'36(序曲)
ブリュッヘン指揮18世紀オーケストラ ; 1988
CD [EMI TOCE-6819] (10) t=3'39 (11) t=3'44 (12) t=2'53 (28) t=3'01
デスデリ (Br), 他 ; 1959-1987
CD [POCA-1132] (11) t=2'47
オッター (MS) ; 1995
CD [L'oiseau Lyre 458 557-2] (15) t=4'43
スカルトゥリーティ (Br) ; 1996
CD [WPCS-21094] (9)
(9) シャリンガー (B)
(10) マルジョーノ (S)
(11) ラング (MS)
1993
CD [UCCG 1091]
コジェナー (Ms), スヴィエルチェフスキー指揮プラハ・フィルハーモニー管弦楽団
2001

〔演奏〕(編曲)
CD [BVCF-5003] (11) t=3'30 (19) t=3'38 (20) t=3'12 (9) t=4'06
ニュー・ロンドン・コラール
1984
CD [クラウン CRCC-10] (11) t=2'36 (9) t=3'20 (23) t=2'07 (22) t=1'45
山下和仁, 尚子 (g)
1991, 山下編曲
CD [CBS SONY 32DG83] (11) t=3'06
高橋美智子 (glass harp)
毛利蔵人編曲, チェンバロ伴奏
CD [SONY SRCR-9101] t=t'44 ベートーヴェン編曲 / t=10'23 ツェルニー編曲
カツァリス (p)
1992
CD [SRCR-9429] t=18'39
モッツァフィアート
1992, ザルトリウス編曲
CD [POCG-4131] t=12'56
シュルツ (fl), シェレンベルガー (ob)
1987
編者不詳
CD [harmonia mundi 3903008] t=8'47
ブダペスト管弦Ens
1989
ヴェント編曲
CD [EMI 7243 5 55513 2 0] t=8'29
トリオ・ディ・クラローネ (basset-hr)
1985
R.Schottstadt編曲
CD [Victor VICC-104] 序曲 t=4'19
モーツァルト・ジャズ・トリオ
1991年
CD [GLOSSA GCD 920602] t=9'42
シュタドラー・トリオ (basset-hr)
1996
CD [CAMPANELIA Musica C 130076] (11) t=2'08
ズュス (hp), シュトル (cb)
1998
CD [BICL 62193]
近藤研二、松井朝敬(ウクレレ)
2006
CD [PCCY 30090]
ディール (p), ウォン (bs), デイヴィス (ds)
2006

〔動画〕

 

 

Luisa Laschi-Mombelli

1760頃 - 1789頃

ルイーザ・ラスキはフィレンツェに生まれのソプラノ歌手。 1784年にウィーンに来て9月25日、ブルク劇場でデビュー。 そのとき、「彼女は美しく澄んだ声を持ち、とても音楽的であり、どのオペラ歌手よりも表情豊に歌い、美しい姿をしている」と賞賛された。 1786年11月にブルク劇場のオペラ歌手ドメニコ・モンベッリ(1751-1835)と結婚。

 
 

Michael Kelly

1762 - 1826

アイルランド出身の俳優で、テノール歌手。 1779年から1783年までイタリア遊学、オケリ(Ochelli)と呼ばれていた。 1783年から1787年までウィーンで活躍。 1787年2月、ナンシー・ストレースの家族たちとイギリスに帰国。

ケリーの回想

3つのオペラがテーブルの上に並んだ。 レジーニ、サリエリ、モーツァルトの作品だ。 3つの作品はほぼ同じ頃に上演可能の運びになり、初演を争っていた。 3人の性格はそれぞれ異なっている。 モーツァルトはまるで火薬のようにすぐ火のつく男で、もし自分の作品が最初に上演されなかったら、スコアを火の中に放り込んでしまうと言っていた。 その反対に、レジーニはモグラのように闇の中で、秘かに優先権を得るための工作をした。 宮廷楽長サリエリは利口で鋭い男で「ひねくれた知恵」の持ち主だった。 私は最初のオーケストラによるリハーサルのことを憶えている。 モーツァルトは深紅のコートを着て、金のレースのついた礼帽をかぶり舞台に立っていた。 フィガロの歌「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」で、ベヌッチが活気に満ちた堂々とした声で歌った。 モーツァルトは小さな声で「いいぞ、ベヌッチ」と何度も言っていた。 そしてベヌッチが「ケルビーノ、進め、勝利へ、軍の栄光へ」という結びのところまでくると、ものすごい大声を出した。 その効果は電撃のようで、舞台上の出演者たちもオーケストラも、皆がいっせいに喜びの感情に包まれたかのように「ブラヴォ、万歳、偉大なモーツァルト」と連呼した。 小柄な先生は何度もお辞儀をして、熱狂的な拍手に答えていた。

 

〔参考文献〕

 

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2013/09/08
Mozart con grazia