Mozart con grazia > 弦楽二重奏曲 >
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ヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲 ト長調 K.423

  1. Allegro ト長調 4/4 ソナタ形式
  2. Adagio ハ長調 3/4 三部形式
  3. Rondo : Allegro ト長調 2/2 ロンド形式
〔作曲〕 1783年7〜10月 ザルツブルク

1782年8月4日、モーツァルトは父の同意のないままウィーンの聖シュテファン教会でコンスタンツェと結婚式を挙げたが、郷里ザルツブルクの父の前で結婚成就を披露したいと考えていた。 そのために請願ミサ(K.427)を用意しようとしていたことはよく知られている。 しかしウィーンでの仕事が忙しく、また新妻コンスタンツェの体調不良などの理由で帰郷は延び延びになっていた。

1782年10月19日、ザルツブルクの父へ
あなたの霊名の祝日である11月15日までには、ザルツブルクに行っていたいと思っていました。 でも、いまヴィーンでは一番の稼ぎ時が始まりました。 貴族たちは田舎から帰って、レッスンを始めます。 それに演奏会がまた始まります。 12月の初めまでに、ぼくはヴィーンに戻らないといけません。 妻とぼくにとって、そんなにせわしない旅立ちはどんなに辛いことでしょう。 むろんぼくらは親愛なお父さんやお姉さんと一緒にもっと長い間過ごしたいのですから! だから、長いほうがいいか、短いほうがいいか? それはお父さん次第です。 来年の春には、ザルツブルクへ行くつもりです。
[書簡全集 V] pp.303-304
年末に引越しがあり、年が明けても多忙な演奏会活動の事情は変らず、3月23日にはブルク劇場で音楽会が催されたことを知らせている。
1783年3月29日、ザルツブルクの父へ
ぼくの演奏会の成功について、あれこれ語るまでもないと思います。 たぶん、もう評判をお聞きになったでしょう。 要するに、劇場はもう立錐の余地がないほどで、どの桟敷席も満員でした。 なによりもうれしかったのは、皇帝陛下もお見えになったことです。
同書 p.351
そして手紙の中で曲目を詳しく書いている。 これには父レオポルトも息子の帰郷が遅れている事情を納得せざるを得なかっただろう。 さらにコンスタンツェの出産(1783年6月17日、長男ライムント・レオポルト誕生)もあり、帰郷が実現したのは1783年7月になってからだった。 ザルツブルクには10月26日まで滞在することになり、その最後の日に聖ペテロ教会でミサ曲(K.427)が演奏され、翌日の朝にはウィーンへ向かって故郷をあとにしたのだったが、この7月末から10月下旬までのザルツブルク滞在中にモーツァルトはヴァイオリンとヴィオラという珍しい組み合せの二重奏曲を2つ書いた。 それがト長調(K.423)と変ロ長調(K.424)である。 この2曲については、以下のようなエピソードが伝えられている。

この年の夏、モーツァルトにとってかつての同僚であったミハイル・ハイドン(当時46歳)はザルツブルクのコロレド大司教(当時51歳)から6曲のヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲の作曲を依頼されていたところ、病気のため2曲がまだできずにいたという。 彼とは旧知の仲であり、また彼を非常に優れた対位法の作曲家(1776年9月4日のマルティーニ神父に宛てた手紙)と尊敬していたこともあり、ましてさらに、大司教に一矢を報いるためならば、友人を助けないわけにはゆかないとモーツァルトは考えただろう。 「ミヒャエルの二人の弟子、G.シンとF.J.オッターに由来する」と言われている逸話がある。

病人は自分の状態を述べて詫びたが、しかし弁解を好まない大司教はただちにハイドンの俸給を停止しておくように命じた。 なぜならこれが、医者と薬屋の支払いに俸給しか当てることのできないような人間の恢復を早める最も確実な手段だったからである。 毎日病人を見舞っていたモーツァルトは、病人が絶望しているのを見てたずねたところ、大司教の決定を聞かされた。 モーツァルトは、助けることができるときに慰めの言葉でごまかすというようなことを好まなかった。 哀れな友にはひとことも言わずに、彼は家に閉じこもり、二日後にはきれいに清書した二重奏曲を友のところへ持ってくる。 そして大司教に引き渡すことができるように、その扉にはミヒャエル・ハイドンの名前しか書かせなかった・・・
[アインシュタイン] pp.259-260
アインシュタインはこのような逸話をすべて鵜呑みにしているわけでなく、
コロレドが再び演じさせられた『人食い鬼』の役は、おそらく作りごとであろう。 なぜ6つの二重奏曲がその日までに完成されなければならないのかわからないし、ついでに言えば、これらの二重奏曲は決してミヒャエル・ハイドンによって出版されなかったのである。
と言い、「おそらく、一度この分野でも腕だめしをしてみようという気持が彼を襲っただけのことであろう」と素っ気ない。 ただしこの作り話のようなエピソードもいくらかは真実を含んでいるかもしれない。 モーツァルトのザルツブルク滞在中、姉ナンネルは日記に9月12日ミハイル・ハイドンほかが訪ねて来て四重奏をしたことを記している。 このような機会にミハイルの4つの二重奏曲(ハ長調、ニ長調、ホ長調、ヘ長調)が話題になり、刺激を受けたという可能性もないとは言えない。 そしてそれら4つの調性以外の2曲を書いて見せたということかもしれない。 しかしすべて推測の域を出ない。 付け加えておくと、ナンネルの日記に「モーツァルトが毎日病人を見舞っていた」という記載はまったく見当たらない。 とにかくモーツァルトが書いたヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲はザルツブルク帰郷中のト長調(K.423)と変ロ長調(K.424)の2曲のみであることには、何かわけがあったことは確かであろう。 そのわけとはミハイル・ハイドンの急場を救うためであるという伝説を単純に信じるかどうかは別にして、モーツァルトにとって片手間の仕事などではなく、意欲的に取り組んだ傑作が生まれることとなった。
第一楽章における展開部のカノンはなんと魅惑的なことか! 彼は最高級の芸術作品を創造したのであり、新鮮さ、陽気さ、ヴァイオリン向きの性格によって、その種類の唯一無二のものとなっているのである。
(中略)
モーツァルトは、これらの作品を作曲していたときには、もちろん大司教コロレドのことなど考えもしなかったであろうが、ついにはミヒャエル・ハイドンのことさえすっかり忘れてしまったのである。
[アインシュタイン] pp.262-263
一方で、ロビンズ・ランドンは上記の伝説(伝承)をすっかり信じているようであり、さらに「これら2つの作品をザルツブルクの同僚のために書いたのは、親切心からだけではなく、尊敬心からでもあった」とさえ推察している。 そのうえで「モーツァルトはあきらかにミヒャエル・ハイドンの様式で作曲することに腐心した」といい、次のように解説している。
万一発覚してハイドンの信用を落とすわけにはいかなかったからである。 モーツァルトがみずからの作であることをカムフラージュするために使った工夫には、K.424では冒頭楽章の小鳥のような装飾音型やトリル、K.423のフィナーレでは民衆的なメロディがある。
K.423の冒頭アレグロは、通常のソナタ形式による凝縮された楽章である。 歌うようなアダージョは、まさに本当に遅いテンポを使っていることによって、モーツァルトのさらなるカムフラージュ戦術である。
[全作品事典] p.343
また、ソロモンもハイドンの弟子たちの証言をそのまま受け取る側にいる。
信憑性が高い。 とすると、大司教がモーツァルトの作品とは知らずに喜んでいる姿を想像して、モーツァルトはひそかに笑っていたかもしれない。
[ソロモン] p.421
ミハエル・ハイドンはモーツァルトの自筆譜を生涯大切に保存し、友情の記念碑としたと言い伝えられている。 しかしこのような伝承の信憑性というものの根拠はどこにあるのだろう。 確かなことは、モーツァルトのザルツブルク中にハイドンの弟と会っていること、2つの二重奏曲を書いたことだけであり、たとえそのときハイドンが病気だったとしてもこの2つの事実を結びつける証拠が見当たらない。 その反対に、モーツァルトには二重奏曲を内緒にしておこうというような気持ちがあったとはとても思えない。
モーツァルトは、自分の2つの作品に対する所有権を放棄しなかったのである。 なぜなら彼は1783年12月6日と24日に、父にその返還を乞うているからである。
[アインシュタイン] p.260
その手紙の内容は
1783年12月6日、ザルツブルクの父へ
ぼくの『イドメネーオ』と、2つの『ヴァイオリン二重奏曲』、それからゼバスティアン・バッハのフーガをできるだけ早く送ってくださいね。 今度の四旬節(劇場でのぼくの演奏会のほかに)6回の予約演奏会を開くので、『イドメネーオ』が必要なのです。
 
1783年12月24日、ザルツブルクの父へ
もう一度お願いしますが、例の2つの二重奏曲とバッハのフーガ、それから何よりも『イドメネーオ』を送ってください。 そのわけは御存知でしょう。
[書簡全集 V] p.435, p.441
というものである。 ところで、ミハイルの兄ヨーゼフも「ヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲」を6曲書いている(Hob.VI、1775年出版)。 アインシュタインは「おそらくモーツァルトはヨーゼフ・ハイドンの作品をも知っていただろう」と言っている。 とにかく、モーツァルトの2曲の「二重奏曲」の成立について、その時期と場所はわかっていても、動機はまったく不明であり、上記の伝承はその問題解決にはならず、謎を提供しているだけと言わざるを得ない。 なお、[全作品事典]では、パウル・アンゲラー(1995)が「モーツァルトの2曲はミヒャエルの4曲への追加作品ではない」と言っていること、またゲルハルト・クロル(1987)が上記伝承そのものの信憑性を疑っていることに言及している。 この「二重奏曲」にまつわる逸話について見直しがなされつつあるようである。 カリフォルニア大学ロサンゼルス校音楽博士論文「A Matter of Taste: Duos for Violin and Viola by Joseph Haydn, Michael Haydn, and Wolfgang Amadeus Mozart」(Alison Elaine Spieth 2012年)ではこの問題に真正面から取り組んでいる。

その後、1788年6月18日にウィーンで『ヴァイオリンとヴィオラのための6曲の二重奏曲。 最初の4曲はミヒャエル・ハイドンの作。 5番目と6番目はモーツァルトの作。 5フロリーン30クロイツァー』という新聞広告が出ている。 この広告が上記伝承の信憑性をいくらか後押ししていたのかもしれない。 その頃はモーツァルトは経済的に困窮状態にあり、さかんにプフベルクに借金を申し出るようになった時期であった。 同じ6月25日には『予約注文が少ないので五重奏曲の出版を半年延期する』という新聞広告を出している。 演奏会以外に出版という形で収入を得るために、モーツァルトは売れそうな室内楽曲として過去の作品も利用しようとしていたのだろう。 また、モーツァルトの死後、1792年アルタリア社から2曲の二重奏曲(K.423とK.424)が出版されているが、これもモーツァルト自身が意図していたものであり、死が早すぎたのであった。 なお、自筆譜はニューヨークのピアポント・モーガン図書館蔵になっているという。

〔演奏〕
CD [U.S.A. Music and Arts CD-665] t=14'35
ゴールドベルク Szymon Goldberg (vn), リッデル Frederick Riddle (va)
1940年、ロンドン?
CD [PHILIPS PHCP-9642] t=14'38
グリュミオー Arthur Grumiaux (vn), ペリッチャ Arrigo Pelliccia (va)
1968年6月、アムステルダム、コンセルトヘボウ
CD [harmonia mundi HMA 1901052] t=16'39
パスキエ Regis Pasquier (vn, Montagnana, Venise 1742), Bruno Pasquier (va, Maggini, Brescia ca. 1600)
1980年、4月
CD [POCG-1176] t=16'40
クレメル Gidon Kremer (vn), カシュカシャン Kim Kashkashian (va)
1984年、ウィーン
CD [SONY SRCR 8541] t=15'54
ベス Vera Beths (vn), クスマウル Jurgen Kussmaul (va)
1990年9月、オランダ、ハールレムのルーテル教会

〔動画〕

ミハイル・ハイドンの「ヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲」
※以下はすべて Barnabás Kelemen (vn), Katalin Kokas (va) による演奏

〔参考文献〕


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2016/08/21
Mozart con grazia