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1777年

21歳

1777年1月


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1月

前年の『4つの田園舞曲 ヘ長調』(K.101)を

に編曲。 また、大司教の食卓音楽として を作曲。

この頃、大胆な独創性をもつフランス風の作品

を作曲。

1777年2月





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2月

モーツァルト家と交友があったザルツブルク宮中顧問官シーデンホーフェン(30才)が悪性腫瘍にかかり、自宅療養となったため、22日にモーツァルトが、26日には父レオポルトが見舞いに行く。
その後、回復するが、4月にも再発。

<余談>
1770年、ローマ教皇クレメンス14世から法王庁騎士に任ぜられ、「黄金拍車勲章」を授かっていたが、その勲章を付けた21才のモーツァルトの肖像画がこの年(1777年)に描かれた。 その勲章を授かった音楽家は、モーツァルト以前には200年前の巨匠オルランド・ディ・ラッソ(Orlando di Lasso, 1532?-94)だけという特別なものであった。
この肖像画の作者は不明。 また、いつ、どんな目的で描かれたのかもわからない。 しかし画面には「騎士アマデーオ・ヴォルフガンゴ・モーツァルト、ボローニャとヴェローナのアカデミア・フィラルモニカの会員 CAV. AMADEO WOLFGANGO MOZART ACCAD. FILARMON : DI BOLOG. E DI VERONA」と書かれているので、その物物しい肩書きを強調したうえでの肖像画であるからには相当の目的があったはずと思われる。
1777年3月





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3月・4月・5月

謝肉祭のために、他の舞曲を寄せ集め

を作曲。 また、四旬節用に次を作曲。 さらに、復活祭のために を作曲。 この頃、 を作曲。 自筆譜には「ヴァイオリン2とバス(チェロ)のための三重奏曲」と別人の筆跡で書かれてあるという。

5月4日、ザルツブルクの富豪ロビニッヒ(67才)の邸宅で音楽会があり、三女ルイーズ嬢(20才)がピアノ協奏曲を弾いた。 1月に作曲した通称『ジュノム』(K.271)か。

5月11日、病気から回復したシーデンホーフェンがモーツァルト家を訪問したところ、レオポルトがリューマチを患っていたという。

1777年6月






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6月

13日、モーツァルトの自宅で

を試演。 これは、ロドロン伯夫人の依頼で作曲したもので、「第2ロドロン・セレナード」とも呼ばれる。 伯爵夫人アントーニアの霊命の祝日に合せたものである。 シーデンホーフェンの日記によると、8日間で作曲したという。

16日、バリザーニの家で上の曲を演奏。

1777年7月

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7月

25日、資材業者グセッティ(Giovanni Battista Gussetti, 1744-89)の家で、モーツァルトが姉のために作ろうとしていた曲(シンフォニー、ヴァイオリン協奏曲、フルート協奏曲など)が試演された。 ヴァイオリン協奏曲は「ニ長調 K.271i」ではないか、またフルート協奏曲は「ニ長調 K.314」ではないかと思われている。 このときフルートを演奏したのはコントラバス奏者のカッセル(Joseph Thomas Cassel)であり、彼はフルートもたくみであったという。 また、グセッティも音楽愛好家であり、彼はヴァイオリンとホルンが得意であったという。

27日、新大陸では、ラファイエットのフランス義勇軍がフィラデルフィアに到着した。 2ヶ月後イギリス軍に占領される。 しかしアメリカのジョージ・ワシントン将軍はイギリス軍をフィラデルフィアに釘付けにして、9月から10月にかけてサラトガの戦いで勝利。 11月には「アメリカ合衆国」の名称が決まった。

8月

15日、モーツァルト家で音楽会があった。 プラハからザルツブルクを訪問していたヨゼファ・ドゥーシェク夫人のために作曲した

をドゥーシェク夫人(24才)みずからが歌ったかもしれない。 彼女は前年10月にプラハで結婚したばかりで、夫(46才)とともに母方のヴァイザー家を訪ねてザルツブルクに来ていた。 優れたソプラノ歌手であり、そのためモーツァルトは創作意欲をかきたてられたのだろう。 このとき彼女は「声はとても澄んでいて心地よく、自分のスタイルがあって、たいへん愛らしく歌った」という。 また、シーデンホーフェンの日記によると、モーツァルト姉弟は1台のハープシコードを一緒に弾いたという。 ただしその曲はわかっていない。

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9月

1日、就職活動のために、大司教に休暇と旅行の申し出をしたところ、その許しが下りた。 ただし、それと同時に、レオポルトの解雇が通達された。シーデンホーフェンの日記によると、そのため父レオポルトは病気(重いカタル)に病んだ。

大旅行の無事を祈願して、次の3つの教会音楽が作られた。

23日、母と二人で就職活動のためザルツブルクを出発。 ただし沢山の紹介状を忘れてしまった。 翌日ミュンヘン到着。 宮廷への就職はできず、父の勧めに従って10月11日ミュンヘンをたち、父の故郷アウクスブルクへ行き、そこで重要な2人の人物と会う。 つまり従姉妹のマリア・アンナ・テークラ(愛称ベーズレ)とクラヴィア職人J.A.シュタイン

26日、父の解雇が取り消された。

1777年10月


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10月

6日、ミュンヘンから姉へ

姉さんにシュスターのクラヴィチェンバロとヴァイオリンのための二重奏曲を6曲送ります。 この地で何回も弾いてみたものです。悪くありません。ここに滞在することになれば、僕も同じ趣味のものを6曲作ります。 ここでは、そういうのが大へん人気があるからです。
ヨゼフ・シュスター(1748〜1812)はドレスデンの宮廷楽長で、この頃イタリア旅行の帰途にミュンヘンの宮廷で6曲のヴァイオリン・ソナタに相当する曲を書いたらしい。 刺激されたモーツァルトは後にいわゆる「マンハイム・ソナタ」 K.296 〜 360 を作る。

ミュンヘンで

を作曲。 これはトッカータとカプリチオの2つの部分から成り、テンポや調性の目まぐるしい変化の練習曲。

11日、アウクスブルク着。 旅館「ツーム・ヴァイセン・ラム Zum Weissen Lamm(白羊館)」に泊る。 2泊の予定だったが、同伴するのが厳格な父でなく母親だったせいか、いろいろ楽しんで、ここに26日まで2週間も滞在する。
ここには13年後の1790年にも訪れるが、ちょうどその年にゲーテも泊っている。 この旅館は今はなく、かつてモーツァルトとゲーテが宿泊したことを記す石板があるだけ。

14日、父への手紙の中で、アウクスブルク市長ランゲンマンテル邸を訪問し、シュタインの製作した上等のクラヴィコードを弾いたことを知らせている。 シュペートとは南独レーゲンスブルクのピアノ製作者。

16〜17日、アウクスブルクから父へ

僕たちのベーズレが美しく、賢く、愛らしく、器用で、陽気な人であることは請け合います。 本当に僕たち二人は馬が合います。なにしろあの人は、ちょっぴり意地悪ですから。 僕たち二人がみんなをからかってやると、愉快になります。

シュタインのピアノをまだ見ていないうちは、シュペートのピアノが一番好きでしたが、今はシュタインの方が勝っていると言わざるを得ません。 この方が共鳴の抑えが利くからです。強く叩くと、指をのせておこうと離そうと、鳴らした瞬間に、その音は消えてしまいます。 思い通りに鍵盤を打っても、音はいつも一様です。消音装置が付けられていることも他にない特徴です。 鍵盤を叩くと、それをそのまま抑えていようと離そうと、ハンマーは弦の上に弾ねかえり、その瞬間にまた下ります。

19日、アウクスブルクで、モーツァルトはヴァンハルの「ヴァイオリン協奏曲変ロ長調」を演奏。

22日、フッガー伯爵邸でシュタイン、デムラー、そしてモーツァルトが3台のピアノのための協奏曲K.242を演奏した。

23日、レオポルト(ザルツブルク)から妻へ

ヴォルフガングに、「星座館」で踊ったりしていつも親密にしていた、 あの目のぱっちりした宮廷パン職人の娘さんがその後ロレートの修道院に入っていたが、父親の家にまた戻って来たことを伝えてほしい。 ヴォルフガングがザルツブルクから旅に出たがっていると聞いて、彼女は会って引き留めようと思っているのだ。 修道院に入るのに費やした金額を彼は支払って上げるのがいいだろう。

24日、アウクスブルクから父へ

あの娘の件には何の異論もありません。ずっと前からそうなると予感していました。 でもその話はザルツブルク中にまだ知られていないといいのですが。そのことをできるだけ長く鎮めておいて下さい。 そして修道院に入るのに要した費用を、僕がザルツブルクに戻るまで、そしてあのかわいそうな娘がまた健康を回復して、修道院の生活にすっかり落ち着くまで、僕のために弁償しておいて下さい。お願いします。

30日、マンハイムに到着し、4ヶ月半滞在する。 そこでマンハイム楽派の音楽に接した。 親しく交際した人たちに歌手のアントン・ラーフ、フルート奏者ヨハン・バプティスト・ヴェンドリング、オーボエ奏者フリードリヒ・ラムなどがいる。 またアロイジア・ウェーバーに恋する。

この頃のマンハイムでは選帝侯カール・テオドールは文化活動を奨励し、ドイツにおける文化全般の中心地を作り上げていた。 音楽界ではシュターミツの弟子カンナビヒはさらにオーケストラの指揮法や演奏技術を高め完成させていた。 それは完全で緊密な全楽員の協同、整然と一致したボーイング、正確なフレージング、ダイナミックな効果の適切な使用など。 そして多くの優秀な音楽家が集まり作曲技法についても様々な改良が成されていた。

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11月

5日、マンハイムから従姉妹のマリア・アンナ・テークラへ例の語呂合わせ満載の「ウンコ手紙」を書いた。 これを初めとして、有名な「ベーズレ書簡集」が後世できる。 厳格な父から離れ、新しい音楽の世界を知り、青年モーツァルトのインスピレーションが自由に生き生きと湧き出していたのだろうか。 ただし、18世紀当時このような下品な表現は珍しくないことだとか、モーツァルトにおいては内心の緊張とのバランス上の現象だとか、いろいろな説がある。

同じ日、父には、マンハイムの宮廷楽団コンサート・マスター、カンナビヒの娘ローザ(当時13歳)のために

を書いていることを「ロンドのところまで進みました」と伝えた。 その譜面には、彼には珍しく、非常に細かい表情記号が書かれてある。彼は機械のような無表情な演奏を嫌った。 第2楽章は「ローザ嬢の性格に合わせて」書かれたものという。

8日、マンハイムから父へ

僕は詩のようには書けません、詩人ではないから。 文句をうまく配置して、影と光が生じるようにはできません、画家ではないから。 手振りや身振りで気持ちや考えを表すことさえできません、舞踏家ではないから。でも僕は、音でなら、それができます。 僕は音楽家です。それで、明日カンナビヒさんの家で、父上の聖名祝日かつ誕生日を祝って、ピアノを弾くことにします。

14日、マンハイムから父への手紙で、「3日前からローザ嬢にソナタを教え始めました。アンダンテで一番苦労するでしょう。 エクスプレッションが沢山あり、味わいとフォルテとピアノをもって、書かれてある通りに弾かなければならないからです」と書いている。 そして、そのソナタ K.309 (284b)の最初のアレグロがこの日でき上がったことも伝えている。 さらに、カンナビヒ宅で、大勢の前で「ウンコ」とか「尻舐め」とかの語呂合わせでふざけ過ぎてしまったことを反省している。

マンハイム・パリ旅行中に書かれた3曲のピアノ・ソナタの一つになる

を作曲。 これは、1774年ミュンヘンを訪れたとき、フォン・フライジンゲ家の令嬢ヨゼファから依頼を受けていたが、草稿のままにしていたらしい。

マンハイムのフルート奏者J.B.ヴェントリングの娘アウグステのために

を作曲。 フェラン(1678-1719)によるフランス語の詩で、アウグステの提供による。

17日、ザルツブルクから父は、息子が肝心の仕事を忘れて遊びふけっていることを心配し、彼には珍しく自作の詩まで作って息子を皮肉り、戒める手紙を書いた。

この頃、

を作曲したらしいが、散失。

28日か29日、選挙侯カール・テオドール侯令嬢のために

を作曲したが、これも紛失。

29日、父が自分を誤解し、遊んでばかりいると思われていることに対して弁明の手紙を書いた。

選帝侯にじきじき申し上げる機会を作るため、フィッシャーのメヌエットを基にした簡単な変奏曲を若い伯爵のところへ持って行こうと決心しました。 そこへ行ったときの女家庭教師の喜びようときたら、パパはとても想像できないでしょう。 とても丁寧に迎えてくれました。変奏曲を取り出して、「これは伯爵のために書いたものです」と言うと、「お嬢様にも何か書いて下さるのでしょうね」と言いました。 そこでその家庭教師に事情を話しました。そして、伯爵令嬢のために何かを持って行くことに話が決まりました。
この中で、マンハイムで目的を果たそうと努力していること、そのためにサヴィオーリ伯爵を訪ねて、テオドール選帝侯に会えるよう取り計らってもらう約束をしたが、彼は一向に実行してくれなかったことなど、詳しく記した。 なお、簡単な変奏曲とは、12のピアノ変奏曲K.189aのこと。

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12月

3日、マンハイムから父に手紙を送り、「テオドール侯とうまく会見できたが、就職の話は決まらなかった」ことを書いた。 そして「パリへ行けば金と名誉が得られる。カンナビヒや他の者は皆そうしている」と言われていることについて、父の意見を求めた。
その一方で、例のベースレへは次のように書き送っている。

先日は機嫌が悪かったので、きれいにまっすぐ真面目に書いた。今日は機嫌がいいので、汚く曲がりくねった手紙を書いている。 ところで、僕がまだマンハイムにいると知ったら君はどう思う。つまり僕がまだ出発しないのが悪いわけだ。しかし、まもなくマンハイムを立つつもりだ。 僕も君との約束を守らねばならない。それを聞いて嬉しいかい。だが、君はソナタのためのミュンヘンを作曲するのを忘れてはいけないよ。 つまり一度演奏したものに対しては、約束を守らなければならないし、人間を守らないような約束であってはならない。

10日、マンハイムから父への手紙で、「何とか返事を聞こうと、宮廷の発表会へ行ったが、サヴィオーリ伯爵は僕を避けていた」こと、結局はダメだと分かり、まっすぐカンナビヒの家へ行き、「サヴィオーリ伯爵が不採用であることを明言せず、いたずらに期待を持たせていた」ことを皆に話したと書いた。 そこでカンナビヒ家の会計主任グレースは同情してくれ、ローゼ嬢はピアノ・ソナタ K.284b (309) を真剣に弾いて慰めてくれた。 モーツァルトは涙を抑えることができず、そしてカンナビヒ家の皆がもらい泣きしたという。 翌日は、ヴェンドリング氏のところで食事になり、ドゥ・ジャンが「フルートのための小さな、やさしい、短い協奏曲を3曲と、四重奏を2、3曲作ってくれれば、200フローリン差し上げる」と言っていることを聞いた。
実際には、フルート四重奏2曲 K.285, 285a, 285b とフルート協奏曲3曲 K.285c, 285d を作って、わずか96フローリンもらっただけだった。

21日、ザルツブルクで「ミサ曲第13番 変ロ長調 K.272b (275)」が初演。

25日、マンハイムで、ドゥ・ジャンの依頼により

を作曲。 ゲオンは、第1楽章を「走る悲しさ tristesse allante」と評した。


この年、ザルツブルクでの作と見られる次の曲がある。

初夏の頃、大司教の食卓音楽の最後の曲として

があるが、自筆譜がなく、技法が拙く、真作でないとされた。

7月16日

自筆稿は1837年までパリにあった後紛失。 2種類の写本が残るが、他人の手が加わり疑問。
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2012/05/13
Mozart con grazia