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1768年

12歳
1768年1月




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1月

9日、モーツァルト一家は前年12月24日から滞在していたブリュノを出発。

10日、猛吹雪のなかウィーン着。

16日、ウィーンで

を作曲。 モーツァルトのシンフォニーとして初めて、この曲からトランペットとティンパニが登場。 メヌエット楽章を除いた部分をオペラ『ラ・フィンタ・センプリチェ』序曲に使っている。

この頃

を作ったらしい(アインシュタイン説)。

19日、宮殿で女帝マリア・テレージアに謁見。 1月末、皇帝ヨーゼフ2世の勧めでオペラ『見てくれのばか娘(ラ・フィンタ・センプリーチェ)』(K.51)を作曲し始める。 しかし同時に帝室劇場請負人ジュゼッペ・アフリジョ(Giuseppe Afflisio [Affligio]、本名 Marcati, 1719-87)を中心する陰謀、妨害がモーツァルト父子を苦しめ、結局のところオペラは完成するがウィーンで上演されずに終ってしまうことになるのだが。

2月

モーツァルト一家のウィーン滞在が続き、レオポルトはザルツブルクに「いくらかカタルや鼻かぜがある以外は、みんな元気です」と伝えている。 また、ザルツブルクと同様に「オペラ、仮面舞踏会、舞踏会、芝居」などがあるだけで、特別なニュースはないとも書いている。

1768年3月

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3月

予想以上に長引くウィーン滞在に対し、寛大であったザルツブルクのシュラッテンバッハ大司教もさすがにしびれをきらし、レオポルトの俸給差し止めが命じられた。
3月18日
慈悲深き御許しにより目下当地に留まらざる宮廷音楽家達、即ち楽長モーツァルト、マイスナー、キュッフルが来たる4月に再び当地に現われざる場合、向後彼等には給料支払われざるものなり。 宮廷会計局にはこの件に関し万々遺漏なきこと。
[ドイッチュ&アイブル] p.68
モーツァルト一家がザルツブルクに戻るのは翌1769年1月5日になり、結局のところ3月から12月までの俸給が支払われなかった。

はっきりとした日付はわからないが、21日の週にロシア大使フォン・ガリツィン侯の邸宅で音楽会が催された。 モーツァルト姉弟の演奏があったであろうが、何を演奏したかは不明。

月末、ドナウ川の氷が割れ、春の訪れを喜ぶとともに、レオポルトはウィーン宮廷のさまざまな妨害に打ち克ったことを郷里に伝えている。 しかしその勝利宣言とは裏腹に、むしろ多くの敵を作ってしまう結果となり、不幸なことにレオポルトはそのことまで思いが至らなかったようである。

1768年4月




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4月

20日以前に、ザルツブルクの貴族の結婚式がウィーンでおこなわれ、それに合せてレオポルトの発案で音楽会が催された。 これもはっきりした日付や演奏された曲について何もわからない。

ザルツブルク宮廷からの警告(給料差し止め)を無視するかのようにモーツァルト一家がウィーンに長期滞在する裏には、レオポルトのウィーン移住作戦があったようである。 パリ社交界の中心人物で「サロンの女王」と呼ばれていたジョフラン夫人(Marie Thérèse Geoffrin, 1699-1777)からウィーンのカウニッツ侯爵宛に「モーツァルトを雇ってほしい」という手紙(27日)が届けられた。 侯爵はその手紙の裏にレオポルトの影をちらりと見たかもしれない。

4月から6月にかけて、ウィーンで、ヨーゼフ2世の依頼による

を完成。 交響曲第7番(K.45)を改編してこのオペラの序曲とした。 レオポルトはこのオペラの上演は皇帝がウィーンに戻る6月に行われると予想していた。

1763年6月から1766年11月までの3年半に及ぶ西方への大旅行は大成功だったが、このウィーン旅行の方は実りがなかった。 オペラ『見てくれのばか娘』に対してもウィーンの音楽界の妨害があり、父レオポルトは皇帝に訴えたほどだった。 結局このオペラのウィーン上演はならず、初演は翌1769年ザルツブルクにおいてとなる。

1768年5月






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5月〜6月

この頃 を作っていたらしい。 ニッセンの記述によると、医師アントン・メスメルの依頼で。ただし作曲時期や動機は不明。 台本はジャン・ジャック・ルソーの「村の占師」や、そのパロディー化したファヴァール・アルニーの「バスティアンとバスティエンヌの恋」。

7月〜8月

ジングシュピール『バスティアンとバスティエンヌ』の第11曲アリア「いとしい人のきれいな頬を」の歌詞を変え、ピアノ伴奏にして を作曲したかもしれない。

9月

1日、ウィーンで を作曲。 1925年に自筆譜が一緒に閉じられて発見され、ヴァイオリンとチェロの二重奏ソナタと推定されている。

この頃ウィーンで

を作曲したかもしれない。 聖霊降臨祭の典礼に奉献するためと『孤児院ミサ』(K.139)習作のためとの2説ある。 約2年前の奉献歌(K.34)と比べて格段に進歩を遂げている。

21日、レオポルトはオペラ「見てくれのばか娘」に対する妨害について、皇帝に「供述書」を書いて訴えた。 このとき今までにヴォルフガングが作曲した作品目録を作ったという。 この最初の「モーツァルト作品目録」は姉ナンネルが1799年にライプツィヒのブライトコップ&ヘルテル社に送られ、現在はパリ国立図書館にある。

この頃、パールハマー氏の依頼により

を作曲したらしい。 12月7日ウィーンのレンヴェークの孤児院の新教会献堂式のためのものらしい。

10月

10月か11月、レンヴェークの孤児院の新教会献堂式のため を作曲。

同じ頃

を作曲。 目的は不明。

11月

ウィーンで、かつて 天然痘にかかたとき治療してくれたオルミッツの医師ヴォルフのために を作曲。 これは最初の歌曲で、またフリーメーソンの歌詞による最初の曲でもある。

12月

7日、レンヴェークの孤児院の献堂式が皇帝列席で行われ、ヴォルフガングの作品 が演奏され、賞賛を博した。

13日、ウィーンで

を作曲。 目的は不明。

12月末、モーツァルト一家はウィーンを離れ、メルク、リンツを通り帰郷の途に着いた。 ザルツブルクに戻るのは翌1769年1月5日。


〔参考文献〕


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2013/02/24
Mozart con grazia