Mozart con grazia > 年代記 > 1766年
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1766年

10歳

1766年1月


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1月

はっきりした時期はわからないが、前年からこの年にかけてオランダ滞在名中に、メタスタージョ詞によるアリア を作曲したらしい。

ハーグで

を作曲。

前年10月に作られたものを加筆し、ナッソーヴァイルブルク侯妃のために

を完成。 これは3月11日に宮廷で初演された。

1766年2月





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2月

26日、アムステルダムでの2回目の演奏会で をオルガンで演奏したらしい。 これは前年から66年冬の間に作られたものらしいが、 紛失。

3月

7日以前、ハーグかアムステルダムで、オランダのハーグ宮廷楽長グラーフがオランジュ公ヴィレム5世のために作った歌曲を主題に、 を作曲。 さらに、ナッソーの主題による をヴァイブルク侯妃カロリーネのために作曲。

2月からハーグで作っていた6曲の

をオランジュ公妃に「作品4」として贈った。 これらはもので、通称「ハーグ・ソナタ」と呼ばれる。

ハーグで、オランジュ公ヴィレム5世の即位祝いの食卓音楽として混成曲

を作った。 この曲のタイトルは父レオポルトが付けたもの。

1766年5月



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5月

10日、パリ着。

6月

12日、パリで を作曲。 これは最初に書いたキリエ。

1766年7月

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7月

9日、パリをたち、ザルツブルクへの帰路に。

モーツァルトがパリを去った後、パリでグリムが「文芸・哲学・批評通信」に次のような報告を残している。

「この驚嘆すべき子供は現在9歳である。ほとんど成長していないが、音楽では並みはずれた進歩をとげている。 彼は2年前すでに作曲をよくし、ソナタの作者であった。その後ロンドンで英国王女のために6曲のソナタを出版した。 オランダではナッサウ・ヴァイルブルク公妃のために他の6曲のソナタを公けにした。 彼は大オーケストラの交響曲をいくつも作曲したが、それらは当地で演奏され、広く喝采を博した。 またイタリア語のアリアをいくつも書いたが、私は彼が12歳になる前にイタリアのどこかの劇場でオペラを演じさせるのではないかと思う。 ロンドンで冬の間マンツオーリを聴いていた彼は、それを大変よく活かし、声ははなはだ弱いとはいえ、趣きと感情をともどもに備えた歌い方をする」
18日、ディジョン市庁舎ホールで姉弟の演奏会。

8月

13日、リヨンで演奏会。市内で、絞首刑を目撃し衝撃を受けた。1771年11月30日の手紙参考。

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9月

8月下旬から9月上旬、ジュネーヴに3週間滞在。 そこでヴォルテールとデピネ夫人に会う予定だったが、前者の方は病気のため会えなかった。 なお、デピネ夫人には後に、母の死(1778年)のときヴォルフガングは世話になる。

ローザンヌで、ヴュルテンベルク公ルートヴィヒのために

を作ったが、紛失。

1766年10月


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10月

ドナウエッシンゲンで、フュルステンベルク侯のために を作ったが、紛失。

チューリヒで

を作曲。 これは、10月チューリヒのコレギウムでのモーツァルト姉弟の音楽会を知らせる紙の裏に書かれてあるという。

ザルツブルクに帰郷する途上

を作曲したと、父が残したカタログに記録があるが、紛失。

1766年11月





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11月

8日、ミュンヘン到着。 選帝侯マクシミリアン3世の御前で再び演奏。

29日、ようやくザルツブルク着。 神童ヴォルフガングの名前はヨーロッパ中に広がっていた。 そして一家が旅するのに合せて各都市の新聞が次々とそのニュースを伝えた。 その世界的なアイドルが故郷に帰って来たのだった。 父レオポルトの興行は大成功だった。 彼はパリで一家を描いた銅板画を作り、それを旅先で売りながら帰郷したという。
ザルツブルク聖ペトロ教会のヒューブナー神父が残した日誌には「ヴォルフガングはあまり大きくなっていないが、ナンネルはかなり背が高くなり、そろそろ結婚できる年頃である」と書かれている。 また、その日誌には「今回の旅行で2万フランかかったというが、どうやってそれだけの金をかき集めたのだろうか」とも記していた。

1766年12月
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12月

ザルツブルク帰郷後、ブロイナー侯に仕えるM.グラスルのために を作ったらしいが、紛失。

21日、ザルツブルク大司教フォン・シュラッテンバッハの叙階式記念日のために

を演奏した。作詞者不明。

この頃作ったと思われるピアノ・ソナタの断片

がある。 これらは、モーツァルトの死後、1800年2月8日ナンネルがブライトコップ社に送った手紙により推定されている。
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2010/07/18
Mozart con grazia