Mozart con grazia > 年代記 > 1762年
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1762年

6歳

1762年1月




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1月

「ナンネルの楽譜帳」に が記入されたらしい。

5日、後に妻となるコンスタンツェがツェルで誕生。

12日、父姉とミュンヘン旅行へ。3週間滞在。選帝侯マクシミリアン3世ヨーゼフの御前で姉と演奏し好評を得た。

父レオポルトは、神によって自分に神童を育てなければならない義務が課せられたと信じていた。 この旅行を最初に、彼は幼い子供たちを、特にヴォルフガングを、ヨーロッパつまり世界の最高の人たちに認めてもらおうとして、何度も長い旅を計画する。 現代の快適な旅行と違って、その頃の旅行は苦痛と危険が伴ったものだった。悪路を馬車を乗り継いで、何日もかけて目的地に行かなければならず、追いはぎにも気をつけなければならなかった。 便利な銀行があちこちにあるわけでもなく、まして空腹を満たそうにもドライブインやコンビニがあるわけでもない。 イギリスが産業革命に入った頃であり、ワットが蒸気機関を改良するのが1765年、まだまだ(現代の我々が考えるような)快適な旅行にはほど遠い。 そんな過酷な状況で旅することは、特に幼い子どもには、命がけだった。
この約3週間のミュンヘン旅行は、彼の人生の約3分の1を占める(ヨーロッパ全域にわたる)旅の最初のものである。

1762年3月
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3月

4日、ザルツブルクで、父が通奏低音の数字と転調例を の譜面に書いた。

5月

11日、ザルツブルクで

を作曲。

6月

21日、ザルツブルク宮廷楽団のカペルマイスター(楽長)ヨハン・エルンスト・エーバーリン没。 後任が決まるのは翌年2月。

1762年7月



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7月

5日、ザルツブルクで を作曲。

9月

18日、一家でウィーンへ出発。ザルツブルクからパッサウまでは馬車で、そこから船に乗り継いでリンツに到着。リンツの貴族の前で演奏し、評判となった。

10月

6日、ウィーン到着。

13日、シェーンブルン宮殿で、女帝マリア・テレージアや皇帝フランツ1世の御前演奏。神童の評判を高めた。

15日、女帝から大礼服を賜った。右はそのときの姿を描いたものといわれる。

月末に病気にかかり、10日間寝たきりになったため、たくさんの演奏会をキャンセルした。

12月

11日、ハンガリーの貴族に勧められ、プレスブルク(ブラティスラヴァ)へ、しばらく滞在。

24日、ウィーンに戻る。

31日、ザルツブルクへの帰路につく。


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2000/12/24
Mozart con grazia