Mozart con grazia > 年代記 > 1776年
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1776年

20歳

1776年1月
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1月

3日、バルテレ劇場でゲープラー男爵の英雄劇「エジプト王タモス」が上演された。 そのときの音楽がK.336a (345)だったらしい。

第5番から約2年ぶりに

を作曲。 動機は不明。 続く第7、8番が素人演奏家のために作られたのに対して、これはかなり難しい演奏技法を要求する部分があることから、彼自身の演奏のために作曲されたと思われている。

謝肉祭のために、

を作曲。 父レオポルトの手で「Serenada Notturna」と書かれた。

大司教のために

を作曲。 ディヴェルティメントは食卓音楽。

1776年2月



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2月

マリア・アントニア・ロドロン伯夫人(旧姓アルコ)とその二人の娘アロイジアとヨゼファのために、3台のピアノのための

を作曲。 捧げた3人の技量に合せて、曲は平易に書かれている。
この曲は、1777年10月22日アウクスブルクで同地の2人の音楽家(オルガン奏者デンムラー、ピアノ製造家シュタイン)と共演したり、1778年マンハイムではカンナビヒ、ウェーバー嬢、ピエロン嬢の三人が演奏したという記録がある。

18日、侍従長宅で晩餐会と仮面舞踏会があった。 父レオポルトは門衛を、ヴォルフガングは床屋の小僧の姿だったという。 約400人が参加したとシーデンホーフェンは日記に書いている。 翌日も300人を超える舞踏会があり、レオポルト作「農民の婚礼」などが演奏された。

1776年3月




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3月

謝肉祭のために

を作曲。

17日、新大陸で、イギリス軍はボストン攻囲戦に敗れ撤退。

31日、ザルツブルク大聖堂で

が演奏された。 これは4曲のリタニアの最後となる曲。

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4月

大司教のために

と、ピアノの弟子のリュッツォウ伯夫人(ツェルニン伯令嬢)のために を作曲。 リュッツォウ家は大司教コロレドの親戚にあたる名家。 これは、第6番変ロ長調 K.238 と第9番変ホ長調 K.271 と三部作を成し、合わせて出版しようとした。

1776年5月


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5月

2日、フランス王ルイ16世がアメリカに武器援助。

23日、ミラベル城礼拝堂で「聖体の祝日のためのリタニア」K.243が演奏された。

6月

13日のロドロン伯爵夫人アントニアの霊名の祝日のために

を作曲。 あるいは を作ろうとしたかも知れない。

昇天日の奉献のために

を作曲。

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7月

3日、イギリス軍がニューヨークに進撃するが、4日には新大陸の北アメリカ13州が独立宣言。

父レオポルトと親交のあったザルツブルク市長ジークムント・ハフナーの娘マリア・エリーザベト(1781年没)が市民アントン・シュペートと結婚することになり、その婚礼前夜の祝宴のために

を作曲。 その後、25歳を迎えた姉ナンネルの霊名の祝日を祝うために、大急ぎで を作曲。
この年は彼の社交音楽の最も実り豊かな時期で、10曲近いセレナードやディヴェルティメントが一挙に生み出されている。

1776年8月



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8月

大司教のための食卓音楽として

を、また同じ頃 を作曲。
1777年ミュンヘンで演奏した際、当地のヴァイオリン奏者ドゥブライルがそこをまともに弾けないことを父に伝えている。

1776年9月






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9月

4日、ザルツブルクからマルチーニ神父

私の父は大聖堂の楽長をしておりますので、私は希望するだけの教会音楽を作曲する機会に恵まれています。 私どもの教会音楽は、イタリアのものとは非常に異なっていて、次第にそうなったのですが、大司教公自身の司式によるもっとも荘厳なミサでさえも、キリエ、グローリア、クレード、使徒書簡のためのソナタ、奏献唱あるいはモテット、サンクトゥスとアニュス・デイをもったミサ曲は、45分以上にわたることはできません。 しかもそれは、軍隊用のトランペットやティンパニーをともなった大オーケストラのミサ曲を要求されるだけに、この種の作曲をするには特別の研究を必要とします。
このイタリア語による手紙は父が書いて、息子ヴォルフガングに署名させたものとも言われる。 返事は12月18日にあった。

バイエルン宮廷のカストラート歌手フランチェスコ・フォルチーニのために

を作曲。 また、テノール歌手パルミーニのために、ザルツブルクで上演されたオペラ(ペトロセリーニ台本、ピッチーニ曲)への挿入曲として を作曲。 これは、隊長が学識にものを言わせてクラリーチェを妻にしようとするが、それをなだめられる歌。

15日、イギリス軍がニューヨーク市を占領。

28日、モーツァルトは、のちに姉ナンネルの夫となるゾンネンブルク(このとき40歳)と会っている。 彼はまだ最初の妻マルガレーテと家庭を持っていた。
これはシーデンホーフェン(1747〜1812)の日記による。 彼はザルツブルク宮廷顧問で、モーツァルト一家と親交があった。彼の日記は当時の生活を知る貴重な資料となっている。

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10〜12月

年末から翌77年初めにかけて

を作曲。

12月18日、マルティーニ神父から

率直に申し上げてこの作品はたいへん気に入りました。 ここに現代音楽が要請するすべてのもの、つまり美しいハーモニー、巧みな展調、ヴァイオリンの適切なテンポ、声部の自然な流れと心地よい展開があります。 ボローニャで初めてチェンバロの演奏を聴いたあの日から、あなたが作曲においても長足の進歩を遂げたことを嬉しく思います。
<注>この作品とはオッフェルトリウムK.222(205a)


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2000/09/24
Mozart con grazia