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1785年

29歳

1785年1月





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1月

7日、メーソンの集会があり、モーツァルトは第2位階の「職人」に昇進した。 前年あたりからモーツァルトの作曲の仕方が変わってくる。 つまり、聴衆を対象としたものから自分自身に向けて作るようになった。 その大きな変化の原因は前年暮れにフリーメーソンへ入会したことと考えられている。

10日、ハイドン・セット第5番となる

を作曲。 シリーズ中で最大規模。 この曲全体を透明で柔らかな雰囲気が貫いている。

14日、ハイドン・セット第6番となる

を作曲。 第1楽章冒頭に不協和音に満ちた序奏があり、出版された当時、写譜の間違いとまで言われた。 主部はアレグロの明朗なハ長調になり、その対比が際だつ。この曲の成立と前年末のフリーメーソン入信との間に連関があるらしい。

15日、ウィーンのモーツァルトの家で、ハイドンを招き、新作の弦楽四重奏曲3曲を演奏した。

22日、父からナンネルへ

たった今、お前の弟から手紙を受け取った。その中に「最初の予約演奏会が2月11日に始まって、毎週金曜日に続けられること、 四旬節第3週目にはハインリヒのための音楽会があるので、私にもすぐにも来いということ、この前の土曜日に6つの四重奏曲をアルタリアに売って、100ドゥカーテンを手に入れ、その曲をハイドンや親しい人達に聴かせたこと」、そして最後に「書き始めた協奏曲にまた取りかかります」とある。
取りかかると言っているのは、ピアノ協奏曲ニ短調 K.466 のこと。

28日、父レオポルトはザルツブルクを出発。 29日に、友人マルシャンのいるミュンヘン到着。

31日、皇帝ヨーゼフ2世は警察長官に、『フィガロの結婚』の上演を禁止するか変更を加えさせるかするように要請した。 その結果、2月3日に予定されていた上演が禁止された。

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2月

7日、父レオポルトハインリヒ・マルシャンと共にミュンヘンをたち、ウィーンへ向った。

10日、予約演奏会のために

を演奏直前に仕上げた。 当日にやっとパート譜ができ、モーツァルトは全体を通して弾く時間もないまま会場に出かけた。 短調が基調となった初めてのピアノ協奏曲。 これはベートーヴェンも愛した曲で、カデンツァを書き残している。

11日、ヨーゼフ・ハイドンフリーメーソンの「真の融和」ロッジに入会。 モーツァルトがこの先輩に「辛苦の結晶」である6曲の弦楽四重奏曲を捧げたことは、このことと無縁でない。 ただし、ハイドンはこの年の暮れ頃に脱会したらしく、会のための音楽曲は一つも書いていない。

2月11日から4月25日まで、父がウィーンに滞在する。 11日に着くとすぐ、市の集会所だったメールグルーベでの息子の予約演奏会を聴いた。それは大成功だった。

12日、自宅にハイドンを招き、「ハイドン四重奏曲」の残りの3曲を演奏した。 演奏者は、父レオポルト、ティンティン男爵兄弟、そしてモーツァルト自身。 このときハイドンはレオポルトに

私は誠実な人間として神に誓って申し上げますが、あなたの御子息は私が個人的に知っている、 あるいは名前だけ知っている作曲家の中で、最も偉大な人です。 御子息は趣味が良く、その上、作曲に関する知識を誰よりも豊富にお持ちです。
と言った。 これが父と息子の最後の対面となる。 この頃は息子の仕事がうまくいっていたので、父は満足だった。 二人の長年のしこりも幾らかとけたようで、息子の勧めにより、父は4月4日にフリーメーソンに入会する。

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3月

2日、ハインリヒ・マルシャンの初めてのコンサートがブルク劇場であった。

9日、予約演奏会のために

を作曲。 初演は翌10日ブルク劇場で。

11日、父(ウィーン)からナンネルへ

お前の弟のフリューゲルは私がこちらにやって来てから少なくとも12回は、家から劇場に、あるいは他の邸に運ばれた。 ヴォルフガングはフリューゲルの下に大きなフォルテピアノのペダルを作らせたが、これは60センチぐらいの長さで、びっくりするほど重いのだ。 毎金曜日にはメールグルーベに運ばれ、またツィヒー伯爵やカウニッツ侯爵のところにも運ばれたりした。
フリューゲルとはモーツァルト愛用のヴァルター製のピアノで、5オクターヴの鍵盤がある。 鍵盤の色は現在のピアノと逆で、黒鍵は白く、白鍵は黒い。

13日、ウィーン音楽芸術家協会のために作曲した

を演奏。 作曲の時間がなかったので、ハ短調ミサ曲 K.427 に2曲の新たなアリアを加え、また新しく楽譜を作らず同ミサ曲のスコアに書き込みして間に合わしたものだった。

26日、父レオポルトフリーメーソンの第2位階に昇格するのを祝うために

を作曲したらしい。

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4月

1日 を作曲したが、紛失。 自作目録に記された主題4小節だけ残る。 また、冒頭のみ残る もある。

4日、父レオポルトがフリーメーソンに入会。 早くも16日には異例なことに第2階級「職人位階」へ昇級した。

20日フォン・ボルンの名誉をたたえる儀式(24日)のための

を作曲。

22日、モーツァルトはフリーメーソン第3位階「親方(マイスター)」へ昇進した。 この1ヶ月前に第2位階の「職人位階」へ昇進している。

24日、フォン・ボルンの名誉をたたえるためにロッジ「桂冠希望」での儀式で「フリーメーソンの喜び」が演奏された。

25日、父レオポルトハインリヒ・マルシャンとともにウィーンをたった。 モーツァルトは妻コンスタンツェを連れてプルカースドルフまで一緒に行った。 それが父子の最後の別れとなった。

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5月

4日、レオポルトはミュンヘンに到着、マルシャン家に1週間ほど滞在。 彼は大司教から6週間の許可を得て1月28日にザルツブルクを出発していたが、延長の請願もしないまま、既に3ケ月もザルツブルクを離れていた。 大司教コロレドにとって不快なことだったろう。 「レオポルトが5月半ばまでに帰ってこなければ俸給を差し止める」命令を会計局に指示していた。

7日、ヴァイセ詩による3つの歌曲

を作曲。

13日ころ、レオポルトはようやくザルツブルク到着。

20日、モーツァルトはフォン・トラットナー夫人に

を作曲。 ピアノ・ソナタ K.457 の前奏曲として出版された。

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8日、ゲーテ詩による歌曲 を作曲。 モーツァルトが最後の2行「かわいそうなすみれよ! それは本当に可愛いすみれだった」を書き足した。 この曲は、物語の展開に応じて音楽描写を変えていくロマン派リートの先駆けと名高い作品。
この前後の作と見られる歌曲 がある。

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7月

27日、ザルツブルクで、姉ナンネルの第1子レオポルト誕生。 彼女は前年8月23日にザンクト・ギルゲンの地方貴族ベルヒトルト・フォン・ゾンネンブルク(ナンネルよりも15歳も年上)と結婚していたが、この男はすでに2人の先妻と死別し、5人の子供を持っていた。 娘が子育てで大変だろうという理由で、ザルツブルクで寂しくひとり暮らす父レオポルトはこの初孫を引き取り、生涯(2年後の1787年5月に死去するまで)この子の世話をした。 彼がその時々に孫の様子を娘に伝える手紙が多く残されることになる。

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8月

17日、ウィーン新聞にアルタリア社から、カンタータ「フリーメーソンの喜び」(K.471)総譜をピアノ版の付録つきで販売する広告が掲載された。 2フローリン。

20日、ウィーンで、コンスタンツェの叔父フランツ・アントン・ウェーバーが結婚式を挙げた。 ヨーゼフ・ランゲが立会人をつとめた。 作曲家カール・ウェーバー(1786〜1826)の親となる。

31日、ウィーン新聞にラウシュから、ディヴェルティメント ヘ長調(K.247)、ピアノ協奏曲ト長調(K.453)、ピアノとヴァイオリンのための変奏曲ト長調(K.359)とト短調(K.360)の印刷譜を販売する広告が掲載された。

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9月

1日ヨーゼフ・ハイドンへ、弦楽四重奏曲6曲を贈る。
自分の子供を広い世間に送り出そうと決心した父親は、それを幸運にも自分の最上の友人となった高名な方の保護と指導に委ねるのが当然のことだと考えました。 親愛なる友よ、これが私の6人の息子です。 これらは本当に永い辛い努力の結実です。 なにとぞこれをご嘉納下さって、その父とも案内者とも友ともなって下さいますように。 今後私はこの子たちに対する一切の権利をあなたにお譲りいたします。 それゆえ、父のひいき目が見逃したかもしれない過ちを大目に見てやって下さり、そんな過ちがありましても、あなたの寛大な友情をこんなに大事に思っている私に対して、その友情をいつまでも続けてお持ち下さるよう、お願いいたします。

26日付けのウィーン地方新聞に、ナンシー・ストレースが健康回復したことを祝して、ダ・ポンテが書いた詩にサリエリ、モーツァルト、コルネッティの3人が作曲し、アルタリア社から販売される記事が掲載された。 ナンシーは兄スティーヴンが作曲したオペラ『不平な新郎新婦』が6月1日にブルク劇場で初演された際、声がまったく出なくなっていたところ、ようやく回復したのだった。 モーツァルトは

を作ったらしいが、自筆譜も出版譜も何も残っていない。

1785年10月





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10月

16日、出版社ホフマイスターからの依頼で を作曲。 ピアノと弦楽三重奏のための四重奏曲というジャンルは極めて珍しく、ハイドンも手掛けなかった。 ホフマイスターとの契約では3曲作ることになっていた。

10月末
ボーマルシェダ・ポンテ詞になるオペラ・ブッファ『フィガロの結婚』(K.492)の作曲にとりかかる。 完成は翌年4月29日。

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11月

5日、ビアンキのオペラ『奪われた田舎娘』のために を作曲。 伯爵は力づくでマンディーナをものにしようとして、眠り薬を飲ませる。 娘の父ビアジョと婚約者ピッポがやってきて、目覚めたマンディーナをなじるが、彼女は訳が分からない、という内容。

10日頃、この月の6日と7日に相次いで死去した結社員フォン・メクレンブルク大公とエステルハージ伯爵のために

を作曲。
17日にロッジ「新桂冠希望」で行われた追悼式で演奏された。 ただし葬送曲でなく、メーソン仲間のフォン・ケーニヒが8月12日に「親方」昇進した際の祝儀式のためという説もあり、そのため「マイスタームジーク」とも呼ばれる。

20日、ホフマイスターに「どうしても入用のことがあるので、いくらかの金をできるだけ早く貸して欲しい」と救いを求めた。

21日、ビアンキのオペラ『奪われた田舎娘』のために

を作曲。 これは、四重唱「せめて言っておくれ、どんな過ちをしたのか」(K.479)の前に歌われる曲。 伯爵はマンディーナを金で誘惑する。 娘はそれを単なる厚意として受け取るが、そこへ現われたピッポが二人を引き離す、という内容。

年末にかけて

を作曲しようとしたらしいが、『フィガロ』の方へ傾いて行った。

1785年12月



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12月

12日、 を作曲。 その目的は不明だが、完成後すぐホフマイスターから出版された。

16日、年末の予約演奏会のために

を作曲。 急いだらしくメモだけの部分もある。 オーボエの代わりにクラリネットを使っている点で、第22番〜第24番の3曲は彼のピアノ協奏曲の中で例外的な作品。

ヨーゼフ2世が当時ウィーンにあった8つのロッジ(メーソンの支部)を3つに再編成し、その中に新しく「冠された希望に」というロッジを作った。 このとき、多くの会員が退会し、ハイドンもその一人らしい。 モーツァルトはその新しいロッジをたたえるために、結社員のための合唱曲

を作曲。 この2曲は翌1786年1月14日ウィーンで演奏された。

この年の終り頃、ウィーンにおけるフリーメーソンの指導者の一人だったブルーマウエルの詞による歌曲

を作曲したらしい。


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2019/05/05
Mozart con grazia