Mozart con grazia > 年代記
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1771年

15歳

1771年1月

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1月

2日、ミラノでオペラ『ミトリダーテ』が再演され、ヴォルフガングはチェンバロを弾きながら指揮したという。

5日、ヴェロナのアカデミア・フィラルモニカの例会が開かれ、全員一致の拍手により少年モーツァルトはアカデミア会員に迎えられ、「名誉楽長」に任命された。

12日、ミラノから姉へ

オペラで忙しかったので、ずいぶん長い間手紙を書きませんでした。 ありがたいことにオペラはあたって、毎晩のように劇場は一杯です。 多くの人が、新しいオペラでこんなに一杯になったのは見たことがないと不思議がっています。
オペラとは『ミトリダーテ』(K.87

1月か2月、ミラノかパヴィアで

を作曲。

1771年2月




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2月

4日、ミラノ発。

11日、ヴェネツイア着。そこでも音楽会を何度も開き、上流階級の話題を一人占めにした。 ヴェネツィアでは、3月12日まで、チェゼレッティ家に泊る。

3月

4日、1773年謝肉祭にミラノで上演されるオペラ『ルチオ・シラ』(K.135)の作曲契約をする。 それによると、「130ギリアートの報酬、家具付き宿舎」が提供され、「1772年10月までにすべてのレチタティーヴォを作曲し、11月初めまでにアリアを作曲し、すべての通し稽古に同席するためにミラノに滞在すること」が求められている。

12日、ヴェネツイアを離れ、船でパドヴァへ。 そこでアラゴン大公ジュゼッペ・クシメネスからの依頼でオラトリオ『救われしベトゥーリア』(K.118 / 74c)の注文を受ける。 ただしイタリアでは上演されず、1775年5月にミュンヘンで上演される。

14日、ヴィチェンツァへ行く。

16日、ヴェロナへ行く。

20日、ロヴェレートへ行く。

23日、ウィーンのハッセから、ヴェネツィアのオルテスに宛てて

若いモーツァルトは確かに一つの奇跡ですが、父親のほめ言葉からだめにならないよう、有能な人間になるよう望んでいます。
と書いている。 父レオポルトは息子の「年齢の割には奇跡的な才能」がどこにも認められない(それにふさわしい処遇が得られない)ことに不満をあらわにしていて、それがウィーンの宮廷や音楽家を敵にまわしていた。

25日、インスブルック着。

28日、モーツァルト父子はザルツブルクに帰った。 そしてすぐ8月には二度目のイタリア旅行に出る。

1771年5月


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5月

ザルツブルクで

を作曲。 また、5月か6月、ゼーオンの修道院のヨハネス神父の命名祝日聖ヨハネの日(6月24日)を祝って を作った。 ヴォルフガングはその神父が大好きで、ある時彼に飛びついて「僕の大好きなハーンゼル」という民謡を歌ったという逸話があり、そのモチーフが使われているという。

6月

4月から6月の間に

を作曲。

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7月

ザルツブルクで

を作曲。

夏の間、ザルツブルクで、

を作曲。

1771年8月



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8月

13日、父子は第2回イタリア旅行に出る。

21日、モーツァルトは再びミラノを訪れた。 レオポルトはミラノで息子の(名誉でなく本当の)地位を得ようとするが実現しない。

24日、ミラノから姉へ

僕たちの上の階にはヴァイオリニスト、下の部屋にも一人、隣の部屋では歌の先生がレッスンをしているし、向う側の突き当りにはオーボエ奏者がいる。 そんなわけで、作曲をするには面白い! どんどん考えが湧いてきます。

31日、ミラノから姉へ

僕は姉さんの代りにおいしい梨と桃とメロンをたくさん食べました。 僕のたった一つの気晴らしは、唖の人と手振りで話すことです。 僕はそれが完全にできます。ハッセさんは昨日ここへ着きました。 セレナーデの台本も前の木曜日に届いたばかりです。
セレナーデとは『アルバのアスカニオ』(K.111)のこと。

1771年9月






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9月

8月21日から9月23日までの間に、ミラノで、

を作曲。 これは、1769年12月から1771年3月までのイタリア旅行で大成功を納めたので、ウィーン王室マリア・テレジア女帝の皇子フェルディナンド大公とモデナのベアトリーチェ王女の婚儀のために祝祭オペラの注文を受けたもの。 なお、このとき同時に高名な老作曲家ハッセも注文を受け、オペラ「ルッジェロ」を作曲した。

21日、ミラノから姉へ

ありがたいことに僕は元気です。たくさんは書けません。第一に何を書いたらいいかわからないし、第二に指が痛いからです。さようなら。 ママの手に僕のキスを。僕は時々口笛を吹くけど、誰も返してくれません。もうセレナーデはアリアが2つ残っているだけで出来上りです。 やさしい友だちの皆さんへ僕からよろしく。もうザルツブルクには興味がありません。僕も馬鹿になるといけないから。
休みなく作曲を続けていたため、この頃モーツァルトは手紙の中で度々指が痛むことを書いている。 この手紙から、家にいるとき姉と弟は口笛で合図し合っていたらしいことが分かる。 これはまた、後のオペラ『魔笛』の中でタミーノとパパゲーノが笛で呼び合う場面を連想させる。

1771年10月

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10月

15日、フェルディナンド大公の婚礼。

17日、ミラノ宮廷劇場で『アルバのアスカニオ』(K.111)初演。 このとき、ハッセのオペラ『ルッジェロ』は完全に食われてしまい、ハッセは「この子は今に我々みんなを忘れさせてしまうだろう」と予言したという。

10月末か11月初、ミラノで、オペラ『アルバのアスカニオ』の序曲と第1曲アンダンテを取り出し、フィナーレを足して

を作った。 同じ頃 を作ったかもしれない。

1771年11月




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11月

2日、ミラノで

を作曲。 これはイタリア旅行中のシンフォニーで唯一自筆譜が残っているもので、父の手で日付場所が明記されている。 父がリューマチで動けなかったので、ヴォルフガングは退屈しのぎにこの曲を作ったと言われる。

22日か23日、ミラノのマイヤー邸で

作ったらしい。 これはクラリネットが使われたモーツァルトの最初の管弦楽作品。

30日(ミラノ)母へ

僕が病気だなどと思われたくないので、一言書きます。 さようなら。ママの手に僕のキスを。 やさしい友だちみんなによろしく。 ここの寺院前広場で4人の男が首吊りになるのを見ました。 ここも絞首刑のやり方はリヨンのと同じです。
〔注〕 1766年7月26日の手紙で書いたことを思い出している。

1771年12月






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12月

5日、ミラノ発。

11日、ブリクセン着。

12日、マリア・テレジア女帝からミラノのフェルディナンド大公へ(返事)

作曲家のような役立たずは必要ありません。 乞食のように世界中をほっつき回る者を仕えさせることで苦情を言われないようにしてください。 それに乞食には大家族がつきものです。

15日、ザルツブルク着。 翌日、寛大であった大司教ジギスムント・フォン・シュラッテンバッハが死去。 後任のコロレド伯が着任するのは翌年3月

30日、ザルツブルクで

を作曲。


1771年か72年、ザルツブルクでの作と見られるメヌエットがある。


 

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2013/03/03
Mozart con grazia