Mozart con grazia > 年代記 > 1781年
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1781年

25歳

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3日、ミュンヘンから父へ
僕は頭も両手も『イドメネオ』第3幕で一杯になっていて、僕自身が第3幕に化けてしまっても不思議でないほどです。 地下の声の伴奏は五声すなわちトロンボン3本とヴァルトホルン2本だけを用いて、それも声が出て来るのと同じ場所に置かれます。 そのときオーケストラ全体は沈黙しています。 舞台では、哀悼の合唱の後で、王、全民衆、みんなが退場します。 そして次の場には『神殿にひざまづくイドメネオ』とあります。 これはとんでもないことです。王は従者全体と一緒に出てこなくてはなりません。 すると、そこにどうしても行進曲が必要になります。 そこで僕は、ヴァイオリン2、ヴィオラ、バス、オーボエ2からなるごく簡単な行進曲を作りました。
前年10月からミュンヘンの選帝侯カール・テオドールの依頼で を作曲。 父と姉はオペラを聴くためにミュンヘンに出かけるつもりになっていたので、上の手紙でモーツァルトは持参する服についてアドバイスした。

18日、ミュンヘンから父へ

イドメネオ第3幕の試演はすばらしい出来でした。 ただ、詞も音楽も長すぎるので、イダマンテのアリア『いや、私は死を怖れない』を省きます。 音楽を聴いた人は、抜かすと聞いてがっかりしています。 神託も長すぎるので、これも縮めました。
これについて、作詞者のヴァレスコには何も知らせる必要はないとも書いている。

29日、ミュンヘンで、「イドメネオ」初演。 新築のオペラハウス(宮廷歌劇場)で、カンナビヒの指揮により。 イドメネオ役はラーフ、イーリアはドロテーア・ヴェンドリング。 父レオポルトと姉ナンネルも初演を聴きに来ていた。
聴衆はモーツァルトのオペラよりも、劇場建築家ローレンツ・クヴァーリョの舞台装置に魅了されたかもしれないという。
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前年11月8日から、ミュンヘンで2つの歌曲

を作曲。

この頃、オペラ「イドメネオ」でエレクトラ役の歌手エリザベート・ヴェンドリングのために

を、オーボエ奏者フリードリヒ・ラムには協奏曲風の を書いた。

3月

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7日、父・姉と(ハインリヒ・マルシャンも連れて)共にアウクスブルクまで旅行し、そこで別れた。

8日、選帝侯カール・テオドールの愛人の一人だったパウムガルテン伯未亡人のために

を作曲。

12日、 大司教の命令を受けて、モーツァルトはミュンヘンをたつ。

昨年11月29日に没した女帝マリア・テレジアの葬儀のためウィーンに滞在していた大司教はモーツァルトにすぐウィーンへ来ることを命じた。 理由は、6週間の予定の休暇が大幅に伸びて、モーツァルトがミュンヘンで自由に行動しているのを咎めるためだった。 それに応じてモーツァルトはウィーンへ向う。 そこで大司教から冷たくあしらわれ、従僕としての身分を思い知らされることになる。 しかし、ヨーロッパ各地を歩いて自由思想を肌で感じ、また自分の力量に高い自信とプライドを持っていたモーツァルトはついに独立することになる。

16日、ウィーン着。 この日からモーツァルトはウィーンの人となる。 コロレド大司教の伯父カール・コロレード伯爵の館でドイツ騎士団の宿舎でもあった「ドイチェ・ハウス」に泊る。 そこには5月初めに大司教に追い出されるまで宿泊。

17日、ウィーンから父へ

15日木曜の夕方7時に、犬のようにへとへとになって、ザンクト・ペルテンに着き、夜2時まで寝て、それからまっすぐウィーンまで来て、これを書いています。
ドイチェ・ハウスには大司教のほか大司教に仕える高官も泊り、同行していたブルネッティとチェッカレリは別の宿に泊っていたので、モーツァルトは決して粗末に扱われたわけではないが、自分の能力を信じ、自由な生き方を求めていた彼にとって、それは「牢屋」にいるのと同じことだった。

21日、ウィーン宮廷楽団次席ホルン奏者J.アイゼンのためにホルン協奏曲を作ろうとしたらしく、その断片

が残っている。

24日、次の曲を作曲しようとした。

24日から28日までの間、ウィーンから父へ

お父さんが言うように、僕という人間に大司教の『虚栄心』をくすぐるものがあるという点では間違いありません。 しかし、それが何の役に立つのでしょう? そんなものでは生活できません。 あの人はここでは僕にとってランプの笠のようなものだと考えて下さい。 ここでの僕の主要な目的は、体裁よく皇帝に近づくことです。 心を打ち込んでオペラをやってのけ、それからしっかりとフーガを弾いてお聴かせしたいと思います。辛抱、辛抱!
立派な家来を持っていることを自慢し、貴族たちにモーツァルトの演奏を聞かせ、賞賛されるのは大司教にとっては当り前のことであろうが、モーツァルトにとってはハラワタが煮えくり返るほどの屈辱だった。 モーツァルトはウィーンに到着したその日からすぐ大司教の命令で演奏したり、新曲を発表したりしなければならなかった。

この頃の作と思われる

がある。

4月

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2日 を作曲。 これは4月8日にカール・コロレード伯爵のための音楽会で、ヴァイオリニストのブルネッティによって初演された。

3日、ウィーン音楽芸術家協会主催の慈善演奏会に出演した。 このとき、「交響曲パリ K.297」が演奏されたらしい。 また、モーツァルト自身がフォルテピアノを弾いた。

「音楽芸術家協会」は、ウィーンの音楽家の未亡人と孤児のための扶助機関として、1771年に設立された。 そして遺族のために、年に2回の演奏会を開いた。

4日、父へ

大司教はここでは僕にとって大きな邪魔者です。 僕が劇場で演奏して間違いなく儲けたはずの少なくとも100ドゥカーテンをふいにしてくれました。 さてブルネッティが今日食事の時に言うには、大司教が乗合馬車の金をやるから日曜日までに出発するようにとのことです。 居残りたい者は残ってもかまわないが、その場合は自弁でやれ、大司教は食事も部屋もまかなってやらない、と言うのです。

7日頃、

を作曲。 これは翌日の音楽会のためと思われているが、疑問視されている。

8日、ザルツブルク宮廷音楽家による演奏会が開かれ、大成功。 27日にも開かれて、大司教は大いに「虚栄心をくすぐられた」が、逆にモーツァルトの方はウィーンで独立してやっていける自信を得ることになった。 8日の演奏会の後、モーツァルトはさっそく父に手紙で大成功の様子を知らせ、

が演奏されたことを書いている。 ヴァイオリン伴奏つきのソナタは「昨夜11時から12時までに作曲し、ブルネッティのための伴奏の部分だけ書いて、自分のパートは頭の中に入れておいた」と記している。 そして「ウィーンにいれば、大きな演奏会を開き、4人の弟子をとり、少なくとも年に千ターラーも取れる」と自信を示し、さらに「自分の幸福をこんな風に二の次にしておかなければならないことが、ひどく憂欝になる。 若い年月を無為に過ごすのはとても悲しい」と書いて、父の理解を求めている。

11日、父へ

とうとうあのがさつな汚いブルネッティが行ってしまいました。主人と自分と音楽員全体に泥を塗る奴です。 来週の日曜の22日にチェッカレリと僕は郷里に向かって立つことになっています。少なくとも千フローリンを取らずにウィーンを去らなければならないことを考えると、やはり胸が痛くなります。

18日、父へ

シャハトナーのオペレッタはだめです。 シュテファニーが良い台本を私にくれると言っています。 私は彼に反論できませんでした。 私が言ったのは『地の科白が長すぎるのを変えるとすれば、あの作品は良くなるだろうが、いずれにしてもウィーンには向かない。 ここではもっと面白いものが好まれるから』ということだけでした。
シュテファニーという宮廷オペラ監督と知り合い、彼がモーツァルトのために台本を書いてくれることになった。 そこでザルツブルクで書きかけていた「ツァイーデ」というドイツ語の歌芝居をみせたが、それは受け入れられなかった。

28日、父へ

僕を喜んで待っていてくれますね。 ただそれだけが僕にウィーンを去る決心をさせるのです。 昨日こちらで、おそらく最後の大発表会があり、最高の出来でした。 大司教の妨害がありましたが、ブルネッティよりもましなオーケストラになりました。 それだけ整えるには、大変いやな思いをしました。 シュテファニーからドイツ・オペラの注文を受けると思います。
それはジングシュピール「後宮からの誘拐」K.384となって実現する。 しかし父はその作曲を差し控えるようにと命じた。 もちろんモーツァルトはそれには従わなかった。

5月

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2日、大司教の宿を出て、ウェーバー家に下宿。

9日、父への手紙で、1週間前に大司教の使いの者がやって来て「すぐに出て行くように」と言われたことを伝えている。 そのモーツァルトの身元をウェーバー老夫人が親切に引き受けてくれることになった。

12日、アルコ伯爵に、退職願を大司教に渡すよう頼んだが、受け取ってもらえず、父レオポルトの同意が必要であると言われたことを手紙で伝えた。 その中で、ついに独立宣言した。

最後の謁見で大司教が言われたありがたいお言葉は、僕の体にあまりにも素晴らしい作用を及ぼしたので、その晩はオペラの第1幕の途中から家へ帰って寝ました。 カッカと熱くなり、全身がふるえ、路上で酔っぱらいのようによろめきました。

僕の不動の決心を打ち明けます。これは世界中の人に聞こえてもいいのです。 ザルツブルクの大司教のもとで2000フロリンの俸給が得られ、他の地では1000フロリンしか得られないとしても、僕は他の地へ行きます。

レオポルトはザルツブルクの宮廷顧問だったアルコ伯爵に息子と大司教との調停役を頼んでいた。 彼はこの頃ウィーンのノイハウスを管理する料理長だった。 彼は何度もその報われない役割を果たそうとしたことがモーツァルトが父に宛てた数多くの手紙で分かる。

6月

1781年6月




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2日、父が息子に宛てた手紙には「ウィーン人は新しもの好きだから人気がいつまでも続くとは限らない」とか、大司教に対しては「自分も不愉快な言葉をぐっと飲み込まなければならないときがある」とか言って、モーツァルトの気持ちを何とか変えようとしたことが書かれてある。

ここまで強く自分の生き方をモーツァルトが貫き通せた背景には、アロイジアに対する恋心をうまく誘導してコンスタンツェの方へ向けさせていたウェーバー夫人の影響もあっただろう。 時代の変化に先んじて突き進んでいく息子に対して、父レオポルトは当然のごとく動転し、必死になって引き戻そうとした。

ウィーンではヨーゼフ2世が即位。 農奴制の廃止、信教の自由、修道院の廃止、非カトリック信者のオーストリア移住の許可など、啓蒙君主として君臨することになる。 フランスではすでに1779年に農奴制が廃止されていた。

この頃のウィーンの人口は約20万で、イタリア、ポーランド、ハンガリー、チェコ、ロシア、トルコ、プロシア、さまざまな国の人が押し合いへし合いする生き生きとした都会だった。 文化の違う人々がさまざまな服装で行き交い、石畳に馬車の音が響き、通りは狭く、汚物で臭い、治安もあまり良くなかった。 それだけに、モーツァルトだけでなく、野心を持つ者にとっては魅力的な町だった。ただし、まだフランス革命の気配にはほど遠い、宮廷を頂点とする階級社会であった。

16日、父へ

姉さんにリボンを送ります。 好みに合うかどうか分かりませんが、流行であることは間違いありません。 今、生徒は一人だけです。 ルンベック伯爵夫人で、12回のレッスンで6ドゥカーテンです。 さしあたりこれで何とかやっていけます。
その後、2人の弟子(トラットナー夫人、アウエルンハンマー嬢)が増え、月収も3倍になった。 しかも1回のレッスン料ではなく、定額の月謝としてもらった方がいいことを学んだ。

この頃、グレトリーのオペラ「サムニウム人の結婚」から主題を採り、

を作曲。

27日、父へ

僕が泊っている家にはピアノが2台あります。 その1台はオクターヴ低い音も響くように調律されていて、オルガンのようです。 僕はこれで狂想曲とフーガを弾きました。 僕はほとんど毎日、アウエルンハンマー氏の家に行きます。 お嬢さんはまるで化物ですが、うっとりするような弾き方をします。 ただ、カンタービレの本当のこまやかな歌うような味わいが欠けています。 何でもつまむように弾くのです。この人がこっそり打ち明けました。 あと数年勉強し、それからパリへ行って仕事をするのだそうです。 『3、4百グルテンくらいで役所の大物なんかと結婚したくないし、ほかの男は得られそうもないから、このまま自分の才能で暮らしたい』と言うのです。
オーストリアの実業家アウエルンハンマー氏の令嬢ヨゼファはモーツァルトの弟子。 このときモーツァルト25歳、ヨゼファ23歳。二人の仲が噂されたらしい。

7月

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25日、父への手紙の中で「僕が冗談を言った人全部と結婚しなくてはならないとすれば、僕は少なくとも200人の妻を持つことになるでしょう」と書いている。

ウィーンでの最初のピアノの弟子となったド・ルンベック伯爵夫人のために、ピアノとヴァイオリンのための2つの変奏曲

を作った。 その主題は、1778年のパリ滞在中に親しんだアルバネーズのフランス語の歌集から採られている。

アウエルンハンマー嬢のために、ピアノとヴァイオリンのためのソナタ

を作曲。 ただし、K.380は4月8日夜の音楽会でブルネッティと共演するために急きょ作ったものだという。

30日、ゴットリープ・シュテファニーからオペラ「ベルモントとコンスタンツェ、後宮からの誘拐」の台本を受け取った。 そのことを、さっそく8月1日、父へ手紙で知らせ、その作曲がとても楽しくて、カヴァリエリの最初のアリア、アダムベルガーのアリア、第1幕を結ぶ三重奏はもう出来上がったことを伝えた。

上演は9月半ばに予定されていたので、モーツァルトは時間に追われるように、情熱と喜びをもって作曲に取り掛かったが、初演は翌年7月16日(ブルク劇場)になった。 さらに、その台本はシュテファニーの自作ではなく、ライプツィヒのブレッツナーの作品の改作だった。 のちにブレッツナーから抗議広告を受けたので、初演のポスターにはシュテファニーの名はなく、ブレッツナーの改編と書かれたという。

8月

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8日、父に手紙で、「後宮からの誘拐」の第5曲「トルコ王親衛兵の合唱」を書き終えたこと、アダムベルガー、カヴァリエリ嬢、フィッシャーはそれぞれ自分のアリアに満足していること、トゥーン伯爵夫人は「受けることは命を賭けて保証してもいい」と言ってくれたことなどを知らせている。

22日、父へ

アウエルンハンマー氏は自分自身と娘のこと以外は何も考えません。 その娘は僕の知っている最も煩わしい人です。 彼女は僕が毎日2時間だけ一緒に過ごすだけでは満足しません。 彼女は僕に本気で恋をしているのです。町じゅうの人が僕たちの結婚を噂しています。

29日、父へ

今度はグラーベン通りにとてもきれいに家具を整えた部屋を見つけました。 これをお読みになる頃はそこにいるでしょう。 静かな方がいいので、通りに面した部屋は選びませんでした。

9月

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5日、父からの度重なる強要に従ってモーツァルトは「ウェーバー家」から出て引っ越した。

この日、新大陸では、アメリカとフランスの連合海軍がヨークタウン沖でイギリス海軍を破った。 アメリカ独立戦争が終結に近づく。

19日、姉へ

いつものような宛先でよいのです。 ペーター通りにある『神の目荘』の3階です。 この宛先は郵便屋がよく知っていて、住所の書いてない手紙でも僕に届くほどです。
「神の目荘」とはウェーバー家の下宿名。 グラーベン通りの新しい下宿のすぐ近くにある。 これと同じことを例の従妹(ベースレ)にも書いている。
もし、返事をくれるなら、先日の手紙と同じ宛先に下さい。 つまり、ペーター通り、神の目荘3階です。僕はもうそこにいませんが、その宛先を郵便屋がよく知っていて、新しい宛先の方は1日か2日遅れてしまうのです。

26日、父へ

オペラはモノローグで始まっていたのですが、僕はシュテファニー氏に、それを短いアリエッタにして、オスミンの短い歌の後のおしゃべりは二重唱にするように頼みました。 オスミンの役にはフィッシャー氏を考えていました。 オスミンの怒りはトルコ風の音楽がつけられるために滑稽になってきます。 彼のアリア『だから予言者の』は、その怒りがつのるにつれて、まったく別なテンポと別な調性になるので、最高の効果を上げるに違いありません。 実際、人間はこんなに烈しく怒ったら、秩序も節度も目標もすべて踏み越えて、自分自身が分からなくなります。 でも、激情は決して嫌悪を催すほどに表現されてはなりませんし、音楽はどんなに恐ろしい場面でも、決して耳を汚さず、やはり楽しませてくれるもの、つまり常に音楽であり続けなければなりませんので、僕はヘ長調に無縁な調ではなく、親近性のある調で、しかしごく近いニ短調ではなく、もう少し遠いイ短調を選びました。

10月

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6日、父へ
情熱が湧くと、ふだんは2週間もかかるのが、4日ですみます。 アダムベルガーのイ長調のアリアとカヴァリエリ嬢の変ロ長調のアリアと三重奏を1日で作曲し、1日半で書き上げました。 しかし、たとえオペラ全部ができたとしても、何にもならないでしょう。 グルックの2つのオペラが出来上がるまで、僕のは寝かされているでしょう。その間、みんなはそれをせいぜい研究できるというものです。

宮廷画家のフォン・ヒックルの義理の妹テレーゼのために

を作曲。 初めクラリネット、ホルン、バスーン各2という編成(ヘ長調)で書かれたが、翌1782年7月に大急ぎで2本のオーボエを加えて、現在の形に改めたという。

13日、モーツァルトの霊名の祝日(聖ヴォルフガングスの祝日)、床につこうとして服を脱ぎかけたモーツァルトは、K.375 セレナードを贈られた。 友人たちは玄関の扉を開けさせ、中庭の真中に整列して、モーツァルトを大いに喜ばせた。

17日、新大陸ではヨークタウンでイギリス軍が敗北し、アメリカ独立戦争の事実上の終結。 ただし、イギリスの議会が認めるのは翌82年であり、正式に講和条約が調印されるのは1783年パリにおいてである。

弟子のアウエルンハンマー嬢のために

を作曲。
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また、ケッヘル番号はまだないが、 をこの頃に作曲したかもしれない。

11月

16日、マクシミリアン大公からフォン・ヴュルテンベルク公爵を紹介された。 娘(当時14歳)のピアノ教師になることをもくろむが失敗。 その公女は1788年にトスカーナのフランツ大公と結婚し、1790年に(皇帝ヨーゼフ2世の死の前日に)没する。

23日、演奏会で「2台のピアノのためのソナタ K.448」をアウエルンハンマー嬢と共演。 演奏会は大成功を収めた。 さらに1784年6月に、この曲を弟子のプロイヤー嬢とも演奏する。

12月

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8日、ウィーン新聞に「ミハエル教会の向かいの美術品店アルタリアで、6曲のヴァイオリン伴奏付きのピアノソナタ作品2が5フローリンで発売される」という広告が載った。 これは現在「アウエルンハンマー・ソナタ」として知られているものである。

15日、父へ

ここで少しでも確かな収入を得ることができれば、ちゃんと暮らして行けます。 その上で結婚します。相手は誰か、それを聞いてびっくりしないで下さい。 まさかウェーバー家の一人ではないだろうですって? そうです。 それもヨゼファでも、ゾフィーでもなく、コンスタンツェです。長女は怠け者で、粗野で、嘘つきで、狡猾です。 ランゲに嫁いだ娘も嘘つきで、意地悪で、コケットです。 末娘は若すぎて、可愛いけれど、おてんば娘にすぎません。 まん中の愛しいコンスタンツェは、一番気立てが良く、分別があり、一番いい娘です。
例によって、父にすぐに見破られるような理屈を並べている。 モーツァルトの離職に続いて、この手紙が父子の間をさらに気まずいものにした。 父の意に反してヴォルフガングは結婚しようとしている。 しかも相手は、父が毛嫌いし警戒していたウェーバー家の娘である。

22日、父へ

結婚契約として『私はコンスタンツェ・ウェーバー嬢と3年以内に結婚する義務を負うものとする。 もし当方にそれが不可能な事情が起こって当方の考えが変った場合には、先方は当方から毎年300フローリンを受け取るものとする』と書きました。 後見人が出て行ってから、天使のようなこの娘がどうしたと思いますか? 母親にせがんでその契約書を取り『保証の書類なんかもらわなくたって信じているわ』と言って、それを破ってしまいました。

24日、ウィーンへロンドンから有名なイタリア人のピアニスト、クレメンティが来て、ヨーゼフ2世の前でピアノの競演をした。


以下は、この年か翌1782年の作と思われている。
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2009/08/02
Mozart con grazia