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田園舞曲 ト長調 K.269b

  • 第1曲 Allegro ト長調 32小節
  • 第2曲 Andantino - Allegro ト長調 (K.101の第2と同じ)
  • 第3曲 Allegro ハ長調 24小節
  • 第12曲 Presto ニ長調 (K.101の第3と同じ)
〔編成〕 ?
〔作曲〕 1777年1月? ザルツブルク
1777年1月


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生誕200年にあたる1956年にチェコ(ボヘミアのチェルニン文庫)でピアノ譜が発見された。 原稿の冒頭に「ヨハン・ルドルフ・チェルニン伯 Johann Rudolf Graf Czernin ために」と書かれてあるという。 全部で12曲から成るものだったらしいが、第1〜第3曲と第12曲のみが残る。 しかも三部形式で作られた第3曲は不完全で、24小節だけ。 また、第1と第12曲はそれぞれ「4つの田園舞曲ヘ長調」(K.101)の第2と第3を編曲したもの。 発見された楽譜は管弦楽曲をピアノ演奏用に編曲したものと思われるが、逆にこの4曲をE.スミスはオーケストラ演奏に編曲し演奏している。 なお、第1曲はヴァイオリン協奏曲ニ長調(K.218)の終楽章でも使われている。

この曲の成立については次のように伝えられ、作品番号としては「ディヴェルティメント第14番変ロ長調 K.270」の直前の K6.269b(1777年1月作曲)が与えられた。
最初はヨハン・ルドルフ・チェルニンの父で、プラハのチェルニン伯爵(Prokop Adalbert Graf Czernin, 1726-77)に献呈するものであったという。 伯爵がモーツァルトに1776年から20ドゥカーテン(90グルテン)の年金契約してくれたからである。 彼はコロレド大司教の甥にあたり、リュッツォウ伯夫人アントーニエ(Antonie Graefin Lutzow, 旧姓チェルニン)の父でもあり、ザルツブルクとは深い縁があった。 その伯爵がモーツァルトに1776年に20ドゥカーテン(90フローリン)の年金契約してくれたので、田園舞曲(K6.269b と K.267)を献呈するつもりでいたところ、伯爵が1777年1月31日(51才)に急死してしまい、それで息子ヨハン・ルドルフ(Johann Rudolf, 1757-1845)の方へ贈ることになったというのである。 ヨハン・ルドルフは当時ザルツブルクの学生(20才)で、モーツァルトに作曲してもらう見返りとして年金を支給するように、父プローコプ・アダルベルトを説得したともいわれている。 のちにウィーンで独立したモーツァルトはこのことを思い出し、ザルツブルクの父へ書いている。

1780年12月19日
ぼくが願うのは、もしツェルニーン老人のような立派な紳士を二人も持てたらということです。 それは毎年ちょっとした助けにはなるでしょう。 でも、年に100フローリン以下ではだめです。 しかもその場合、どんな音楽を好むかということです。
[書簡全集 IV] p.526
余談であるが、伯爵となったヨハン・ルドルフはザルツブルク宮廷に仕え、モーツァルトの熱心なパトロンの一人となった。 彼はヴァイオリン奏者としても知られ、さらに素人楽団の指揮もしていた。 レオポルトは次のような手紙を書いている。
1778年4月


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1778年4月12日
チェルニーン伯爵様は宮廷で下手なヴァイオリンを弾くだけじゃ満足できず、指揮もやりたがっています。 それだからこそ、あの方はもう愛好家の楽団を創設したのですが、これはロードゥローン伯爵の広間で、毎日曜日の3時過ぎにコンサートを始めるはずです。 ジーゲルル・ロードゥローン伯爵が私たちを訪ねてきて、ナンネルに(愛好家として)クラヴィーアを弾いてくれと勧めています。 ところがこの私には、第二ヴァイオリンをうまくまとめてくれと、しきりと頼んできました。 一週間前の5日には、そんなわけで最初の奏楽がありました。
[書簡全集 IV] p.35
レオポルトはヴァイオリン演奏法の世界的な権威であり、ナンネルも(弟ヴォルフガングと並ぶ)屈指の名ピアノ演奏家であり、ともに愛好家の水準をはるかに越えたプロ中のプロである。 チェルニン伯爵はずいぶん贅沢な要望をしたようで、それに対してレオポルトは敢えて「様」をつけて皮肉ってるのだろう。 さらに手紙ではその演奏会のド素人ぶりをあれこれ書き残してくれているし、またその後の手紙にも同様のことが散見されるが、この田園舞曲(K6.269b)とは関係ないことなので省略する。 ついでながら、モーツァルトは父レオポルトにはヨハン・ルドルフを「青二才」と評している。 それでもチェルニン伯爵はのちにウィーン芸術アカデミー会長を務め、モーツァルトの予約演奏会のリスト(1784年3月20日)にも名前が載っている。

上記のように言い伝えられ、ピアノ譜で残るこの田園舞曲(K6.269b)について、近年、モーツァルトの作品かどうか疑わしいとされている。

C.アイゼンの研究(1991)によって、このチェコの楽譜を書いた人物はミヒャエル・ハイドンだということが判明し、K6.269b(および第2、12曲のオーケストラ稿であるK.101の第2・3曲)がハイドンの作品である可能性が浮上してきた。
『新全集』の「舞曲第1巻」の校訂報告を担当したリントマイヤー・ブランドゥルも同様に偽作と見なしている。
[全作品事典] p.276

〔演奏〕
CD [キング KICC 6039〜46] (3) t=0'55 (1) t=2'00
ボスコフスキー指揮 Willi Boskovsky (cond), ウィーン・モーツァルト合奏団 Vienna Mozart Ensemble
1966年
※E.スミス版
CD [Teldec WPCS-22042] (1) t=2'05
トビアス・ライザー・アンサンブル Ensemble Tobias Reiser
1983年頃

〔動画〕

〔参考文献〕

 

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2017/07/23
Mozart con grazia