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アンティフォン 「まず神の国を求めよ」 ニ短調 K.86 (73v)

〔編成〕 4部合唱
〔作曲〕 1770年10月9日 ボローニァ
1770年10月
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レオポルトは息子ヴォルフガングを音楽の本場イタリアに連れて行く計画を周到に立てていた。 そして、1769年暮れ、父と子は初めてのイタリアへの旅に出た。 行く先々で神童は人々の度肝を抜くような数々のエピソードを各地に残している。 有名なローマのシスティーナ礼拝堂でグレゴリオ・アレグリの門外不出の秘曲「ミゼレーレ」を聴いて暗譜したという逸話もこのときのものである。 そしてボローニャでは当時の大音楽理論家マルティーニ神父から直接作曲の指導を受けることができたが、これはこのイタリア旅行の大きな成果の一つであった。 音楽の本場イタリアで作曲技法を学ぶ機会が得られ、また、実力を認められることはレオポルトのかねてからの大きな目的であったが、それが着々と達成された。

黄金拍車勲章をさげた肖像画。 1777年(21歳)のとき。
14歳の少年モーツァルトがその地で得たものは、用意周到に事前準備していた父レオポルトの予想をはるかに越えるものだったと思われる。 足りないところは何一つないと言ってよいほどであるが、さらにレオポルトが次々と起る奇蹟のような話を(親の贔屓目から多少水増しして)手紙に書き残したことで、後世のモーツァルトの伝記作家に豊富な話題を提供することもできた。 一方で、1769年12月13日から1771年3月28日まで、モーツァルトが長い間イタリア旅行で留守をしたにもかかわらず、ザルツブルクの宮廷筋でこの若い音楽家に対する評価は上がっていたという。 さまざまな面から総合して、この第一回イタリア旅行は大成功だった。

レオポルトは2年前に自分で設定した所期の目的を、イタリアでみごとに達成した。 すなわち、息子のモーツァルトが正統的な音楽の作曲家で、オペラの作曲依頼や大宮廷の楽長職するにも値する、という評判を確立することに成功したのである。 同時にレオポルトは限りないエネルギーと驚くべき外交手腕とを発揮して、わが子のピアノ演奏の才を、音楽家、愛好家など、感嘆してくれる聴衆の前で披露するために、あらゆるチャンスを開拓していった。
[ソロモン] p.140
予想以上の成果の一つには、ローマ教皇クレメンス14世から法王庁騎士に任ぜられ、「黄金拍車勲章」を授かったことをあげることもできるであろう。
ローマでは、大きな光栄が、モーツァルトを待っていた。 7月5日、パッラヴィチーニの努力で、彼は<黄金拍車>の勲章を、当時の教皇クレメンス14世から授かったのである。 この栄誉は、音楽家では、彼よりも200年以上も前の音楽家で、レネサンスの最後の巨匠オルランド・ディ・ラッソ(1532頃〜94)が授けられているだけだという。 一般には、グルックが、1756年、ベネデット14世から、おなじくこの勲章を受けたといわれているが、じっさいにグルックが授与されたものは、カール・ディッタース・フォン・ディッタースドルフ(1739-99)をはじめ、数多くのひとたちが授かっている<ラテラノ騎士>という称号である。 これにくらべて、モーツァルトが与えられたのは<エクエス・アウラテ・ミリティエ>で、この騎士号をもっていると、いつでも自由に教皇庁の部屋に出入りができるほか、裁判権を免除され、教皇庁の保護のもとにおかれるといった特権が与えられている。
[海老沢] p.54
天賦の才能だけでなく、このような栄誉も手に入れたモーツァルトにとって、不可能なことは何もなかったであろう。 ボローニャで、特に対位法の指導を受けていたマルティーニ師の推挙を得て、この向うところ敵なしの天才少年はアカデミア・フィラルモニカの厳格な対位法の試験を受けることになった。 そのためにイタリア旅行の日程が遅れたとする「1770年10月20日」の手紙(レオポルトからザルツブルクの妻へ)が残っていて、それには父親の誇らしい気持ちが書かれている。 詳しい文面を省略して、その内容を簡潔に表わすと
ヴォルフガングは、10月9日、一室にとじこめられ、四声のアンティフォナ《クエリーテ・プリムム・レーニュム・デイ (Quaerite primum regnum Dei)》を書かされたが、ふつうの人では3時間でも出来ないのに、モーツァルトは、1時間もかからずこれを完成し、いならぶひとたちをびっくりさせた。 このため、満場一致で、モーツァルトは、ボローニャのアカデーミア・フィラルモニカの会員になることができたのである。 元来、会員資格は満20歳以上のもので、しかもこのアカデーミアで勉強したものに限られていたが、モーツァルトの場合にはそうした慣例をやぶって特別に与えられたわけである。
同書 p.55
というものである。 そして、ここで作られたのが、この曲(K.86)なのである。 モーツァルトが試験に合格した証拠として、当時の理事長ペトロニオ・ランツィによる文書
我がアカデミア・フィラルモニカの声望と偉大さをより増すことと我が会員の知識とその進歩を公然のものとするために、ザルツブルク出身のヴォルフガング・アマデーウス・モーツァルト氏に1770年10月9日付けで当アカデミアのマイスターコンポニストの称号を授与することに致しました。 多くの会員がその才能と業績を永遠に記憶すべくここに本通知に署名し、当会の印を付します。
[ドイッチュ&アイブル] p.99
が残っている。 さらに、マルティーニ師が「様々な様式を持つ音楽作品を完全にマスターしている」と証明する文書も残されているが、ただし、必ずしも試験の結果が最上の出来だったとは言いがたいようである。 アインシュタインによれば
候補者はグレゴリオ聖歌の一曲を受け取るが、モーツァルトの場合には交誦(アンティフォナ)のメロディーであって、彼は一室に閉じこめられて、それに三つの上声部を《厳格な様式で》作曲しなければならなかった。 ところでモーツァルトは完全に失敗した。 レーオポルトがヴォルフガングの課題の立派な解決能力について言いふらした自慢は「ほら」だということが立証されている。 ボローニャのアカデミア・フィラルモニカと音楽高等学校の文庫には、この事件の三通の文書がすべて保存されている。 すなわち閉じこめられた室内でモーツァルトが仕上げたもとの作品、マルティーニ神父の修正、やがて審査員に提出されたこの修正のモーツァルトの写しである。 親切なマルティーニ神父の助力にもかかわらず、評定は良くなかった。 「1時間足らずののちに、モーツァルト氏はその試作を提出したが、それは特別な事情を考慮に入れれば十分なものと判定された。」 これは人情のある寛大な判断であって、のちにモーツァルトの実力によって正当化されることになった本能的な正しさを含んでいる。 アカデミア・フィラルモニカはその名簿のなかに、ヴォルフガング・アマデーウス・モーツァルトの名以上に偉大な会員、高貴な名を誇ることはできないのである。
[アインシュタイン] pp.209-210
ということであり、オカールも「ギリギリの入会許可であり、評点は『可』であった」と述べている。 モーツァルトの神童ぶりを強調するあまり、父レオポルトが多少誇張して書き残した「手紙」をもとに、のちに作られた伝記が「熟練した成人でも難しい試験に、14歳の少年がやすやすと合格した」と言われている有名な曲であるが、実際はそうでもないというのである。
提出された曲は(公式の記録にあるように)、彼が「1時間もたたないうちに」書いたものではなく、マルティーニ神父が手を入れた曲なのである。 アカデミアの実力者である神父は、ヴォルフガングの書いた曲が審査員たちにとって、あまりに個性的だと判断したのではないか。 そして結局、審査員たちはマルティーニ神父の訂正したものを見て、ザルツブルクの若き音楽家モーツァルトが、アカデミア会員となる資格が充分にあると考えたのであろう。
[ド・ニ] p.61
マルティーニ師
さらに、マルティーニ神父がモーツァルトの書いたものを修正したのではなく、師自身が作曲したものを「モーツァルトの曲」として提出したのではないかと推測する説すらもあるという。 もしそれが事実だとすれば、マルティーニ師がそこまでする理由(動機)は何であろうか。 敢えて考えれば、レオポルトから何らかの働きかけがあったのではないかと想像できないこともない。 すなわち、想像をたくましくすれば、音楽の本場イタリアでの目覚ましい成果を必要とするあまりレオポルトが裏工作をしたのではないかと考えられなくもないというのである。 ただし確証もなくあれこれ推測するのは差し控えなければならない。

14歳直前の
モーツァルト
アンティフォンまたはアンティフォナとは、合唱を2つに分けて交互に歌うもので、「交唱」または「交誦」と訳されている。 モーツァルトに課せられた試験では、「交誦聖歌集」から第一旋法のアンティフォナ「Quaerite primum regnum Dei.」が採られ、それをバス声部に置いて、厳格な対位法様式による4声部に仕上げるものであったが、14歳の少年が書いたものには「厳格対位法の観点からは、いくつかの規則違反を犯している」という。 もちろん模範解答として用意してあったマルティーニ神父のものには一つも誤りはない。 ド・ニは次のように指摘している。

これと同じ頃に作曲された交響曲(ト長調 K.74)や、あの素晴らしいオペラ『ポントの王ミトリダーテ』(K.87)と比較してみると、モーツァルトが書いた曲もマルティーニ神父が訂正した曲も、大して立派なものではない。 この曲は彼が尊敬する神父と、息子をアカデミアの会員にしたくて仕方なかった父親の両方を、同時に満足させなければならないという緊張感のなかで書いた、様式の稽古用の作品といってよかろう。 したがって、どのモーツァルトの伝記でも素晴らしい手柄のように語られているこの曲は、もっと割引いて考えなければならない。
同書 p.61
様々な見方があるが、アカデミア・フィラルモニカの審査基準を満たしたことは確かであり、誇張された話を差し引いた上で、14才の少年モーツァルトに入会を認めても良いだけの実力があったと考えるべきであろう。 しかしこれだけではモーツァルトのイタリア旅行が大成功ではないことをレオポルトはよくわかっていた。 オペラが書けなければ大作曲家と言えないからである。 マルティーニ神父が少年モーツァルトの実力を認める証明書はそのことを物語っている。
高貴なるザルツブルク大司教猊下の14歳の室内音楽家たるザルツブルクの騎士ジョヴァンニ・アマデーオ・ヴォルフガンゴ・モーツァルト氏の様々の様式による若干の音楽作品を目のあたりにし、かつ数回にわたってチェンバロ、ヴァイオリン、それに歌唱を拝聴した結果、格別の賛嘆の念をもって、上記の音楽の分野のいずれにおいても、最高の熟練者たることを発見した。 とりわけチェンバロの演奏においては、即興のための種々の主題を与えたが、これらの主題を氏はこの芸術が要求する若干の条件を踏まえて、まことに絶妙に処理した。
[書簡全集 II] p.212
ボローニャでは『ミゼレーレ』(K.85)などの古様式(スティレ・アンティコ)と呼ばれる厳格な対位法様式の小曲を書いてマルティーニ師の期待にこたえたのち、ミラノに歩を進め、総督フィルミアン伯爵のためにオペラ・セリア『ポントの王ミトリダーテ』(K.87 / 74a)の作曲と上演に全力をあげるのである。 レオポルトの過酷な要求にも少年モーツァルトは難なく仕事を短期間のうちに片付けてしまうが、上演までには様々な妨害を乗り越えてゆかなければならなかった。

〔詩〕
  Quaerite primum regnum Dei.
et justitiam eius:
et haec omnia adjicientur vobis.
Alleluja.
  まず求めなさい、神の国と、
その義とを。
そうすれば、すべてあなたに与えられる。
アレルヤ。
 
那須輝彦訳 CD[WPCS-4566]

〔演奏〕
CD [PHILIPS 422 749-2/753-2] t=1'55
ライプツィヒ放送合唱団
1990年5月、ライプツィヒ
CD [UCCP-4078] t=1'55
※上と同じ
CD [WPCS-4566] t=1'04
アーノンクール指揮 Nikolaus Harnoncourt (cond), アルノルト・シェーンベルク合唱団 Arnold Schoenberg Chor
1992年2月、ウィーン

〔動画〕
[http://www.youtube.com/watch?v=47GTMpcbkCs] t=1'42
Il Coro "Città di Bastia"
Sagra Musicale Umbra 2006
[http://www.youtube.com/watch?v=_My0VskKDlI] t=1'29
Daniel Schreiber, tenor. Manfred Bittner, bass. Teatro Armonico Sturrgart.

〔参考文献〕

 

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2012/03/11
Mozart con grazia