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12のピアノ変奏曲 ハ長調 K.179 (189a)

フィッシャーのメヌエットによる12の変奏曲
〔作曲〕 1774年12月6日以前(夏?) ザルツブルク

当時有名なオーボエ奏者だったフィッシャーのオーボエ協奏曲第1番の終楽章ロンドのメヌエット主題をもとにしたフォルテピアノのための変奏曲。 そのため『フィッシャー変奏曲』と呼ばれることがある。 上記の時期にザルツブルクで書かれたと思われているが、作曲の動機はわからない。 その主題の旋律について、モーツァルトはクリスティアン・バッハのクラヴィーア版で知ったのではないかとゆう説がある。

変奏すべてがハ長調4分の3拍子。 易しい技巧で華やかな効果があるが、アインスタインは「単に愛らしいか、または輝かしいものにすぎない」と評している。 モーツァルトは好んで演奏していたが、長いこと彼の名人芸を誇示するのに役立った(アインシュタイン)。 1777年旅先のマンハイムでもよく演奏し、さらに宮廷作曲家として職にありつけることを願って、やさしいもの6曲を選んで選帝侯の庶子(息子)カール・アウグストに贈っている。

1777年11月29日
選帝侯にじきじき申し上げる機会を作るため、フィッシャーのメヌエットをもとにぼくの一番簡単な変奏曲を6つ若い伯爵のところへ持って行こうと決心しました。
そこへ行った時の女家庭教師の喜びようときたら、パパはとても想像できないでしょう。 とても丁寧に迎えてくれました。変奏曲を取り出して、これは伯爵方のために書いたものです、と言うと、
(以下略)
[手紙(上)] p.94
このときの(選び取られた)6つの変奏曲は残っていない。 その後、マンハイムを去ってパリへ行ったときも、この12の変奏曲を活用した。 たとえば、1778年5月1日の手紙では次のように書いている。
行ってみると、温めてない、ひんやりした、暖炉のない大きな部屋で半時間も待たされました。 やっとのことでシャボー公爵夫人がひどくお愛想をふりまきながら現れて、ご自分のピアノは一つも調律してないので、ここにあるこのピアノで我慢して下さい、と言いました。
(中略)
それから夫人は腰をおろして、大きなテーブルを囲んで輪をなして座っている他の紳士たちを相手にデッサンを描き始め、たっぷり1時間もそうやっていました。 それでぼくは光栄にもたっぷり1時間待たされたというわけです。 窓も扉も開けっぱなしです。 ぼくは手だけでなくからだも両足もすっかり冷たくなり、頭までがすぐに痛くなり始めました。
(中略)
とうとうぼくは、おんぼろピアノを弾きました。 ところが、夫人も紳士がたもデッサンの手を休めず、描きつづけていたのです。 だからぼくは安楽椅子やテーブルや壁に聴いてもらっていたわけです。 そんなひどい状態で、もう我慢がしきれなくなり、フィッシャーの変奏曲を弾き始め、半分まで弾いて、立ち上がりました。
[手紙(上)] pp.144-145
14年前に神童をもてはやしたパリは、22歳の青年モーツァルトに冷たかった。 母と二人でパリを再訪することになった息子に、父レオポルトは「この人たちはみな喜んで会ってくれるだろう」とパリの知人たちのリストを渡していた。 その中に、ド・シャボー公爵(Duc de Chabot, 1733~1807)の名前もある。 グリムが公爵夫人に宛てて紹介状を書いてくれたので、返事を待っていたが何の音沙汰もなかった。 それでも「1週間後に来るように」と言われていたこともあり、モーツァルトは「約束を守って」訪問したのであった。 そして、そのときの様子が上記の通りだったのである。 夫人としてみれば、公爵が帰宅するまでの間、仲間とのデッサン会で、ドイツからわざわざ来たモーツァルトとかいう若いピアニストがBGMを弾いていてくれればいいと思っていたのだろう。

この変奏曲は、この年(1778年)に「わが愛しきアドニスの主題による6つの変奏曲 K.180」と「私はランドールの主題による12のピアノ変奏曲 K.354」とともにパリのエーナ社から出版された。 なお、その年の7月、母はパリで客死した。

〔演奏〕
CD [EMI TOCE-11557] t=10'30
ギーゼキング Walter Gieseking (p)
1953年8月 No.3 Studio, Abbey Road, London
CD [PHILIPS PHCP-3674] t=18'35
ヘブラー Ingrid Haebler (p)
1975年11月か12月、アムステルダム・コンセトヘボウ
CD [SYMPHONIA SY-91703] t=20'34
アルヴィーニ Laura Alvini (fp)
1990年4月 Teatro A. Ponchielli di Cremona
Fortepiano Hofmann (c.1780)
CD [TOCE-7514-16] t=18'27
バレンボイム Daniel Barenboim (p)
1991年3月 Bavaria Musik Studio
CD [NAXOS 8.550611] t=20'41
ニコロージ Francesco Nicolosi (p)
1991年12月 the Moyzes Hall of the Slovak Philharmonic in Bratislava

〔動画〕

 

 

Johann Christian Fischer

1733 - 1800

フィッシャーは当時ヨーロッパで有名なオーボエ奏者で作曲家。 モーツァルトは一家の西方への大旅行でオランダ訪問していたとき(1765年9月から1766年4月まで)出会ったことがある。

フィッシャーが書いたオーボエ協奏曲は2曲残っている。 その第1番の終楽章ロンドーの主題をもとにモーツァルトはピアノ変奏曲K.179(1774年、18才)を書いた。 ただしその後、成長したモーツァルトは1787年に以下のような辛辣な批評を父に「ここだけの内緒の話」と断ったうえで語っている。 当のフィッシャーには不名誉な記録であるが、ここに紹介しておこう。

1787年4月4日、ウィーン
あのころのぼくは、まともに判断できるような年齢ではありませんでした。 ぼくが覚えているのはただ、彼がぼくには、みんなと同様、すごく気に入ったということです。 あれから好みがすごく変わったと考えても、ごく自然なことでしょう。 彼はおそらく古風な流儀で吹くでしょうね。 いや! ひと言でいえば、哀れな学生風の演奏ですよ。
[書簡全集 VI] p.384
さらに続けて、フィッシャーの協奏曲については、次のように酷評している。
それぞれのリトルネッロが15分も続き、そのあとやっと主人公が現れる。 鉛のように重い足を交互に持ち上げて、代わるがわるどすんどすんと地面に下ろす。 彼の音はまったく鼻声ですよ。
フィッシャーの生年ははっきりしないが、1733年頃と言われる。 1768年にロンドンに渡り、演奏家、作曲家、教師として大活躍し、1770年代には当時の二大オーボエ奏者の一人として名声を博していた。 しかし彼が1787年に演奏旅行でウィーンを訪れたとき、モーツァルトの耳には「オランダで知り合ったころよりも上達していない」とバッサリ、上記のような報告が残されることになった。 モーツァルトが相手では誰もが気の毒な結果になってしまう。

〔動画〕

 

〔参考文献〕

 

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2014/09/28
Mozart con grazia