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ミサ曲 第14番 ハ長調「戴冠式ミサ」 K.317

  1. キリエ Andante maestoso ハ長調
  2. グロリア Allegro con spirito ハ長調
  3. クレド Allegro molto ハ長調
  4. サンクトゥス Andante maestoso ハ長調
  5. ベネディクトス Allegretto ハ長調
  6. アニュス・デイ Andante sostenuto ヘ長調
〔編成〕 S, A, T, B, SATB, 2 ob, 2 hr, 2 tp, 3 tb, timp, 2 vn, bs, og
〔作曲〕 1779年3月23日 ザルツブルク
1779年3月
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この曲が「戴冠式ミサ」というタイトルで呼ばれているには、以下のような説があったからである。 もちろんそれはモーツァルト自身がつけたものではない。 彼は有名な「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」「音楽の冗談」などのわずかな曲にタイトルを付けているが、その他ほとんどは後世のものである。
この曲の成立に関してかつて次のように説明されていた。 すなわち、ザルツブルク近郊のマリア・プライン教会にある聖母マリアの奇蹟像の戴冠式のために作られたと考えられていた。 ド・ニによれば

この名の起こりは、明らかにザルツブルク北郊にあるバロック様式のマリア・プライン教会のために作曲されたのではないかと思われるからである。 この土地からほど遠からぬバイエルン地方からこの教会にもって来られ、きわめて篤い信心の対象となっていた聖母マリアの画像が、1744年に厳かに戴冠された。 当時はそのような習慣があったのである。 1751年には、ローマ教皇がその冠を祝福した。 それ以来マリア・プラインの教会では毎年聖霊降臨後の第五日曜日に、そのことを記念して荘厳ミサが挙げられた。 この伝統によってモーツァルトは、1779年の聖霊降臨後の第五の主日のためのミサを作曲したのである。
[ド・ニ] pp.92-93
しかしその式典は6月27日にあたり、それにしては作曲があまりにも早すぎる(モーツァルトの流儀に反する)ことや、大規模な楽器編成で書かれているなどの理由によりこの説は退けられ、現在では、この曲はザルツブルク大聖堂で行われた復活祭の式典のために作曲されたと考えられている。 式典は4月4日か5日にあったとされ、モーツァルトはそれにちょうど間に合うように書き上げたのだろう。
華麗にして力づよく、堂々としているが、まさに大聖堂の空間を音響的に飾り立てるにふさわしい。
[海老沢] p.83
ただし、ド・ニは
しかし司教座聖堂のオーケストラには通常ホルンがないのに、このミサ曲ではそれが用いられていることから、司教座聖堂のためという説に疑問をもつ研究者もいる。
と指摘し、この曲の成立の謎が解明されたわけではないという。

現在有力な「ザルツブルク大聖堂で行われた復活祭の式典のため」とすると「戴冠式」と呼ばれる理由がなくなってしまうが、その後、何度かの戴冠式の機会にこの曲が演奏された可能性があるので、まったく意味のない呼称と切り捨てることもできない。 まず、1790年9月フランクフルト・アム・マインでのレオポルト2世の戴冠式があり、その機会に演奏されたかもしれない。 と言うのは、翌年9月プラハでのレオポルト2世のボヘミア王戴冠式に臨むために、宮廷楽長サリエリが3曲のミサ(K.258, K.317, K.337)を携えてプラハを訪れているからである。 式典は1791年9月6日に行われ、サリエリは自身の「テ・デウム」ニ長調に加え、モーツァルトのミサ曲を選んでいる。 ただしそのとき演奏されたのはK.337の方だったが。

選ばれた作品は長らくハ長調K317と考えられてきたが、宮廷礼拝堂に現存する手稿譜から、ハ長調K337であったことが判明している。 それは、この式典のために予定されていたコジェルフのミサ曲の代わりに演奏されたらしい。 K337の「クレド」に含まれる「そして肉に入り」の手稿スコアに、サリエーリはヴィオラ声部を追加した。
[ヴォルフ] p.177
ウィーンでのモーツァルトの教会音楽家としての評判は1780年代後半からどんどん高まっていたので、戴冠式のような大きな舞台で演奏曲目に採り上げられることは決して不思議でなかった。
それに貢献して力があったのは、ウィーンでもっとも多忙な楽譜取扱商、ヨハン・トレークである。 トレークの販売カタログを見ると、ミサ曲などザルツブルク時代の宗教音楽の筆写譜が、しだいに増えていることがわかる。
こうしてモーツァルトの教会音楽の作品がウィーンで普及されていたのであった。 ヴォルフは次のように続けている。
サリエーリを戴く宮廷礼拝堂も、教会音楽のレパートリーを、多くのモーツァルト作品によって拡大する。 そのほとんどは、モーツァルトの死後、トレークから購入したものである。
トレーク(Johann Traeg, 1747-1805)は1779年までにはウィーンに移住し、1782年8月から楽譜販売の新聞広告を出し始めていた。 ただし、モーツァルト生前の1791年10月までは編成の大きい器楽作品が積極的に販売され、教会音楽の広告は少なかった。

モーツァルトの死後も、1792年、フランツ2世の戴冠式(フランクフルト)でもサリエリはモーツァルトのミサ曲を演奏した可能性がある。 こちらの方が実際にK.317が演奏された可能性が高い。 19世紀初めのある筆写譜には「フランツ皇帝陛下の戴冠式のためのミサ曲」というタイトルが付けられてある([全作品事典]p.29)という。

このようにして、この曲が自然と「戴冠式」と呼ばれて後世に伝えられているが、そのような大舞台でモーツァルトのこのミサ曲が選ばれたこと自体にこの曲の偉大さがある。 ド・ニは

このミサ曲の人気がなぜ高いかといえば、おそらく一見まったく相反する二つのものを、完全に融合させているからであろう。 すなわち参詣者ひきもきらない巡礼地の教会におけるミサにとって、欠かすことのできない親しみやすい性格と、モーツァルトがミサ曲の美の理想とも考えていたに違いない、十分に洗練されたきわめて知的ともいうべき形式の融合である。 しかもそれをミサ・ブレヴィスという規模のなかで、完全に実現しているのである。
[ド・ニ] p.93
といい、またアインシュタインは
1777年の変ロ長調ミサ曲(K.275)とは全く異なった性格を持っている。 楽器編成もはるかに大規模で、荘重さもはるかに強調され、コントラストもはるかに強められている。 モーツァルトはミサ曲という大きな形式のシンフォニー的な統一の強調に関して、はるかに大胆になったようにみえる。
(中略)
すでにこのミサ曲によって、われわれは教会音楽家としてのモーツァルトの創造が絶頂をきわめる作品に接近しているのである。 1783年のハ短調ミサ曲(K.427)の巨大なトルソーがそれである。
[アインシュタイン] pp.462-463
と絶賛している。 さらに、この曲には有名な箇所があることでもよく知られている。 すなわち、アニュス・デイでのソプラノ独唱であり、そのソロが『フィガロの結婚』第3幕で伯爵夫人が歌うアリア「美しき日はいずこ Dove sono i bei momenti」に用いられていることである。

そもそもモーツァルトがザルツブルク時代に作曲したミサ曲では楽器編成が限られている。 そのため、1791年の戴冠式での演奏でサリエリは(K.337に)ヴィオラ声部を追加したのだった。

モーツァルトはこのミサ曲の弦楽器パートを、ザルツブルク時代の教会作品の常として2つのヴァイオリンと低弦のみで編成し、ヴィオラを使っていなかったからである。 そのさいヴィオラが通奏低音パートをしばしば重複するのは、イタリアの習慣に即している。
[ヴォルフ] p.177
これはK.317の場合も同様である。 話は飛躍するが、さらに管楽器パートにおいてもフルートを追加するなどして演奏すればミサ曲K.317はより一層魅力的な響きを我々に提供してくれるのではないだろうか。

話をモーツァルト生前に戻すと、1791年6月頃、ウィーンの聖シュテファン大聖堂楽長ホフマン(Leopold Hofmann, 1738-1793)がこのミサ曲を演奏したかもしれないという。 その演奏に必要だったのか、モーツァルトはバーデンの合唱指揮者シュトルに次のような依頼文を送っている。

1791年5月末
きのうシュタードラーがあなたに会いに来て、ぼくの作曲したこのミサ曲を

求めたのかどうか知りたいのです。 求めたのでしょうか? そこでぼくはきょうそれを受け取るだろうと期待しています。 さもなければ、すぐにお送りくださるようお願いいたします。 ただし、全パート譜と一緒にです。 至急またお返ししますから。
[書簡全集 VI] p.626
自身がこのミサ曲を「戴冠式」と呼んだことはなかったので、この曲を特定する手段として、互いに通じ合うためにモーツァルトはキリエの冒頭の一部を書いたのだった。
なお、この曲は6月13日にバーデンで演奏されているという。

自筆譜はベルリン国立図書館にあったが、第2次大戦後行方不明になっているという。 なお、教会の典礼のなかで器楽曲を合奏する習慣が17世紀後半から行われるようになり、18世紀前半からザルツブルクでも教会ソナタ(書簡ソナタ)が用いられていた。 モーツァルトはその種の曲を17曲書いているが、このミサ曲と関連のあるのは「第16番 K.329 (317a)」といわれる。

余談であるが、2012年に亡くなった音楽評論家・吉田秀和氏は「私はこのミサを、自分のモーツァルトの出発点におく」といっていた。 モーツァルトがこのミサ曲を書いた1779年は彼の青年時代で最も悲しく辛い時期であった。 よく知られているように、彼は母とともに1777年9月23日パリに向かって就職活動の旅に出た。 道草を食って、マンハイムではアロイジアに片思い、そして失恋。 目的地パリに着いたはいいが、冷たい世間の風をいやというほど経験し、1778年7月3日その地で母を失う。 そして負け犬となって、1779年1月15日ザルツブルク帰郷。 吉田秀和は語る。

第1章の<キリエ>では、合唱の歌う「主よ、憐れみたまえ」が、独唱者たちの「キリスト、憐れみたまえ」を中間にはさんで、和音の柱を並べてゆく。 その合唱は「キ」と強く叫んで、「リエ」と突然声をひそめる。 このベートーヴェンより、もっとベートーヴェン的なスピト・ピアノは、祈りを感じさせない。 それはむしろ、そとでさんざん遊びほおけた末、泣かされてきた子が、家の敷居をまたぐなり「おかあ」と強く叫んで、急に流れ出してきた涙といっしょにあとの「さん」という音を呑みこんでしまったかのようだ。
(中略)
各小節の頭ごとに sf をおいた猛々しいアクセントで、すべての信仰箇条をのみつくしながら、音楽の奔流は、一瞬のよどみもなく流れ下る。 まさに絶対のアレグロで、「私は信ずる、唯一の神を、万能の父を、天と地と、あらゆる見えるものと見えざるものとの創造主を、あらゆる時に先立つ神より生まれた子、唯一の主イエス・キリストを・・・」と。 モーツァルトは、すべてをあるがままに信じる。 自分の中に天才があることを、美しい声をもったアロイジアが嘘つきの裏切りものであることを──パリのサロンの凍てつくような冷たさを、ザルツブルク大司教のヒエロニムス・コロレドの尖った鼻の先に宿っている小さな悪意を何一つ忘れず、何一つ見逃さないで、心に刻みつかせておきながら──信じる。 何を、どう信じるかの問題ではないのだ。 そんなことは、もうきまったことであり、すべてはあるがままにある。
[吉田] pp.17-18

〔演奏〕
CD[PHILIPS PHCP-3596] t=24'54
グロスマン指揮、ウィーン少年合唱団、ウィーン寺院管弦楽団
1963年4月
CD[エラート R25E-1011] t=26'12
グシュルバウアー指揮リスボン・グルベンキアン管弦楽団、合唱団
1975年
CD[COCO-78064] t=25'57
フェレンチク指揮スロヴァキア管弦楽団、合唱団
1984年
CD[PILZ 44-9274-2] t=27'15
シンライナー指揮カメラータ・アカデミア・ザルツブルク
演奏年不明

〔動画〕

〔参考文献〕

 

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2019/11/25
Mozart con grazia