Mozart con grazia > 変奏曲
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ピアノとヴァイオリンのための12の変奏曲 K.359 (374a)

  • 主題 Allegretto ト長調 2/2
〔作曲〕 1781年7月 ウィーン
1781年7月






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モーツァルトが1778年のパリ滞在中に知ったと思われるアントワーヌ・アルバネーズのフランス語の歌集(1770年)から「羊飼いの娘セリメーヌ La Bergère Célimène」を主題に。 ただし[全作品事典]では主題は「作者不肖のフランスの歌」としている。 素朴で親しみやすいガボット風の主題をもとに12の変奏が展開するが、どれもピアノが主体で、ヴァイオリンは控え目な伴奏役にとどまっている。

父レオポルトの反対を撥ねのけてウィーンで独立することにした時期の作品で、1781年6月20日に書いた手紙(ザルツブルクの父宛て)で「弟子のために変奏曲を仕上げなければならず、とても忙しい」とあるのがこの曲の成立と関わると思われている。 その弟子とはウィーンでの最初のピアノの弟子となったド・ルムベーケ伯爵夫人マリー・カロリーネ(当時26歳)であろう。 というのも、直前の6月16日には、父へ

目下一人の生徒しか持っていません。 ルンベック伯爵夫人で、コーベンツル(伯爵、オーストリアの会計官)のいとこです。 月謝を下げる気になれば、もちろん生徒は何人か取れるのですが、そんなことをしたら、たちまち信用を失います。 ぼくの報酬は12回のレッスンで6ドゥカーテン(27フローリン)ですが、それも好意からしてやっているように、思わせておきます。 6回教えて悪い報酬を受けるより、3回教えて良い報酬を受ける方が、ましです。 現在のたった一人の生徒で、どうにかやって行けます。 ぼくには差当りこれで十分です。
[手紙(上)] pp.283-284
と伝えているからである。 そして、7月4日には「3つの歌を主題にした変奏曲を書きました」と完成を知らせている。 その3つについてモーツァルトは詳しいことを何も記していないが、
  1. グレトリーのオペラ「サムニウム人の結婚」の合唱曲「愛の神」を主題にした8つのピアノ変奏曲 ヘ長調 K.352 (374c)
  2. 「羊飼いの娘セリメーヌ」を主題にしたピアノとヴァイオリンのための12の変奏曲 ト長調 K.359 (374a)
  3. 「泉のほとりで」を主題にしたピアノとヴァイオリンのための6つの変奏曲 ト短調 K.360 (374b)
であろう。 また、このことからこの曲が完成したのは「おそらく7月」あるいは「6月末」ということになる。 そして、これらの曲の写譜をザルツブルクの父姉に送ることを約束していたが、ただしモーツァルトにとって「苦労に値しないもの」だったのですぐに送るほどではないことと、また「写譜屋が忙しい」との理由から、実際に写譜ができて送ったのは1783年の4月に入った頃であった。
1783年4月3日
お約束した変奏曲集は次の機会にお送りします。 というのは、写譜屋が仕上がらなかったからです。
[書簡全集 V] p.356
ザルツブルクに送られた約束の変奏曲の写譜は、ザンクト・ギルゲンに住む姉ナンネルの手に届いた。 その後、1786年秋にナンネルがザルツブルクの父のもとに里帰りしたとき、彼女は父の提案に従ってこれらの変奏曲の写譜を持参し、ナンネルがピアノを、父レオポルトがヴァイオリンを演奏して楽しんだと思われる。 あるいはこのときヴァイオリン役は弟子のハインリヒ・マルシャンだったかもしれない。

ところで、上の手紙(1783年4月3日)にある写譜屋とはどこの楽譜出版社なのか? また「忙しい」とはどのような状況だったのか?

18世紀のヴィーンは、ロンドン、パリ、アムステルダムといった楽譜出版の中心地に比べ、印刷譜の普及が著しく遅れていた。 しかしモーツァルトがヴィーンに移住する3年前の1778年にアルタリア社が楽譜出版業を開始したのがきっかけとなり、ここからようやくヴィーンにおける楽譜出版が本格化する。
(中略)
本格化したことはたしかだが、結局のところ、モーツァルト時代のヴィーンで使われた楽譜の主流は印刷譜ではなく、従来どおりの手書きの楽譜であった。 ヴィーンにはこうした筆写譜の製造・販売を手がけるコピスト(写譜師)が数多くおり、1780年代から90年代にかけて新聞に盛んに広告を出し、モーツァルトをはじめとするヴィーンの作曲家の筆写譜を大量に販売したのである。 なかでも中心的な役割を担っていたのは、ズコヴァティ、ラウシュ、トレークの三大写譜工房であった。
[西川] pp.201-202
こうした状況のなかで、ようやくモーツァルトの変奏曲の写譜が販売できるまでに至り、1785年8月31日にはラウシュから K.359 と K.360 が、また9月14日にはトレークから同2曲と K.455 の写譜が出版され、新聞広告が出された。 「ウィーン新聞」のラウシュの広告では広告では K.359 が40クロイツァー、また K.360 は35クロイツァー。 他方、トレークの広告では K.359 が1フローリン、また K.360 は40クロイツァー。 さらに1786年、アルタリア社から出版された。

〔演奏〕
CD [グラモフォン 419 215-2] t=15'25
バレンボイム Daniel Barenboim (p), パールマン Itzhak Perlman (vn)
1985年11月、パリ
CD [fontec FOCD3149] t=14'35
岡本美智子 (p), 浦川宣也 (vn)
1990-92年、田園ホール・エローラ
CD [キング KKCC-232/3] t=14'02
ヴェッセリノーヴァ Temenuschka Vesselinova (fp), バンキーニ Chiara Banchini (vn)
1993年4月
CD [AMBRONAY ARCANA A 906] t=15'50
アルヴィーニ Laura Alvini (fp), ガッティ Enrico Gatti (vn)
1997年

〔動画〕

 

 

ルムベーケ伯爵夫人

Marie Karoline, Countess Thiennes de Rumbeke, 1755-1812

オーストリア領フランドル全権委任大臣コーベンツル伯爵(Johann Philipp Cobenzl, 1712-760)の従姉妹。

モーツァルトがウィーンで独立したとき最初の保護者(パトロン)となったのはトゥーン伯爵夫人(Maria Wilhelmine Reichsgräfin Thun-Hohenstein, 旧姓 Ulfeld, 1747-1800)であり、彼は演奏会用に当時普及し始めたピアノフォルテを借りていたことが知られているが、二番目の保護者となったのがルムベーケ伯爵夫人であった。 また彼女はウィーンにおけるモーツァルトの最初のピアノの弟子であった。 6月16日や7月4日に父レオポルトに宛てた手紙の内容から、彼女のために「8つのピアノ変奏曲 ヘ長調 K.352 (374c)」、「12の変奏曲 ト長調 K.359 (374a)」、「6つの変奏曲 ト短調 K.360 (374b)」を作曲したと推測されている。
 
 

アルバネーズ

Antoine Albanèse, 1729または1731 - 1800

エジーディオ・ジュゼッペ・アントーニョ・アルバネーゼ(Egidio Giuseppe Antonio Albanese)は1729年または1731年にイタリアに生まれ、ナポリで音楽を学んだカストラート。 1747年(18歳頃)にパリに移住し、宮廷の歌手として作曲家として成功した。
モーツァルト一家の西方への大旅行(1763年6月9日~1766年11月29日)では、パリあるいはヴェルサイユを訪問した際に、出会いがあったかもしれない。
 


〔参考文献〕

 

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2013/06/02
Mozart con grazia