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6つのドイツ舞曲 K.509

  1. ニ長調 3/8 アルテルナティーヴォと呼ばれる交替(挿入)曲付き(以下、同じ)
  2. ト長調  〃
  3. 変ホ長調 〃
  4. ヘ長調  〃
  5. イ長調  〃
  6. ハ長調  〃
〔編成〕 2 fl, picc, 2 ob, 2 cl, 2 fg, 2 hr, 2 tr, timp, 2 vn, bs
〔作曲〕 1787年2月6日 プラハ
1787年1月
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1787年、プラハでは『フィガロの結婚』が大人気だった。 モーツァルトは妻コンスタンツェを伴ってウィーンをたち、1月11日にプラハ到着。 到着するやいなや大歓迎を受け、休む暇もないほどの忙しさだった。 これが第1回目のプラハ旅行になったが、そこでモーツァルトは「ありとあらゆる丁寧な扱いと名誉」を受けることができた。 自分の興行もすべて大成功となり、ひと月たらずの滞在で1000グルデンもの大金を手にし、さらに新しいオペラ作曲の契約(100ドゥカーテンの作曲料と公演1回分の売上金が得られる)という収穫もあった。 19日には交響曲第38番『プラハ』を、さらに22日には『フィガロ』を指揮している。

1787年1月15日、プラハからウィーンのゴットフリート・ジャカンへ
みんなぼくの『フィーガロ』の音楽を、コントルダンスやアルマンドばかりにして、心から楽しそうに跳ねまわっているのを見て、すっかり嬉しくなってしまった。 じっさいここでは『フィーガロ』の話でもちきりで、弾くのも、吹くのも、歌や口笛も、『フィーガロ』ばっかり、『フィーガロ』の他はだれもオペラを観に行かず、明けても暮れても『フィーガロ』『フィーガロ』だ。
[手紙(下)] p.121
プラハ滞在中パハタ伯爵(Johann Joseph Philipp Graf Pachta von Rajov, 1723? - 1822)邸での舞踏会のために書かれたこの曲にはニッセン由来の有名なエピソードがある。
パハタ伯爵の依頼で、モーツァルトはその舞踏会用の舞曲を書く約束をした。 だが彼の仕事はいっこうに進まず、それに業を煮やした伯爵は、食事の招待の時間を一時間早め、作曲家を部屋に閉じ込め、無理やりに曲を仕上げてもらった。 他の客人よりも早く到着したモーツァルトが案内されたのは、御馳走が並べられた食卓ではなく、五線紙、ペン、インクが置かれたデスクのある別の部屋であった。
[書簡全集 VI] p.356
こうして招かれてすぐ作曲を求められたモーツァルトは1時間で書き上げたことになるが、第1曲で1ヶ所、段を書き間違えて改めているところと、第6曲で7小節を縮めているところを除けば、まったく訂正なしの速筆ぶりで、ペンよりも速く楽想が走っているのである。 そもそも食事を招待されて行ったところに仕事が待っていたとき、並の作家なら(即興で仕上げることができない自分の才能のなさは棚にあげて)怒り出すかもしれない。 しかし、そこは天才中の天才モーツァルト、しかも遊び好きで、おだてに乗りやすいモーツァルトであれば、だまされたことを笑って「おやすい御用」とばかりに一気に仕上げたに違いない。 また、パハタ伯爵が持っていたという楽団はなかなかの規模だったのだろう。 モーツァルトが湧きあがる楽想を浮き浮きと五線紙にペンを走らせた生きのよさに魅了される。

この年の12月7日にウィーン宮廷作曲家になり、毎年冬期間の舞踏会でのダンス音楽を死までの間に大量に(5つのメヌエット、10のコントルダンス、9つのドイツ舞曲)作ることになるが、それらの最初に位置するこの作品には特異な工夫がなされている。 それは「各舞曲にはトリオまたはアルテルナティーヴォがついている。 その後主部が繰り返され、再びアルテルナティーヴォになり、そして次の曲に移る」と指示されているように、6曲が「トリオのような交替曲 alternativo によって鎖のように繋がり、息つく間もなく次々に演奏され、かつ各曲がそれぞれ個性を持っている」ことである。 アルテルナティーヴォを繰り返し織り込みながら、堂々とした始まりから様々な変化を楽しんで、最後には華やかに終る曲全体の統一感はモーツァルトならではの作品であり、ダンスを大いに盛り上げる効果満点である。 『フィガロ』で沸き立つプラハの市民のためにモーツァルトが上機嫌で書き上げた特上の一品である。

うまい具合にモーツァルトから一曲のダンス音楽を手に入れた陸軍少将の伯爵(当時64歳ほど)だが、15分近くも休みなく踊らされ、クライマックスの華々しい第6曲を踊り終えたあとは、きっと立ち上がれないほどヘトヘトに疲れてしまったに違いない。 この舞曲に作曲者(31歳)がわざわざ付けたアルテルナティーヴォについての指示はただの目新しさではないのである。 作曲は2月6日、この曲が演奏された伯爵の舞踏会はいつかわからないが、8日にはモーツァルトはプラハを離れている。 ウィーンに着いたのは12日。 伯爵が「やられた」と悔しがる姿を想像してモーツァルトはニヤリとしていたかもしれない。 しかし、よく知られているように、この頃のウィーンはモーツァルトにとって冷たい街になっていた。 なお、モーツァルト自身の手になるピアノ編曲稿が残されているという。

〔演奏〕
CD [EMI TOCE-11559] t=10'44
ギーゼキング Walter Gieseking (p)
1954年3月、ロンドン No.3 Studio, Abbey Road
CD [キング KICC 6039] t=12'20
ボスコフスキー指揮 Willi Boskovsy (cond), ウィーン・モーツァルト合奏団 Vienna Mozart Ensemble
1964年4月
CD [PHILIPS 32CD-486] t=12'13
マリナー指揮 Neville Marriner (cond), アカデミー室内管弦楽団 Academy of St. Martin-in-the-Fields
1981年11月
CD [COCO-78048] t=13'30
グラーフ指揮 Hans Graf (cond), ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団 Salzburg Mozarteum Orchestra
1990年5月
CD [SONY CSCR 8360] t=6'29
御喜美江 Mie Miki (classic accordion)
1990年9月、カザルス・ホール
CD [SONY SRCR-8625] t=14'06
ヴァイル指揮 Bruno Weil (cond), ターフェルムジーク・バロック管弦楽団 Tafelmusik
1991年2月

〔動画〕

〔参考文献〕


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2015/11/15
Mozart con grazia