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交響曲 第41番 ハ長調 「ジュピター」 K.551

  1. Allegro vivace ハ長調 4/4 ソナタ形式
  2. Andante cantabile ヘ長調 3/4 ソナタ形式
  3. Menuetto : Alegretto ハ長調 3/4 複三部形式
  4. Allegro molto ハ長調 2/2 フーガの技法をとり入れたソナタ形式

〔編成〕 fl, 2 ob, 2 fg, 2 hr, 2 tp, timp, 2 vn, va, bs
〔作曲〕 1788年8月10日 ウィーン

1788年8月




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1788年の夏、よく知られているように約2ヶ月という短い期間に3曲の交響曲(変ホ長調 K.543、ト短調 K.550、ハ長調 K.551)が作られた。 もちろん、この期間に書かれたのはこれら3曲だけではないが。 3曲の交響曲の成立の動機は何もわかっていないし、また、モーツァルトが夏にシンフォニーを書くことも異例(アインシュタイン)といわれる。 何かの機会(演奏あるいは出版)があるとき集中的に仕事をするのが常であるから、これらの作品にも発表の機会が待っていたと考えるのが自然である。

おそらく彼は、1789年の冬に数回のアカデミーを開催することができると希望していたのであろう。 しかしアカデミーの開催は、この年にも次の2年間にもできなかった──最後のピアノ・コンチェルト(K.595)を彼は1791年3月に、ヒムメルプフォルトガッセの宮廷料理人ヤーンのコンサート・ホールで、クラリネット奏者ベールの音楽会に参加して演奏しなくてはならなかった。 こういう事情だから、モーツァルトは最後の3曲のシンフォニーを指揮したことも、聴いたこともなかったかも知れない。
[アインシュタイン] p.322
アカデミーとは自分の予約演奏会のことであり、1787年以降は客が集まらず、開かれなくなった。 しかし、確かな記録は何もないが、今日ではこれらの交響曲が演奏される機会があった可能性が広く認められている。 ロビンズ・ランドンは状況証拠を示しつつ次のように断言している。
19世紀には、モーツァルトの最後の3曲のシンフォニーは、生前には演奏されなかったというのが神話になっていた。 その理由は単純で、「演奏された確証がないから」というものであるが、筆者はこれらのシンフォニーがウィーンで演奏されたばかりでなく、写譜の形でも外国に渡っていたという証拠があると確信している。
[ランドン] p.171
3曲の交響曲が書かれたあと、余命が残り少ないとはいえ、没年まで3年がある。 モーツァルトにとって作曲は手紙を書くことと同じであったから、その気になれば十分すぎる長さである。 モーツァルトが交響曲というジャンルにおいて、意識的に「これで完了」という気持ちでそれぞれが個性的な3曲を書いたとは思えないが、しかしこの後、その機会がなっかたのであろう。 これら3曲が最後の交響曲となった。 その中で本当に最後の交響曲となったこの曲はギリシャ神話の最高神ゼウスにちなんで『ジュピター』と呼ばれているが、命名したのはザロモンであり、イギリスでは19世紀初頭にはこの名称で演奏されていたという。 しかし命名者がザロモンであることが資料として確認されたのはそのあとで、20世紀になって1955年にイギリスの出版社ノヴェロから刊行された『モーツァルト巡礼』の中の記述からであった。 その本は、ヴィンセントとメアリのノヴェロ夫妻がモーツァルトの死後、1829年にザルツブルクやウィーンを旅行し、ナンネルコンスタンツェアロイジアなどモーツァルトにゆかりのある人物を訪ねた日記であり、その中に、夫妻がモーツァルト2世フランツ・クサヴァーと面会したときの文章が書かれてあったのである。
モーツァルトの子息は、自分の父親のハ長調の交響曲──ザーロモンがこの曲に『ジュピター』というあだ名をつけたのだが──が、器楽の最も高い勝利だと考えているといったが、私も彼に同感である。
[海老沢] p.11
ただし当時この呼称はイギリスだけに限られていたようで、ザスローによると、19世紀前半のドイツ語圏では「フーガのフィナーレをもつ交響曲」あるいは「フーガで終わる交響曲」として知られていたという。 しかしその後19世紀半ばには『ジュピター』という呼称は広くヨーロッパで知られるようになった。
1856年といえば、モーツァルト生誕百年という記念すべき年であった。 この祝年の機会に、1859年にかけて刊行されたのは、オットー・ヤーン(1813~1869)による4巻に及ぶ膨大なページ数の『モーツァルト伝』であった。 そのヤーンの評伝の中には、この交響曲について、次のように記されている。 「この曲は、いつなのか、またどこでなのかわからないが、『ジュピター交響曲』という名が与えられた。 深い象徴性を示す意図よりも、むしろ曲の荘厳さと輝やかしさを示すためであろう。」
同書 p.10
現在は誰もがこの交響曲を『ジュピター』と呼び、その名にふさわしい最高の傑作であるとの見方には異論がない。 それだけに作曲の動機が是非とも知りたいところであり、ザスローは次のように述べている。
《ジュピター交響曲》が楽想とその仕上げにおいていかに革命的であったかは、おそらく十分には認識されていないだろう。 この交響曲を、1788年以前に作曲された他のどの交響曲と比較できるであろうか? モーツァルトが多くの初期交響曲で習熟した様式を放棄し、手の込んだ大規模な様式へと転換した背後にいかなる政治的・社会的動機があったのだろうか。
[全作品事典] p.266
終楽章は有名な「ド・レ・ファ・ミ」の音型で始まるが、この動機を冒頭で用いることに、ザスローは「モーツァルトは何を思っていたのであろうか?」と問い、『ミサ・ブレヴィス』K.192 のクレドとの関連を指摘しつつ、この交響曲にはモーツァルトのクレドすなわち「信仰告白」が含まれているのだろうか?と思いを巡らしている。
ほぼ四半世紀前に作曲された「最初の」交響曲K.16 にあるのと同じモティーフがここには存在し、それが、交響曲作曲家としてのモーツァルトのキャリアを閉じる役割をも偶然に果たしている。
[全作品事典] p.268
『ジュピター』という名称はもちろんモーツァルトが付けたものではないが、この「ド・レ・ファ・ミ」という「時代を越えた響きの象徴」の音型は彼が意識して用いたものであるため、ときにこれは「ジュピター音形」あるいは「ジュピター主題」と呼ばれることがある。
この「ジュピター音形」は、ただたんにモーツァルトの専売特許であったばかりでなく、実にさまざまな時代の、さまざまな作曲家によって、用いられているものでもある。 それは16世紀の巨匠パレストリーナのモテットやアレッサンドロ・スカルラッティのミサから、バロック音楽の代表者バッハの『平均律クラヴィーア曲集』第2巻ホ長調フーガ、ヘンデルのオラトリオ『マカベアのユダ』第3幕「天の父よ」、さらにモーツァルトの師にして友であるハイドンの『交響曲第13番ニ長調』第4楽章から、ベートーヴェンの『ピアノ・ソナタ第14番嬰ハ短調月光』(作品27の2)第2楽章トリオ、シューベルトの『ミサ ヘ長調』(D105)「クレード」、メンデルスゾーンのオラトリオ『聖パオロ』第30曲二重唱にも及んでいる。 ブラームスもまたこの「ジュピター音形」をとりわけ好んだ作曲家だった。
[海老沢] pp.19-20
この時代を越えた響きの象徴として用いられた音型は『ジュピター』全曲にわたって響いているが、特に終楽章において冒頭から力強く提示され、そして「それがこの楽章を支える形式的な枠組であるソナタ形式の中で、みごとな対位法的技法によって展開されていく」(海老沢)のである。 アインシュタインは「1783年あるいは1784年以後には、モーツァルトはもはや単にフーガ制作のためのフーガは一つも作曲しない」と言い、『ジュピター』のフィナーレについても、これはフーガではなく、「主部と展開部とコーダのなかにフーガ風の部分を持つソナタ形式」と言っている。 このようなものを「フガート」と言うようである。
あらゆるところで対位的展開が行われるため、通常のソナタ形式の枠を打ち破ったかに聞こえるのがこの楽章である。 しかし完全なフーガを形成するわけでもない。 言わば、対位的展開によってソナタ形式の変則形態がここで生じているのである。
[事典] p.301

余談であるが、ハイドンはモーツァルトの死後に12曲から成る、いわゆる「ロンドン交響曲集」(第93番~第104番)を完成させたが、『ジュピター』に敬意を表して、そのうち「第98番変ロ長調」の緩徐楽章に『ジュピター』の緩徐楽章を、「第95番ハ短調」のフィナーレに『ジュピター』のフィナーレをモデルとして投影させているという。

他方、『ジュピター』をハイドンからの影響と見る動機探しもある。
1779年に作られたシンフォニー第70番ニ長調のフィナーレなどでは、巨大な三重フーガが見られるが、1781年にモーツァルトがウィーンに移った時にはこの曲は出版されたばかりであった。 そこから『ジュピター』のフィナーレまでは7年しか経っていない。 この第70番のシンフォニーがなければ、『ジュピター』は生まれなかったといってさし支えなさそうだし、少なくともそのフィナーレは別の形になっていたであろう。
[ランドン] p.128
日本で最初に『ジュピター』が演奏されたのは、大正15年(1926年)10月30日、神戸の青年会館で行われた近衛秀麿指揮による新交響楽団(NHK交響楽団の前身)の演奏会(夜の部)だったという。

〔演奏〕
CD [TKCC-15057] t=26'51
アーベントロート指揮 Hermann Abendroth (cond), ライプツィヒ放送管弦楽団 Rundfunk Sinfonie Orchester, Leipzig
1956年3月、ライプツィヒ
CD[TOCE-1201] t=27'08
クーベリック指揮 Rafael Kubelik (cond), ウィーンフィル Wiener Philharmoniker
1961年1月、ウィーン
CD [POLYDOR POCG-9536/7] t=27'07
ベーム指揮 Karl Boehm (cond), ベルリンフィル Berlin Philharmonic Orchestra
1962年3月、ベルリン
CD [ANF S.W. LCB-103] t=27'15
ベーム指揮 Karl Boehm (cond), ベルリンフィル Berlin Philharmonic Orchestra
1976年9月、ベルリン
CD [CLASSIC CC-1035] t=28'13
ベーム指揮 Karl Boehm (cond), ウィーンフィル Wiener Philharmoniker
1977年
CD [カメラータ・トウキョウ 32CM-174] t=29'17
ゼッキ指揮 Carlo Zecchi (cond), 草津フェスティヴァル交響楽団
1981年8月、高崎市、群馬音楽センター
CD [ポリドール F35L 50253] t=37'52
ホグウッド指揮 Christopher Hogwood (cond), エンシェント室内管弦楽団 Academy of Ancient Music
1982年、ロンドン
CD [NAXOS 8.557239] t=30'30
ティントナー指揮シンフォニー・ノヴァ・スコシア
1988年1月
CD [ミュージック東京 NSC163] t=33'47
グッドマン指揮 Roy Goodman (cond), ハノーヴァーバンド The Hanover Band
1989年11月、ロンドン
CD [Polydor GPA-2008] t=37'54
バーンスタイン指揮ウィーンフィル
演奏年不明
CD [ARTE NOVA CLASSICS 203300] t=29'04
Alessandro Arigoni (cond), Orchestra Filarmonica Italiana, Torino
演奏年不明

〔動画〕


 
Salomon
 

Johann Peter Salomon

1745-1815

ザロモンはドイツのボンに生まれ、宮廷楽団のヴァイオリン奏者として活動したのち、ロンドンに移住し、ヴァイオリン奏者としても興行師としても活動。
ヨーゼフ・ハイドンをロンドンに招いたことでも知られている。 1790年12月14日、ハイドンの送別会で、ザロモンはモーツァルトにもロンドン行きを誘った。 翌15日、ザロモンはハイドンとともにウィーンを出発、ロンドンに向った。 よく知られているように、これがモーツァルトとハイドンの最後の別れとなった。
 
Novello
 

Vincent Novello

1781-1861

ヴィンセント・ノヴェロは1781年9月6日にロンドンで生まれたが、父はイタリア人。 オルガン奏者、指揮者として活動。 また出版業でも成功した。 モーツァルトの熱狂的な賛美者で、モーツァルトを「音楽のシェークスピア」と呼んだという。 妻メアリー(Mary Sabilla Hehl, 1809–1898)はドイツとアイルランドの混血女性で、文人、画家、音楽家などと交流する、サロンの中心人物だったという。

1829年にマリーア・アンナ・モーツァルトが零落して極貧の生活に苦しんでいるという噂が流れると、彼女のために募金活動を行ない、「ナンネル」に名誉の贈り物(義損金)を手渡すため、妻のメアリーとザルツブルクに旅した。 同時にその旅は、モーツァルトの伝記を書くための資料集めを目的としていたが、結局伝記は実現することがなかった。 ヴィンセントとメアリーの日記は、1955年になってようやくロンドンで出版された。
[ヴェルシュ] p.177
二人がザルツブルクのナンネルのもとを訪問したのは1829年7月15日で、それはナンネルの死(10月29日)の3ヶ月前のことであり、そのとき案内してくれたのがモーツァルト2世フランツ・クサヴァー(38歳)だった。
 

〔参考文献〕


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2014/11/30
Mozart con grazia