Mozart con grazia > ピアノ連弾 >
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四手のためのピアノソナタ ハ長調 K.19d

  1. Allegro ハ長調 2/2 ソナタ形式
  2. Menuetto ハ長調 Trio ヘ長調
  3. Rondeau : Allegretto ハ長調
〔作曲〕 1765年5月13日以前 ロンドン
1765年5月


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1763年6月から始まったモーツァルト一家の西方への大旅行(レオポルトがいう「カタツムリのようなのろのろとした旅」)は1764年4月19日カレー到着。 旅行用馬車をその地に残し、22日ドーヴァー海峡を渡る。 そして23日の夕刻、一家の最も遠い訪問地ロンドンに到着。 ここでも神童の姉弟は評判を越える驚異的な才能を披露し、大成功を収めることになった。

1764年6月8日、ロンドンのレオポルトからザルツブルクのハーゲナウアー
私の娘はまだ12歳だというのに、ヨーロッパのもっとも熟達した女流演奏家のひとりであること、それに、私の息子は、要するに、8歳というのに、40歳の男に要求されるものをすべて知っていること、これだけで十分です。 つまり、見たり聴いたりしたことのないものには、それが信じられないのです。
[書簡全集 I] p.164
ところが7月に、父レオポルトが「あやうく死にかけるほど」の重病となり、その療養のため一家はロンドン郊外のチェルシーに滞在。 9月末頃にようやく回復し、ロンドンに戻ることができたが、ロンドン滞在は長引くことになった。 レオポルトは予想外の急病のせいで減ってしまった収入を取り戻そうとしたからであろう。 モーツァルト少年の方もはかりしれないほどの収穫を得る時間がたっぷりあった。
まことに皮肉なことに、彼は北に上ることによって、彼の天才の開花に欠けていたものを補ってくれるもの、つまり暖かく明るいイタリアをロンドンで発見することになったのだ。
[オカール] p.28
それをもたらしてくれたのは言うまでもなくヨハン・クリスティアン・バッハである。
ミラノで音楽教育を受けたこの音楽家はモーツァルトに何をもたらしたのだろうか。 ショーベルトと同じく彼は、モーツァルトにその天才の根本的な特徴の一つの覚醒を促した。 すなわち女性的なしとやかさがはっきりと感じられる飛翔力、甘美でありながら艶のある旋律線への感覚である。 要するにヨーハン・クリスティアン・バッハは、ギャラントな音楽の可能性を深めるにはどうすればよいかをイタリアで発見した北方人の範を示すことによって、その子にまったく新しい道を見せてくれたのである。
そのうえ、二人の間には「以後けっして断たれることのない尊敬と友情が生じた」のである。

1年間を越える長期滞在を終えて、モーツァルト一家がイギリスを離れるときがきた。

1765年4月9日、『パブリック・アドヴァタイザー』紙
急速にヨーロッパ中の偉大な音楽家達の驚異の的となった有名な音楽一家の父モーツァルト氏は近くイギリスを去られるが、出発に先立ち公開及び私的な集まりで二人の神童の演奏を聞かせる計画を持っている。 演奏会は月末となるであろう。
[ドイッチュ&アイブル] p.40
ただし演奏会は延期された。 これに先立つ3月19日にレオポルトはザルツブルクのハーゲナウアーに
先月15日に催そうと思っていた私の音楽会は、21日にやっとおこなわれましたが、催し物(これは当地ではうんざりするほどあります)がたくさんあったため、私の希望ほどの入りではありませんでした。 でも130ギニーほど手に入りました。 それに要した費用が27ギニー以上に達したので、残っているのは100ギニーそこそこです。
[書簡全集 I] p.207
と書いていたので、同じような事情があったのだろう。 演奏会は5月13日にヒックフォードの大広間で催された。 さらに7月9日にも『パブリック・アドヴァタイザー』紙に次の広告が掲載された。
極めて驚異的な中でもどれが最大か、クラヴィーアの技巧か、準備なしに初見でする演奏や歌唱か、あらゆる楽器にわたる独自の着想、想像力、作曲か、いずれとも言い難い。 この神童の父は紳士淑女の御希望によりイギリスよりの出発をしばらく延期し、音楽的知識に関して非の打ち所のないこの少年作曲家及びその姉の演奏をお聞かせする機会を持つことになった。 毎日12時から3時まで、コーンヒル、スワン・アンド・ハープ亭の大ホールで演奏会が行われる。 入場料は一人2シリング6ペンス。
二人はクラヴィーアの四手による演奏もする。 その際、鍵盤が見えないようにその上に布をかぶせた演奏も行なわれる。
[ドイッチュ&アイブル] p.41
このとき使われた楽器はシューディが作った最新のハープシコードであったことはほぼ確かである。 もう一つ、不確かであるが、ニッセンが書き写したという「7月9日付けのレオポルトの手紙」の一節
ロンドンでヴォルフガンゲルは四手のための最初の曲を作りました。 それまでまだどこでも四手のソナタは書かれたことがありません。
[書簡全集 I] p.223
があることから、この曲はこのときに姉と共演するために書いたものと推測されている。 ただしこの一節は原本にはないものであり、ウイリアム・カウデリーは
姉ナンネルに由来する可能性のあるこの情報は実際のところ正しいのかもしれないが、この情報を1765年のレーオポルトに遡らせようと企てるのは見え透いたはなはだしい贋作である。
[全作品事典] p.373
と切り捨てている。 また、すでにアインシュタインはニッセンの引用文は「疑わしい」と言っていたことでもある。
なぜなら、それがロンドンでの書簡に由来することはあり得ないのであって、むしろもっとのちにハーグで書かれたとする方がましである。 また、レーオポルトは事実を知りながら、その反対の主張をすることはしない人だったからである。 その事実というのは、1765年以前にすでに四手のソナタは存在していたのであって、ヨーハン・クリスティアーン・バッハのものは確実に存在し、またG・P・ルティーニのものもおそらくは存在した、ということである。
[アインシュタイン] pp.368-369
不確かな情報とともに、この曲は「1789年頃にロンドンとパリで別々に出版された初版譜によって」のみ知られたものであり、その成立は何もわかっていない。 パリ初版(1787年)の方は近年サン・フォアによって発見されたもので、クンツェン・ライヒャルトの『音楽週報』1792年6月号の『パリ版最新楽譜』の欄に予告され、「フォルテピアノまたはクラヴサンのための」と記載されているという。 しかしその出版譜はモーツァルトとは無関係に出版されていることと、1765年から89年頃までの「四半世紀もの間眠っていた作品が突然2つの都市で出版されたのか、まだ説明がついていない」ことから、現在はこの曲の真作性そのものに疑義がもたれている。 真性な資料が残されていないことから偽作の可能性が高いとされ、新全集では「真作性に疑義のある作品」として収録されている。

もし1765年ロンドン滞在中の演奏会のためにモーツァルトが作曲したものとすると、その演奏で、二人の奏者の手が交差するところがあることから、姉弟による神業のような演奏を披露するには効果抜群だったかもしれない。
 
 1780年暮れから翌年にかけて、モーツァルト一家をザルツブルクの画家クローチェが描いた有名な絵。 このとき、レオポルト61才、ヴォルフガング24才、ナンネル29才。 2年前にパリで客死したアンナ・マリアは壁に肖像画として収まっている。 さらにこのとき、ウォルフガングもザルツブルクにいなかったので、クローチェは別の絵から写した。 この絵はザルツブルクのマカルト広場(当時は「ハンニバル広場」)に面したウォルフガングの生家の2階「タンツマイスターザール」の壁にかかっている。
アインシュタインも

ロンドにおいて、姉(第一奏者)の左手が少年(第二奏者)の右手を《越した》ときには、おそらくロンドンの人々は驚嘆したことであろう。 第二奏者の右手が第一走者の左手を越すという似たような姿勢の姉弟が、有名なザルツブルクの1780-81年の家族の肖像画に描かれている。
[アインシュタイン] p.369
と書いている。 これについては、二人の奏者が衝突するような作曲はまだ未熟だからという意見もあり、それに対しては「モーツァルトの書法が未熟なせいではなく、そもそも二段鍵盤のクラヴサンのための曲だから」という説もある。

1765年5月13日のロンドン、ブルワー・ストリートのヒックフォードの大広間で、神童姉弟がシューディの最新ハープシコードをものの見事に操り、聴衆を驚嘆させたことは事実である。 もしかしたら鍵盤の上に布をかぶせて演奏したのかもしれない。 とにかくそこでは幼い二人が奇蹟を行っていたのである。 謎だらけの曲であるが、そのとき、この4手のためのソナタを二人が得意気に、しかもお互いの手を交差させて演奏している様子を想像してみるのは心地よいことである。

第1楽章には決定的にコンチェルトらしい工夫がこらしてあり、メヌエットの次にはロンドが加えられている。 このロンドにはカデンツァの場所で短かいアダージョが挿入され、その主題は偉大な管楽セレナーデ(K.361)のロンドの主題と目立って似かよっている。 両演奏者の交替と協同のいっさいは、この上なく初歩的で子供らしい。
[アインシュタイン] p.369
余談であるが、一家は7月24日にロンドンを出発。 カンタベリーなどに寄って、8月1日ドーヴァー海峡を渡りカレーの地を再び踏んだ。 ザルツブルクに帰郷するのはさらに1年以上あとの1766年11月29日になる。

〔演奏〕
CD[Grammophon 429-809-2] t=11'39
エッシェンバッハ Christoph Eschenbach (p), フランツ Justus Franz (p)
1974年4月、ベルリン、イエス・キリスト教会
CD[POCG-3407-8] t=11'39
エッシェンバッハ Christoph Eschenbach (p), フランツ Justus Franz (p)
1974年4月、ベルリン、イエス・キリスト教会
CD[PHILIPS-422-516-2] t=12'16
ヘブラー Ingrid Haebler (p), ホフマン Ludwig Hoffmann (p)
1976年3月、アムステルダム
CD[PHILIPS PHCP-3594] t=12'12
スミス Erik Smith (hc), バートン Humphrey Burton (hc)
1976年、ロンドン
CD[ASV CD DCA 799] t=10'46
フランクル Peter Frankl (p), ヴァーシャーリ Tamas Vasary (p)
1992年

〔動画〕

 

 

Burkhart Tschudi

1702 - 73

ブルカルト・チューディ(またはバーカト・シューディ Burkat Shudi)はスイスから1718年にイギリスに移住し、建具職人として働いたのち、ハープシコード製作の上で多くの技術革新をなした。 1765年に新たに工夫したペダル付きの音栓を備えた最初のフリューゲル(二段鍵盤のハープシコード)がプロイセン国王フリードリヒ2世に献上された。 ザルツブルクの『ヨーロッパ新聞』はその年の8月6日に次の記事を掲載している。

ロンドン、1765年7月5日
当地の非常に有名なクラヴィーア製作者ブルカルト・シューディ氏はプロイセン王陛下に2つのマニアル付きのフリューゲルを献呈する栄誉を得たが、それは見た他人全ての驚異の的になった。 特に新しいと感じられたことは、チューディ氏が全てのペダルに連結させ、それを踏むことによってそれが順番にはずされ、それによって音の増減を思いのままにした、つまりクラヴィーア奏者が長いこと望んで来たクレッシェンドとデクレッシェンドを可能にしたということであった。 更にチューディ氏はこの極めてめずらしいフリューゲルをこの世で最も驚異的なクラヴィーア奏者に最初に演奏させることを思いついた。 それはつまりザルツブルクの楽長モーツァルトの驚嘆すべき息子、あの有名な7才か9才かの名人ヴォルフガング・モーツァルトであった。 この驚くべき能力を持った小ヴィルトゥオーゾの14才になる姉が、このフリューゲルを極めてむずかしいソナタを初見で演奏し、弟がもう一つのフリューゲルでそれに即座に伴奏するのを聞くと正に魅せられてしまう。 二人は奇跡を行っている。
[ドイッチュ&アイブル] p.42
フリードリヒ2世に献上された楽器は現在ブレースラウのシュレージエン博物館に所蔵されているという。

〔参考〕

◆ウィキペディア : http://en.wikipedia.org/wiki/Burkat_Shudi

彼が製作したハープシコード、家族の絵などを見ることができる。
◆二段鍵盤のクラヴサンで演奏の動画


https://www.youtube.com/watch?v=-8rUm6bUBYw


〔参考文献〕

 

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2014/06/22
Mozart con grazia