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ディヴェルティメント 第1番 変ホ長調 K.113

  1. Allegro 変ホ長調 4/4 ソナタ形式
  2. Andante 変ロ長調 3/4 2部リート形式
  3. Menuetto 変ホ長調 3/4 複合3部形式 (トリオはト短調)
  4. Allegro 変ホ長調 2/4 ソナタ形式
〔編成〕 (第1稿) 2 cl, 2 hr, 2 vn, va, bs (第2稿) 2 ob, 2 eng-hr, 2 fg, 2 vn, va, bs
〔作曲〕 (第1稿) 1771年11月 ミラノ (第2稿) 1773年3月以降 ザルツブルク?
1771年11月




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1771年8月13日、モーツァルト父子は2回目のイタリア旅行にでかけた。 帰郷するのは12月15日になるが、筆まめなレオポルトは例によってザルツブルクの妻にせっせと手紙を書き送る。 この曲は11月24日または23日にミラノから送られた手紙

私たちはまだ当地にいて、たぶんまだ一週間はここに留まっていることでしょう。
・・・・
今日は、ミスリヴェチェクさんが私たちをたずねてきましたが、彼は昨日到着し、第一オペラを書いています。 フォン・マイヤーさんとデ・キウゾーリさんもよろしくといっています。 私たちはしょっちゅういっしょに集まっていますが、昨日はフォン・マイヤーさんのお宅で長い間音楽をやりました。
[書簡全集 II] pp.317-318
のなかにある「マイヤー邸での音楽会」(11月22日か23日)で演奏されたものと推測されている。 初稿自筆譜には父の手で「8声のためのコンチェルト(協奏曲)またはディヴェルティメント」とタイトルされているという。 モーツァルトにとって、クラリネットが使われた最初の管弦楽作品であり、この頃、ザルツブルクではまだクラリネットが使われていなかったので、この作品はイタリア旅行中に書かれたものと考えられ、上の手紙に演奏会の記述があることから、成立の事情が推測されるのである。 ただしそれ以上はわからない。 なお余談であるが、モーツァルト父子が2回目のイタリア旅行からザルツブルクに帰郷した翌日、寛大であった大司教ジギスムント・フォン・シュラッテンバッハが死去。 これはモーツァルトにとって歴史の大きな節目であった。

マイヤー(Albert Michael Mayr)は、ウィーン皇室主計官ヨハン・アダム・マイヤー(Johann Adam Mayr, 1712-77)の息子で、ミラノのフェルディナント大公の王室主計官を務めていた。 なお、フェルディナント大公はマリア・テレジア女帝(ウィーン皇室)の息子であり、モデナのベアトリーチェ王女と10月に結婚し、その婚儀のために少年モーツァルトは祝祭オペラ『アルバのアスカニオ』(K.111)を書いた。 このときのイタリア旅行はそのオペラ上演がおもな目的だったが、レオポルトは抜け目なく息子の就職についても考えをめぐらしていた。 モーツァルト父子の活躍はマイヤーやフェルディナント大公などを介してウィーン皇室にまで届いていた(筒抜けになっていた)に違いない。
上の手紙でレオポルトは「まだミラノにいて、しばらく滞在する」ことを書いているが、それは自分の息子がフェルディナント大公の宮廷音楽家として採用されることに望みををかけていたからである。 大公はウィーンの母帝マリア・テレジアに相談したが、そうとは知らずレオポルトは大公側から良い知らせが得られることを今か今かと待っていた。 しかし理由なくいつまでも外国で遊んでいるわけにいかず、モーツァルト父子は12月5日にミラノをたって帰郷の途についた。 しばらくしてフェルディナント大公は母帝から次の手厳しい返事を受け取ったのだった。

あなたは無用な人間を養わないように、そして決してあなたのもとで働くようなこうした人たちに肩書など与えてはなりません。 乞食のように世のなかを渡り歩いているような人たちは、奉公人たちに悪影響をおよぼすことになります。 彼はその上大家族です。
同書 p.323

この曲は4楽章から成る(協奏曲のような)管楽器のためのディヴェルティメント群(K.213など)の先駆けとして位置づけられている。 単にクラリネットを使用した最初の作品というだけでなく、各パートの演奏者が一人の室内楽曲(ディヴェルティメント)としても、あるいは4楽章形式のイタリア風シンフォニア(オーケストラ合奏)としても通用する会心作であり、少年モーツァルトの確かな成長の一里塚である。

モーツァルトはこの曲をのちに(1773年3月以降)少し書き換えていて、それが「第2稿」である。 すなわち「クラリネット2、ホルン2」の管楽器パートが「オーボエ2、イングリッシュ・ホルン2、ファゴット2」となり、そこではクラリネット・パートが非常に丹念に他のパートに引き継がれているという。 その理由としては、クラリネットのないザルツブルクで演奏するためと考えられ、時期はイタリア旅行(3回目)から帰った1773年3月13日からウィーン旅行(3回目)に出かける同年7月14日までの間と推測されている。
ただし、上記の楽器編成にも示した「2 ob, 2 eng-hr, 2 fg, 2 vn, va, bs」は確定的なものではない。 「第2稿」は管楽器の編成を変えるものではなく、追加するものだという説も有力だからである。 すなわち「2 cl, 2 hr, 2 ob, 2 eng-hr, 2 fg, 2 vn, va, bs」という大編成であり、その目的はやはりミラノで演奏することであり、同じ時期に書かれ、同じ管楽器編成の変ロ長調ディヴェルティメント(K.186)があるからである。 モーツァルト父子がミラノに滞在した3回目のイタリア旅行の目的はオペラ『ルチオ・シラ』(K.135)の作曲と上演が目的だったが、このときも、前回と同じくアルベルト・マイヤーの世話になっている。 そのときこの第2稿による演奏があったかもしれない。

余談であるが、この3回目のイタリア旅行でもレオポルトは当地での息子の就職先を決めたいばかりに仮病まで使ってザルツブルク帰郷をぎりぎりまで引き伸ばしたのだった。 しかし再びその希望はかなわず、否応なしにザルツブルクに帰ることになる。 このようなモーツァルト父子の行動がザルツブルク大司教の耳に届かないはずがなく、不愉快な感情が生まれてくるのは当然であり、それがやがて暗い影となってモーツァルト父子を覆うことになる。 そのへんの事情については「変ロ長調ディヴェルティメント」(K.186)のページでもご覧いただきたい。

〔演奏〕
CD [DENON COCO-7882] t=12'53
ウィーン室内合奏団 Wiener Kammerensemble
1991年4〜5月、ウィーン、カジノ・ツェーガーニッツ
※初稿版
CD [COCO-78055] t=10'45
ヴェーグ指揮ザルツブルク・カメラータ
1988~90年

〔動画〕
[http://www.youtube.com/watch?v=3fE_SwDaIQA] I. t=3'05
[http://www.youtube.com/watch?v=JqS-J_7mloE] II. t=3'46
[http://www.youtube.com/watch?v=gqRwXJ4d3F8] III. t=1'59
[http://www.youtube.com/watch?v=2r4dA57tzJI] IV. t=2'15
Bernhard Klee (cond), Orchestra Sinfonica di Torino della RAI
dall'Auditorium di Torino della RAI
[http://www.youtube.com/watch?v=SGIoqo2_lVo] I. t=4'46
[http://www.youtube.com/watch?v=M-MHmh588FQ] II. t=4'03
Pacifica Chamber Orchestra
arranged by Fred Chu

〔参考文献〕

 

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2012/06/03
Mozart con grazia