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聖節の奉献歌「主の御憐みを」 ニ短調 K.222 (205a)

Offertorium de tempore in D minor "Misericordias domini"
〔編成〕 SATB, 2 vn, [va], bs, og
〔作曲〕 1775年1月か2月 ミュンヘン
1775年1月






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前年の1774年9月、ミュンヘンの選帝侯マクシミリアン・ヨーゼフ3世から、謝肉祭用のイタリア語によるオペラ・ブッファ『偽の女庭師』(K.196)の作曲を依頼され、モーツァルトは12月6日その上演のために父とミュンヘンへ行った。 初演は1775年1月13日にザルヴァートル劇場で催された。 モーツァルトは3月7日に帰郷。

1775年3月1日(レオポルトからザルツブルクの妻へ)
ありがたいことに、謝肉祭は終りました。 おまえの頭痛と胃病がよくなることを願っています。 前の郵便配達日には、おまえの手紙を二通同時に受け取りました。 6日の月曜日に私たちが出発するのが決まったので、7日の火曜日の晩、いくぶんおそくなってからザルツブルクに着くことになるでしょう。
[書簡全集 II] p.473
ミュンヘンをたつ直前の3月5日、モーツァルトは作曲したばかりのこの奉献歌「主の御憐みを」を演奏したが、この曲を作ることになった動機はボローニャのマルティーニ神父に宛てた次の手紙で知られている。
1776年9月4日
昨年、謝肉祭の折に、私はバイエルンのミュンヘンにおいて、『偽の女庭師』なるオペラ・ブッファを書きました。 同地を出立いたします数日前、選帝侯殿下は対位法に基づく私の曲をなにかお聴きになりたいと望まれました。 そのため私は、殿下のために総譜を写譜し、次の主日の大ミサの折に、オッフェルトリウムのあいだに演奏できますようにパート譜を取りそろえる余裕を得るべく、大急ぎでこのモテットを書き上げざるを得ませんでした。 この上なく敬愛申し上げる巨匠たる神父様! 尊師がこの曲をいかがお考え召されるかを率直に忌憚なく私におっしゃって下さいますよう、切にお願い申し上げます。
[書簡全集 III] pp.23-24
マルティーニ神父は14才の少年モーツァルトにボローニァのアカデミア・フィラルモニカの採用試験に向けて懇切丁寧な指導をしてくれた恩師であったが、その後モーツァルトは「このボローニャでの経験をたちまち忘れて」しまっていた。
イタリア旅行から帰ったのちに、ザルツブルクで彼は自分の《ガラントな》教会音楽様式を、あまたの対位法の模範の研究によって深めようと試みる。 この証拠は保存されている。 それは150頁以上の楽譜帳であって、そのなかにモーツァルトは、厳格な様式を持つザルツブルクの楽匠たちの作品、すべてJ・E・エーバーリーンあるいはミヒャエル・ハイドンの手になるミサ曲、ミサ曲の一部、モテット、奉献誦、昇階誦を書き込んでいる。
[アインシュタイン] p.210
このような研究を地道にしていたモーツァルトは、田舎町ザルツブルクから飛び出したい気持ちで一杯だったこともあり、選帝侯の求めに応じて、「待ってました」とばかりに自分を売り込むこの機会を生かすべく、持てるものを惜しみなく注ぎ込んで書き上げた自信作がこの曲であった。 これはザルツブルクの宮廷作曲家エーバーリンのモテット「主よ、汝は祝福し給えり Benedixisti Domine」を借用し、そのフーガ主題を対位法的な壮麗な作品に発展させたものであるが、エーバーリンのその曲はモーツァルトは既に1773年に写譜していたものであった。 こうして完成された奉献歌「主の御憐みを」(アレグロ、158小節)は Misericordias Domini(神の慈悲を)Cantabo in aeternum(永遠にほめ歌おう)という詩文だけが11回展開反復され、2つの主題が見事に交錯し展開している。 多声音楽についての彼の力量を自信をもって示したものになった。 音楽学者コーノルトは次のように絶賛している。
モーツァルトはポリフォニーにおいても熟練した腕前を示そうと考え、キリストの自己犠牲についての歌詞を応唱の様式で処理する際に、独唱と合唱に分割するという慣習的な方法ではなく、合唱によるホモフォニー(ミゼリコルディアス・ドミニ)とポリフォニー(カンターボ・イン・エテルナム)を交替させる方法を用いた。 この交替は11回行なわれる。 この作品は、音楽の繰り返しを避け、歌詞の感情的内容に注意を向けている点で、対位法楽曲の傑作となっている。
[全作品事典] p.44
この自信作の評価を16世紀の多声音楽の理論家であるマルティーニ神父にあおいだのが上記1776年9月4日の手紙であるが、実はそれは父レオポルトが書いたものであった。 アインシュタインが言う通り、モーツァルトはボローニャでの経験を忘れてしまっていたからであろうか。 ただしその手紙とは、レオポルトはザルツブルクの音楽状況に対する不満、すなわち「ザルツブルクでは音楽は恵まれない状況にあること」また「大司教がじきじきに行う荘厳ミサですら、長くても45分以上にはできないこと」を伝えることが真の目的であったのかもしれないという。 マルティーニ神父は次のように返答している。
1776年12月18日
あなたの優しいかぎりのお手紙と一緒に、トレント経由で、モテットを受け取りました。 初めから終わりまで楽しく調べさせてもらいましたが、まったく正直のところ、この曲には、現代音楽が要求するところのものすべて、良い和声、熟達した転調、ヴァイオリンの節度ある動き、諸声部の自然な変化、それに無理のない見事な声部処理が見られるので、たいへん喜んでいます。 ボローニャでチェンバロを楽しく聴かせてもらってからというもの、作曲でも大いに進歩されたことを喜んでいます。
[書簡全集 III] p.28
モーツァルト自身は厳格な教会様式に基づく作品と考えていたのに、このマルティーニ神父の「現代(今日的な)音楽」という批評は「はなはだ意味深い」とアインシュタインは言っている。
《現代音楽》(La musica moderna)とは! モーツァルトが教会音楽を純正な、古い厳格な様式で作ったと信じているのに、16世紀の多声音楽の傑作によって訓練されたマルティーニ神父の微妙な耳には、現代音楽と聴こえるのである。 たしかにモーツァルトはマルティーニの判断を十分には理解しなかったであろう、少なくとも非常に遠慮がちなものと感じたことであろう。
[アインシュタイン] p.211
1776年9月4日の手紙(全文イタリア語)は署名だけはモーツァルト本人のものであるという。 それは父レオポルトが命じたものであろう。 しかし、ここでもレオポルトのお陰でこの曲の成立についての確かなデータが後世に残ることになったことは喜ばしい。

余談であるが、そもそも、お人好しのモーツァルト自身は(この曲に限らず)自分の作品を簡単に人の手に渡す癖があり、そのことでレオポルトの心配は絶えなかった。 後に誰かがこの曲に管(2 ob, 2 hr)を追加しているが、モーツァルトは1777年にアウクスブルクの修道院で初対面の院長(その男をモーツァルトは「世界一のお人好し」と言っている)に数曲のミサ曲(K.192, K.220)と一緒にこの曲の楽譜を貸していることもあり、作曲者の知らないところで売買されたこともよくあったからであろう。 「世界一のお人好しの男」がそう簡単に修道院の院長になれるであろうか。 また、その修道院の修士たちともすぐ「まるで20年以来の知り合いのように」仲良くなったが、それはベースレ(マリア・アンナ・テークラ)が前もってどんな人物かモーツァルトに話してくれていたからだという。 この有名なモーツァルトの従姉妹はどんな女性だったのだろう。 手に負えない不良少女ではなかったと思うが、のちに1784年に(彼女が26歳のとき)ある高位の聖職者を父とする私生児の母となり、83歳の長寿をまっとうした彼女の人生は興味深い。 ともあれそのとき、その修道院ではミサ曲以外にリタニアもモーツァルトから手に入れようとした。 モーツァルトが「持っていない」と答えると、「いや、あるはずだ。隠しているのだ」と探したという。 それに対してモーツァルトは「ここには持ってきていないが、ザルツブルクの父が持っているから手紙で送ってもらうように頼んでください」と答えに窮している。 ベースレは彼らの手引きの役割を果したのだろうか。 このときの件で、彼女は見返りに何かをもらったとしても不思議ではない。 そのとき彼女は「総監督」の役を演じていたとモーツァルトは(彼一流の冗談かもしれないが)父に伝えている。 さらに、この曲については「僕が真っ先に返して欲しいと望んだので、無事に戻りました」とも報告している。 従姉妹のベースレが仕切っていた現場で、父の束縛から自由になった青年モーツァルトの脱線した(良俗に反するような)姿を想像することもできる。 あるいはそれは当時19才のベースレちゃんに翻弄されているお人好しの若者だったのかもしれない。

モーツァルトは事前にザルツブルクの楽匠たちの作品を入念に研究していたお陰で、この曲は選帝侯の宿題に答えた習作などという域を遥かに越えて、さらに16世紀の多声音楽の理論家マルティーニ神父の耳も越えて、「レクイエム(ニ短調 K.626)」に通じる深みのある作品に仕上げてしまった。

この曲はよくいわれるような、対位法の「練習」などというものではない。 表情に満ちた冒頭の和音はすぐにフーガに続くが、それは歌詞が神の永遠性を表しているものだからである。 この曲の特徴は荘厳極まりないポリフォニーであり、また他に類を見ないほどの豊かな表情をもった非常に斬新なハーモニーでもある。 もしこの曲がモーツァルトのどの曲に近いかと聞かれたら、もっとずっと後のたとえばK427のハ短調の大ミサや、未完のレクイエムを挙げなければならないだろう。
[ド・ニ] p.87

1790年2月、皇帝ヨーゼフ2世が死去。 後継者としてフィレンツェからレオポルト2世がウィーンに到着。 ただし実際に帝位に就くのは9月になってからである。 ところがレオポルト2世は1792年3月没。 その後を継いだのはフランツ2世であり、この2年間に三度の戴冠式式典が行われた。 その際、サリエリがこの奉献歌を演奏指揮したことが知られている。

即ち、フランクフルト、1790年(レーオポルト二世)、プラハ、1791年(レーオポルト二世)、フランクフルト、1792年(フランツ二世)であるが、この3つのミサ曲とは別に、サリエーリは、ラテン語のモテットに編曲されたモーツァルトの以前の作品の『エジプトの王ターモス』(K345)から、最も素晴らしい合唱曲の一つと、厳粛で格調高いニ短調の奉献文『主の御憐れみを』(K222)も指揮したが、この曲については帝室礼拝堂にある筆写譜には、「作者W・アマデー・モーツァルト、ウィーン宮廷音楽家/フランクフルト、1792年演奏」と記されている。
[ランドン] p.152
ここで「この3つのミサ曲」とは、「ピッコロミーニ・ミサ K.258」、「戴冠式ミサ K.317」、「宮廷ミサ K.337」である。

また、この奉献歌のヴァイオリンの旋律に、のちのベートーベンのいわゆる「第9」の合唱の有名な「歓喜の歌」と似た所があることも知られている。

〔歌詞〕
  Misericordias Domini
cantabo in aeternum.
主の御あわれみを
歌いたたえん、永遠に。

〔演奏〕
CD [PHILIPS 422 753-2] t=7'29
ケーゲル指揮ライプツィヒ放送合唱団
1974年11月、ライプツィヒ
CD [UCCP-4081] t=7'29
※上と同じ
CD [COCO-78065] t=6'13
リンズリー Lindsley (S), シュレッケンバッハ Schreckenbach (A), ホルヴェーク Hollweg (T), グレーンロース Groenroos (Bs), クリード指揮 Marcus Creed (cond), ベルリン放送交響楽団 Berlin Radio Symphony Orchestra, リアス室内合唱団 Rias Chamber Chorus
1988年、ベルリン
CD [AUDIOPHILE CLASSICS APC-101.048] t=6'33
Klava指揮リガ放送SO
1993年

〔動画〕

〔参考文献〕

 

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2018/05/27
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