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ピアノと管弦楽のためのロンド イ長調 K.386

  • Allegretto イ長調 2/4 ロンド形式
〔編成〕 p, 2 ob, 2 hr, 2 vn, va, vc, bs
〔作曲〕 1782年10月19日 ウィーン

1782年10月

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独奏ピアノと管弦楽のためのロンドであるが、演奏会用の独立した曲ではなく、ピアノ協奏曲の一つの楽章であり、「コンチェルト・ロンド」と呼ばれている。 モーツァルトは3楽章から成る協奏曲のフィナーレにロンドをおいているので、未完あるいは紛失したピアノ協奏曲の断片として残ったか、または既にある協奏曲のロンド楽章の代替えと考えられているのである。 アインシュタインは「ピアノ協奏曲イ長調第12番」(K.414)終楽章の代替えとして作られたものとした。

モーツァルトはこのロンドを、完成するのもたやすいほど十分なスケッチ草稿の形で放棄したのである。 放棄した理由は、おそらくこれが第1楽章の二、三の旋律の書法を繰り返しているだけであろう。 このロンドは非常に優美で、これの代りに決定稿となったロンドと少なくとも同等の価値を持つもの、いやむしろそれを越えるものと思われる。
[アインシュタイン] p.406
ザスロー[全作品事典]もこの説を支持している。 このような種類の「コンチェルト・ロンド」には、この曲と「ニ長調」(K.382)の2曲がある。 ただし、この曲について異論もあり、放棄したのではなく、別の独立したロンド作品に仕立てるつもりだったという説もある。 新全集はピアノ協奏曲の巻に含め、ロンド楽章としている。 曲のタイトルについては、[事典]は「クラヴィーア協奏曲楽章(ロンド)」とし、また[全作品事典]は単に「ロンド」としている。 このページでは上記のように記しているが、その理由について特別な意味(根拠)があるわけでなく、楽器編成を考慮しただけのことである。

自筆譜の表紙に上記日付があるが、作曲の確かな目的は不明のままである。 時期としては、モーツァルトが父の反対を押しきってコンスタンツェと結婚し(8月4日)、ウィーンで独立し、自分を売り込むための作品を量産し始めていた頃である。 そのようなときに作られたこの曲には、次のような数奇な運命が知られている。

モーツァルトの死後、コンスタンツェニッセンと共同で「モーツァルト作品全集」を出版しようとして、ブライトコップ・ウント・ヘルテル社と交渉したがうまくゆかなかった。 出版社側はモーツァルトの姉ナンネルと協力して「伝記」の編集を進めようとしていたところであり、コンスタンツェに対しては「自分の利益のことしか考えず、夫の死後の名誉も考えない真に恩知らずの悪者である」という共通の認識にたっていたのである。

彼女はブライトコップ・ウント・ヘルテル社から拒絶をうけた後、他の音楽出版社、フランクフルト・アム・マイン近くのオッフェンバッハの音楽出版者、ヨハン・アントン・アンドレ二世との間で新たな交渉を始めてしまった。 この方の交渉は順調に進み、1799年11月8日には、コンスタンツェとアンドレ二世はニッセンを立ち会い人として契約にサインしている。 その結果、アンドレ二世は総計260曲のモーツァルトの作品と、詳細な作品目録を入れた15の小包を受け取っている。 値段は3150グルデンで、1800年の2月に半額を、その6週間後に残りの半額を支払う契約だった。
[ショークヴィスト] p.95
このときコンスタンツェはブライトコップ・ウント・ヘルテル社にも同じ値段で売却する話をもちかけている。 そのあたりのなりゆきについては、ショークヴィストの著書に詳しいが、結果として、オッフェンバッハの音楽出版者アンドレ(Johann Anton André)が買い取った。 その膨大な数の作品の中にこの曲も含まれていたが、そのとき最終ページが欠けていた。 そのためアンドレは出版せず、売却し、イギリスの作曲家ウィリアム・スターンデール・ベネット(William Sterndale Bennett, 1816-1875)の所有となった。 その後、彼の師匠であるシプリアーニ・ポッター(Philipp Cipriani Potter, 1792-1871)が最後の部分を補筆し、ピアノ独奏用に編曲し、ロンドンで1838年に出版した。 こうして、このロンドはピアノ独奏曲として知られることになったが、不運なことに、この曲の自筆譜がばらばらにされ、散逸してしまったのである。 行方不明になった自筆譜の全体が回復される過程について、ザスローは以下のように解説している。
アメリカの音楽学者アルフレート・アインシュタインが K.386 について調べようとしたとき、彼が所在を突き止めることができた自筆譜は136〜171小節を含むわずか2枚しかなかった。 これをモデルとして、アインシュタインはポッターの編曲を自由に管弦楽化した編曲版を1936年に出版した。
[全作品事典] p.168
この最初の試みから20年後、次の大きな段階に進む出来事が起こった。 ザスローは続ける。
1956年までにイギリスの音楽学者アレック・ハイアット・キングはさらにイギリスで6枚の自筆譜を発見した。 これに加えてさらに1枚と断片が見つかり(1〜78、118〜132、136〜171小節の部分)、オーストリアのピアニスト、パウル・バドゥーラ=スコダと指揮者サー・チャールズ・マッケラスが1963年に新しい楽譜を出版した。
こうして復元された形が現在では演奏されているのであるが、さらにその20年後、1980年に劇的な発見があった。 イギリスの音楽学者アラン・タイソンが大英図書館所蔵のジュスマイヤー手稿譜の中から、欠けていた最終ページを偶然発見したのである。 こうしてすべてが揃った自筆譜を見ると、この曲がロンドだけで完結していること、またチェロには独立したパートが与えられていることからタイソンは、モーツァルトは上記のように「ピアノ協奏曲イ長調第12番」(K.414)終楽章としての構想を持っていたものの最終的には独立した曲に仕立てようとしていたのではないかと推測している。 なお、自筆譜の第155~171小節の部分は日本モーツァルト研究所が所蔵している。

〔演奏〕
CD [PHILIPS PHCP-10171〜77] t=7'56
ハスキル (p), パウムガルトナー指揮ウィーン・フィル
1954年
CD [PHILIPS PHCP-9598] t=7'56
ハスキル (p), パウムガルトナー指揮ウィーン・フィル
※上と同じ
CD [ポリドール F32L-20321] t=8'07
アシュケナージ (p), ケルテス指揮ロンドン交響楽団
1966年、ロンドン
※下と同じ。
CD [LONDON POCL-9430] t=8'07
アシュケナージ (p), ケルテス指揮ロンドン交響楽団
1966年、ロンドン
※上と同じ。バドゥラ・スコダとチャールズ・マッケラスによる復元版。
CD [TELDEC WPCS-10098] t=7'52
カール・エンゲル (p), ハーガー指揮ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団
1978年頃、ザルツブルク・モーツァルテウム
CD [エラート R25E-1009] t=8'32
ピリス (p), グシュルバウア指揮リスボン・グルベンキアン室内管弦楽団
1973年
※カデンツァはジョージ・セル、曲の復元はバドゥラ・スコダとチャールズ・マッケラスによる。
CD [AVCL-25662] t=8'05
イエネ・ヤンドー (p), アンタル指揮コンツェントゥス・ハンガリクス
1990年10月、ブダペスト

〔動画〕

〔参考文献〕


 

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2017/03/05
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