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ピアノ三重奏曲 第5番 ホ長調 K.542

  1. Allegro ホ長調 3/4 ソナタ形式
  2. Andante grazioso イ長調 2/4 ロンド形式
  3. Allegro ホ長調 2/2 ロンド形式
〔編成〕 p, vn, vc
〔作曲〕 1788年6月22日 ウィーン
1788年6月






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よく知られているように、晩年の(と言ってもまだ30歳前半であるが)モーツァルトは生活に困窮するようになり、フリーメーソンの同志プフベルクに借金を重ねている。 残された手紙では、それは1788年から始まり、死の年まで続く。 1788年6月17日には

尊敬すべき同志にして、最愛、最上の友よ!
あなたが私の真の友人であることを、そしてあなたが私の正直な男だとお考えになっていることを確信していますので、私は元気が出て、自分の心を打ち明け、次のようなお願いを申し上げる次第です。 私の生まれつきの率直さに従って、あれこれと体裁を飾らず、本題そのものに入ります。
もし、私に対して愛と友情をおもちになり、千ないし二千グルデンを一年か二年の期限で、適当な利子をとってご用立て下さるならば、それこそ私が仕事をして行くのに大助かりとなります!
せめて明日までに数百グルデンだけでも、お貸し下さるようお願いいたします。
[手紙(下)] pp.136-138
と、借金の申し出をしたことに対し、プフベルクはその日のうちに200フローリン送金した。 その援助に感謝して、この曲が作られたのだろう。 上の手紙の追伸には「新しい三重奏曲を書きました」とあるが、実際に「自作目録」に記録されたのは「6月22日」である。
2000グルデンという額はこの頃のモーツァルトの年収に匹敵する大金だった。
1786年と1787年にはモーツァルトの収入はいちじるしく落ち込み始める。
(中略)
しかし、88年に始める2年間の収入はさらに急落してしまう。 88年はウィーンに定住するようになってから最低の収入で、2000グルデンに及ばず、全盛期の66パーセント減となるが、89年にはそれにも及ばず、およそ1500から2000の間となる。 作曲の注文、演奏の機会、出版など、いずれもが予想外に急減したために、彼の収入が目の回りそうな渦巻を描いて降下していったのだが、こうなると単なる節約では窮状の解決にはならなくなる。
[ソロモン] pp.653-654
したがって、このときのプフベルクの援助(200グルデン)がモーツァルトの必要額にはとても間に合うものでなかったのだろう。 6月27日にはさらに
目下私は、どうしてもお金を調達しなければならない事情にあります。 しかし、ああ、だれに頼ったらいいのでしょう? 最上の友よ、あなたのほかには一人もありません! せめて、ご友情をもって別途にお金をお世話下されば、ありがたいのですが!
ここに住んでいる十日のうちに、他の家にいる二ケ月よりも多く仕事をしました。
[手紙(下)] pp.139-140
と書き送っている。 短期間でなぜ急に多額の金が必要になったのか不明であるが、この時期に特に考えられるのは、引越しに伴う費用のせいか、それとも長女テレジア(1787年12月27日生)の治療費のせいか? テレジアは6月29日に病死する。 その10日間の仕事を「自作目録」で確かめてみると、この曲を筆頭に が作曲されていることがわかる。 これらすべてがプフベルクのために書いたものではないが、手紙の中に書いている「多く仕事をしました」というのは誇張ではないことを窺い知ることができる。

モーツァルトはピアノ三重奏曲をこのあと2曲(7月14日の第6番ハ長調 K.548と、10月27日の第7番ト長調 K.564)作曲するが、アインシュタインは「最後の2曲は、残念ながらもはやこのような高みを維持していない」といい、「おそらくこれ(ホ長調 K.542)をこの分野における自分の創造の頂点とみなしていた」と評価している。 その根拠は、モーツァルトがこの曲を8月に姉ナンネルに送り、「ミハエル・ハイドンに弾いて聞かせるように。彼の気に入らないはずがない。」と書いているほどの自信作だからとしている。 アインシュタインはまた、作曲者自身が傑作だと考えていたと推測できるもう一つの根拠として「1789年4月14日、これをドレスデンの宮廷で演奏したことが何よりの証左である」とも言っている。 ドイッチュとアイブルによると、

『ドレースデン侍従局通信』より、1789年4月14日
夜、選帝侯妃殿下の部屋で演奏会があった。 ヴィーンの楽長モッツァルト氏がクラヴィーア、プリンツがフルート、9才の少年クラフトがチェロを演奏し大喝采を博した。
[ドイッチュ&アイブル] p.226
という記録が残っているので、そのときヴァイオリンのパートをフルートで演奏したようである。 ただし、そこで演奏されたのがこのピアノ三重奏曲であるという確証はない。 モーツァルトはこの分野の作品を親しい仲間との合奏の楽しみを目的に作曲していたので、ドレスデンの宮廷での演奏(この曲が使われたかどうかは別にしても)では、フルートのプリンツ14才、チェロのクラフト9才、そして32才のモーツァルトの3人がどんな楽しい合奏をして大喝采を受けたのかが興味深い。

第1楽章のホ長調は珍しい。 3曲のピアノ三重奏曲「変ロ長調 K.502、ホ長調 K.542、ハ長調 K.548」が「作品15」として年末にアルタリアから出版された。

〔演奏〕
CD [EMI CHS 7697962] t=17'58
クラウス Lili Kraus (p), ボスコフスキ Willi Boskovsky (vn), ヒューブナー Nikolaus Hubner (vc)
1954年、ウィーン楽友協会ホール
CD [東芝EMI TOCE-6815] t=19'47
ケントナー Louis Kentner (p), メニューイン Yehudi Menuhin (vn), カサド Gaspar Cassado (vc)
1960年
CD [NSC174] t=23'40
ニコルソン Linda Nicholson (fp), ハジェット Monica Huggett (vn), メイソン Timothy Mason (vc)
1984年6月
CD [TKCC-15110] t=18'40
ズスケ (vn), オルベルツ (p), プフェンダー (vc)
1988-89年
CD [TELDEC 4509-99205-2] t=19'39
シフ Andras Schiff (fp), 塩川悠子 Yuuko Shiokawa (vn), ペレニ Miklos Perenyi (vc)
1996年
CD [EMI TOCE-55837/38] t=19'01
バレンボイム Daniel Barenboim (p), ズナイダー Nikolaj Znaider (vn), ズロトニコフ Kyril Zlotnikov (vc)
2005年9月

〔動画〕

〔参考文献〕


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2014/04/30
Mozart con grazia