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フルート四重奏曲 第2番 ト長調 K.285a

  1. Andante ト長調 3/4
  2. Tempo di Menuetto ト長調 3/8
〔編成〕 fl, vn, va, vc
〔作曲〕 1778年1月か2月 マンハイム

1777年9月23日、モーツァルトは母と二人で就職活動のためパリを目指して旅立った。 途中マンハイムに滞在していたとき、音楽愛好家でフルートが上手だったドゥ・ジャン(Ferdinand Nikolaus Dionisius Dejean, 1731-97)と知り合い、彼の依頼で3つのフルート四重奏曲(K.285, K.285a, K.285b)を書いたと思われ、その一つがこの曲とされている。

1777年12月10日
翌日ぼくは、いつものように、ヴェンドリングさんのところへ食事に行きました。 するとヴェンドリングさんがぼくに言いました。 「例のインド人(これは自分の財産で暮らしているオランダ人で、すべての学問を愛好し、ぼくの大の友人であり、崇拝者である人ですが)、この人はとても貴重な人物です。 あなたがこの人のために、フルートのための小さな、やさしい、短い協奏曲を3曲と、四重奏を2、3曲作曲して下さったら、200フローリン差し上げると言います。」
[手紙(上)] p.102
父との手紙のやりとりから、作曲は1777年12月25日から78年2月14日までの間と思われる。 と言うのは、1778年2月14日のモーツァルトの手紙に「彼のために2つの協奏曲と3つの四重奏曲しか作曲しなかったので、ただ96フローリンをくれただけです」と書いてあるからである。 ただしモーツァルトにとってフルートという「我慢できない楽器」のための作曲には気が乗らなかったらしく、3楽章の完成された曲はニ長調 K.285だけとなり、作曲依頼者との間で金銭的な対立があった話は有名である。
全く気乗りがせず、高度の飛翔をしなければならぬとは感じていなかった。 それゆえ彼は十分な謝礼ということをめぐって、注文者と二、三のいざこざを起こしているが、それは理解しがたいことではない。 なぜなら、最初のニ長調の曲だけが完全な価値を持っているのである。 それは長さの上からも完全である。 すなわち他の二曲が二楽章で満足しているのに、それは三楽章を持っている。 またもちろん、それは様式と内容の点からも完全な価値を持っている。
<中略>
他の二つの四重奏曲、ト長調(K.285a)とハ長調(K.285b)は単に二楽章であるという点だけで多少ヨーハン・クリスティアーン・バッハに戻っているのではない。 それらは様式が練れていて、《情愛がこもって》はいるが、それ以上のものではない。 そして二番目の曲の《フィナーレ》は、管楽セレナーデ(K.361)の《主題と変奏曲》の原型らしいものを含んでいるということによって目立っているにすぎない。
[アインシュタイン] pp.249-250
モーツァルトはフルートのための四重奏曲を3つ書いたと言うが、ただ一つ「ニ長調 K.285」だけが確認でき、残りの2曲は紛失したと考えられ、この曲が真作かどうかはわかっていない。 1792年にアルターリア社からこの曲の初版が出たとき、「ニ長調 K.285」の第1楽章(しかもそれを稚拙に改作したものという)に続けて3楽章の曲とされていたので、この曲の2つの楽章についても疑念が持たれているのである。 ケッヘルは出所のわからないこの曲を目録(1862年)に入れなかったので、最初のケッヘル番号が付けられていない。 しかしその後、手紙に残るほかの2つのフルート四重奏曲(紛失)について、サン・フォアの説(1936年)を支持したアインシュタインによりこの曲が K.285a という番号(第3版)が与えられて今日に至っている。 新全集もいちおう室内楽の管楽器を伴う四重奏曲に含めているが、真偽・位置づけについては否定も肯定もできないとしている。

〔演奏〕
CD [CBS SONY 30DC 778] t=8'01
ランパル Jean-Pierre Rampal (fl), スターン Isaac Stern (vn), シュナイダー Alexander Schneider (va), ローズ Leonard Rose (vc)
1969年12月、ニューヨーク
CD [DENON 33CO-1019] t=11'25
ニコレ Aurele Nicolet (fl), カントロフ Jean-Jacques Kantorow (vn), メンデルスゾーン Vladimir Mendelssohn (va), 藤原真理 (vc)
1983年3月、武蔵野音大ベートーヴェン・ホール
CD [CBS SONY DC 5562] t=11'12
ランパル Jean-Pierre Rampal (fl), スターン Isaac Stern (vn), アッカルド Salvatore Accardo (va), ロストロポーヴィチ Mstislav Rostropovich (vc)
1986年、パリ、クレ・デュト・スタジオ

〔動画〕
[http://www.youtube.com/watch?v=7CfpCE7YTek] t=7'30
live recording of hortus hermeticus consort
Churc of slaves, Cento-Italy
september 2006
[http://www.youtube.com/watch?v=YAqWqQuNunM] t=7'05
Jane Rutter, Quatuor Paris Classik, Bertrand Cervera (leader)
Live at La Sainte Chapelle Paris 2010

〔参考文献〕

 

〔追悼〕
このページで、2007年4月27日に他界したロストロポービッチ氏を追悼します。
彼は1927年3月27日にアゼルバイジャンのバクーで生まれ、モスクワ音楽院でチェロと作曲を学びました。 師は作曲家ショスタコービッチ。 1967年から指揮者としても活躍。 1969年に作家ソルジェニーツィン氏を擁護したことで、1974年に国外追放されました。 1977年にアメリカ・ワシントンのナショナル交響楽団の音楽監督に就任。 1978年にはソ連政府から市民権を剥奪されましたが、1990年ゴルバチョフ政権のとき名誉回復し、帰国公演を果たしました。
2006年12月にモスクワ市内の病院で肝臓ガンの手術を受け、入退院を繰り返していましたが、惜しくも亡くなりました。 ちょうど80歳でした。
右は1989年に録音された CD[CBS SONY CSCR-8216] で、スターン(ヴァイオリン、69歳)、ロストロポービッチ(チェロ、62歳)、ランパル(フルート、67歳)の3人です。 素晴らしい演奏をありがとう。
ちなみに、スターン氏は2001年9月22日(81歳)に、ランパル氏は2000年5月20日(78歳)にそれぞれ亡くなっています。
2007年4月29日

 

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