Mozart con grazia > アリア >
17
age
61
5
62
6
63
7
64
8
65
9
66
10
67
11
68
12
69
13
70
14
71
15
72
16
73
17
74
18
75
19
76
20
77
21
78
22
79
23
80
24
81
25

82
26
83
27
84
28
85
29
86
30
87
31
88
32
89
33
90
34
91
35
92

レチタティーヴォ「この胸に、ああ、いとしい人よ来て」

アリア「天が私にあなたを返して下さるとき」 K.374

Recitative "A questo seno deh vieni" and aria (rondo) "Or che il cielo a me ti rende" for soprano
〔編成〕 S, 2 ob, 2 hr, 2 vn, va, bs
〔作曲〕 1781年4月 ウィーン
1781年4月






1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30





カストラートのチェッカレリ(29才)のために作曲された。 のちにウィーンに定住し、さかんに演奏会を開いていたモーツァルトはレパートリーを増やすために、ザルツブルクの父への手紙(1783年4月12日)でこの曲について次のように書いている。

今度なにか送るつてががありましたら、(ザルツブルクでイタリア一座のカストラートのためにぼくが作曲した)アルトのためのロンドーと、チェッカレッリのためにヴィーンで書いたロンドーも一緒に送ってください。
[書簡全集 V] p.359
ここで「アルトのためのロンドー」というは『私はおまえを残していく』(K.255)であり、また「チェッカレッリのロンドー」とはこの曲であり、2年前の1781年4月に作曲されたものである。

チェッカレリ(Francesco Ceccarelli, 1752-1814)はイタリア中部の町フォリーニョに生まれ、ドイツ語圏で活躍したカストラート歌手。 ナンネルの言葉(1777年10月27日)によれば「いささか鼻にかかった声をしていて、馬面で頬の狭いノッポ」という風貌で、彼女の気に入るタイプではなかった。 しかし大司教には「ドゥーシェク夫人よりずっとよく歌う」と評価され、1778年から10年間ザルツブルク宮廷楽団に雇われ、しかも大司教から贔屓にされていた。 レオポルトも「彼は音がちゃんととれ、しかもかなり見事な歌い方をする」と好意的であっただけでなく、「生涯彼ほど誠実で立派なイタリア人と知り合ったことはない」とまで言っている。 彼はモーツァルト家と(飼い犬とも)親しく付き合っていた。
1781年1月、ザルツブルク大司教は父親にあたる帝国副宰相コロレド侯爵(75才)の病気見舞いのためにウィーンへ旅立ったが、宮廷楽団員を同行させ、その中にチェッカレリが含まれていた。 そのときモーツァルトは『イドメネオ』(K.366)上演のためミュンヘン滞在中であったが、大司教の命令を受けてウィーンに急行した。 重傷と言われていたコロレド侯爵は回復し、1788年まで生きながらえることになる。 4月8日ウィーンでザルツブルク宮廷音楽家による演奏会があり、モーツァルトは友人チェッカレリのために作曲したのがこの曲である。
そのときチェッカレリはアンコールでも歌わなければならなかったほどの喝采を受けたという。 その大司教主催の演奏会は大成功だったが、しかしモーツァルトは大いに不満であり、彼がザルツブルクとの縁を切る決心を固める大きなきっかけにもなったのである。 このときの演奏会ではモーツァルトは無報酬だっただけでなく、同じ日に催された絶好のチャンスをフイにせざるを得なかった悔しさと怒りを父に伝えている。

4月11日
ぼくはブルネッティのための新しいロンドーを、ぼくのために新しいソナタを、そしてチェッカレッリのためにも新しいロンドーを作曲したのに、ぼくは何も受け取っていません。 しかし、ぼくを半ば絶望させたのは、ぼくらがこの「くそったれ音楽会」をやった同じ晩に、ぼくはトゥーン伯爵夫人の邸に招待されていたのですが、そんなわけでむろん行けませんでした。 ところがそこに誰が来ていたと思います? 「皇帝」ですよ。
アーダムベルガーとヴァイグル夫人が来ていて、それぞれ50ドゥカーテンもらったのです! しかもなんというチャンスだったでしょう!
[書簡全集 V] p.34
この前に大司教が催した演奏会(3月16日)ではモーツァルトに与えられた報酬はわずか4ドゥカーテンであり、しかもそれはヴァイオリン奏者ブルネッティと歌手チェッカレッリと同額だった。 ただし、ソロモンによればモーツァルトは3月16日と4月8日の2回のコンサートで「大司教から4グルデン、コロレド大公から5グルデン、そのほか貴族たちからもなにがしかの贈物」をもらったはずだという。 とにかく、モーツァルトはザルツブルクと決別する(せざるを得ない)十分な理由と経緯を事細かく父レオポルトに伝え、大司教一行の帰郷に同行せず、独立してウィーンに定住することになる。 後先のことを考えずに、自暴自棄になって行動を起こしてしまった結果ではないことを訴えつつ、ザルツブルク宮廷楽団で与えられている身分だけではそもそもまともな生活ができなかったことを強調している。
9月5日
ぼくはヴィーンに来た当初から、まったく自分の腕ひとつを頼りに生活していかなくてはなりませんでした。 努力のすえ、やっとぼくが勝ち得たものです。 他の人たちは、みんな給料をもらっていて、チェッカレッリなんかぼくよりも多く稼いでいましたが、当地で気前よく使い果たしてしまいました。 もしぼくが同じようなことをしていたら、とても辞職することはできなかったでしょう。
さて、この曲の楽譜はザルツブルクに帰郷したチェッカレリの手元にあった。 そのため、9月5日の手紙に父にウィーンに送ってもらいたいと書いてあるが、レオポルトは応じなかった。 そこで再度催促することで(1783年4月12日の手紙)ようやくモーツァルトは取り戻すことができた。 おそらくその後の演奏会でモーツァルトはこの曲を使ったと思われるが、記録に残っているのはそれから7年後フランクフルトで1790年10月15日に開催された個人演奏会であり、チェッカレリが歌っている。 それはレオポルト2世(1790年2月20日に死去したヨーゼフ2世の弟)の戴冠式にタイミングを合せたもので、モーツァルトはまとまった収入を当てにしたのだった。 そのときチェッカレリは既にザルツブルクを離れ、マインツで活躍していたが、その戴冠式での演奏を担当したのが奇しくもマインツ選帝侯宮廷楽団であり、それにウィーン宮廷楽団から選抜された団員が加わっていたのだという。 このような運命的な事情でチェッカレリは友人モーツァルトの個人演奏会に参加できたのだろう。 ただし、多額の借金までしてフランクフルトに出かけて催したコンサートはさらに借金を増やす結果になった。
1790年10月15日
きょう11時に、ぼくの演奏会があった。 名誉に関しては素晴らしかったけれど、報酬の点ではお粗末なものに終わった。 あいにく、ある侯爵邸で大昼食会があり、しかもヘッセン軍の大演習とかち合っていた。 でも、ぼくの当地滞在中、毎日かならずそんな邪魔が入るのだ。
[書簡全集 VI] p.587
この演奏会で、モーツァルトは「感じのよい顔つきの小柄な人物で、濃海色で綺麗に刺繍されたサテンの服を着ていた」という。 また、チェッカレリについては
優美さと完璧な歌い方を身につけ、すぐれた歌手ではあるが、声音はいささか衰えを見せている。 加えて彼の容貌は醜い。 なお、彼の装飾音をつけたパッサージュは素晴らしい。
という記録(ベントハイム・シュタインフェルト伯爵の手記)があり、その演奏会の入りはあまりよくなかったことも書かれている。 さらにつけ加えると、チェッカレリは1800年からはドレスデンに移り、1814年9月21日にその地で他界した。

さて、チェッカレリのためのこのロンドーはデ・ガメッラの台本になるパイジェルロの『蒙古のシスマノ Sismano del Mogol』から歌詞がとらたもので、ペルシャに勝って凱旋する蒙古の皇帝シファーチェを喜び迎える愛人ゼイーラの歌である。 グルックの「私はエウリディーチェを失った」の旋律を喜びの表現に用いているという。

〔歌詞〕
Zeira
Or che il cielo a me ti rende,
cara parte del mio cor,
la mia gioia, ah, non comprende
chi non sa che cosa e amor.
Sono all'alma un grato oggetto
le sue barbare vicende,
ed in sen dolce discende
la memoria del dolor.
ゼイーラ
天があなたを私にお返し下さった今
私の心を占めるいとしいあなた
私のこの喜びは、ああ、とても分からぬでしょう
恋がどんなものかご存知ないお人には。
今や私の心には喜ばしく思えます
これまでの醜い出来事の数々が
そしてこの胸で甘く和んでいきます
苦しみ悩んだ思い出が。
(小瀬村幸子訳)

〔演奏〕
CD [VJCC-2309] t=7'50
ルーテンス Lena Lootens (S), クイケン指揮 Sigiswald Kuijken (cond), ラ・プティット・バンド La Petite Bande
1988年3月、オランダ、Haarlem
CD [WPCC-4860] t=9'28
グルベローヴァ Edita Gruberova (S), アーノンクール指揮 Nikolaus Harnoncourt (cond), ヨーロッパ室内管弦楽団 The Chamber Orchestra of Europe
1991年6月、グラーツ、ステファニエン・ザール、ライヴ録音
CD [Brilliant Classics 93408/2] t=8'12
Miranda van Kralingen (S), European Sinfonietta, Ed Spanjaard
2002年

〔動画〕
[http://www.youtube.com/watch?v=hSaqhmiuNQ4] t=9'30
Edita Gruberova (S), The Chamber Orchestra of Europe, Nikolaus Harnoncourt (cond)
Live junio 1991 Graz.
[http://www.youtube.com/watch?v=PqUPnO2RFAg] t=8'56
Elly Ameling (S), the English Chamber Orchestra, Raymond Leppard (cond)

〔参考文献〕

 

Home K.1- K.100- K.200- K.300- K.400- K.500- K.600- App.K Catalog

 
2012/04/22
Mozart con grazia