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ドイツ軍歌「われはカイザーたらん」 K539

German warsong "Ich möchte wohl den Kaiser sein"
〔編成〕 B, picc, 2 ob, 2 hr, cymbals, drum, 2 vn, 2 va, vc, bs
〔作曲〕 1788年3月5日 ウィーン
1788年3月





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自作目録に上記日付で記載。 タイトルの「Ich möchte wohl den Kaiser sein」について、[事典]や[全作品事典]では「我は皇帝たらんもの」と訳されているほか、「おれは(ぼくは)皇帝になりたい」というのもある。 このページでは(特に意固地になっているわけではないが)軍歌としての勇ましさを考えて、従来どおり「われはカイザーたらん」のままにしている。
歌詞はグライム(Johann Wilhelm Ludwig Gleim, 1719~1803)によるもので、当時ウィーンで人気のあった喜劇俳優でのちに宮廷オペラ歌手となったバウマン(Friedrich Baumann, 1763~1841)のために作曲された。 そして3月7日、レオポルトシュタット劇場(Leopoldstädter Theater)で初演され、バウマンが歌った。

かつてバルカン半島をめぐってロシアとオスマン・トルコの間で何度も衝突があり、第1次から第6次まで戦争が繰り返されたが、モーツァルトがウィーンで生活していた頃はその第2次露土戦争(1787〜92年)にあたり、ウィーン皇帝ヨーゼフ2世はロシア側について参戦していた。 切迫した状況下で、具体的にどのような依頼があったのかわからないが、モーツァルトはこの戦争に関連して士気を鼓舞する以下の曲を作った。 彼は前年暮れ(1787年12月7日)念願のウィーン宮廷作曲家の地位を得て、毎年冬期間の舞踏会でのダンス音楽を作るという仕事についたので、戦争に関係する作曲も手がけることになったのだろう。

このうち、「戦闘」と「われはカイザーたらん」については、3月19日の「ウィーン時報紙」に広告が出され、それには「皇帝陛下の現役の楽長モーツァルト氏作曲の、ドイツ兵の『新軍歌』」と書かれているという。
1788年から1791年にかけて行われた対トルコ戦役は、オーストリアの国力を疲弊させる評判の悪いものであったが、それに伴ってこの国の文化生活もまた衰微した状況では、モーツァルトの仕事の面での落ち込みも、経済的な困窮も、すぐには解決しそうになかった。 だがもちろん、戦争が始まった頃は、大衆の戦意は高揚している。 モーツァルトもただちにオーケストラ伴奏つきの「ドイツ軍歌」K539を作曲した。
[ソロモン] p.661

ついでながら、のちにその戦争で功績のあったロウドン元帥が1790年7月14日に死去したとき、フォン・シュトリテッツ伯爵の依頼によりモーツァルトは「自動オルガンのためのアダージョとアレグロ」(K.594)を作曲したことも知られている。

推測であるが、モーツァルトはプラハで大成功を収めた『ドン・ジョヴァンニ』(K.527)をウィーンで上演することを望んでいたので、戦争に勝利してウィーンの文化生活が早く回復することと、皇帝ヨーゼフ2世のご機嫌をとるためにも舞曲「戦闘」とこの軍歌を作曲したのかもしれない。 モーツァルトは「内外の出来事をきめ細かく観察する人」(ヴォルフ)であり、そのなかで自分の音楽活動を現実的なやり方で切り開いていたのだった。

皇帝の内政・外政の失敗をつぶさに予見した人は、ほとんどいなかったことだろう。 だが、ウィーンの音楽生活のあらゆるレベルに及んだその深刻な影響を、モーツァルトが気づかなかったはずはない。 30万人の兵士を投入して行われた3年に及ぶ対オスマン帝国戦争は、多くの死傷者を出したばかりか、ハプスブルク家に2億2000万フローリンもの支出をもたらした。 経済への影響は甚大で、皇帝も軍務にかかわる大勢の貴族も、戦争にかかり切りになった。 1788年、ヨーゼフ2世は9ヶ月以上にわたり、司令官として軍と共に首都を離れ、ようやく12月に、疲れ果て重病を患って戻ってきた。 皇帝は『ドン・ジョヴァンニ』のウィーン・プロダクションを個人的に発注しており、それは5月7日にブルク劇場で初演され、併せて15回上演されていた。 しかし、音楽劇への深い関心とモーツァルトのオペラに寄せる愛にもかかわらず、皇帝は、12月15日の彼にとって(またモーツァルトにとって)生涯最後となる公演を含めて、ただの一度も同席することができなかったのである。
[ヴォルフ] p.29
モーツァルトの存命中に『ドン・ジョヴァンニ』がウィーンで上演されたのはこの1788年だけであり、しかも15回のみだった。 その背景には金のかかるオペラが槍玉に上げられたこと、そして(まだ観ていない)皇帝ヨーゼフ2世が「モーツァルトの音楽は極めて歌い難い」と劇場総監督オルシニ・ローゼンベルク伯爵に伝えた(5月16日)ことが大きく影響していたと思われる。 5月7日のウィーン初演を観たツィンツェンドルフ伯爵が「モーツァルトの音楽は変化に富んで楽しい」と日記に書いていたのだが、6月23日には「オペラは極めて退屈だった」とまったく正反対の感想になっていることも、そのような宮廷内の空気を反映しているのだろう。

曲は歌曲(ドイツ語軍歌 Ein deutsches Kriegslied)であるが、コンサート・アリアに分類されている。 有節形式(4回反復)で、自分が皇帝(カイザー)たる者であることをあれこれ偉業を並べて堂々と歌いあげる。 バウマンの限られた歌唱能力に合わせて作曲されているという。 そして

この曲には、オーケストラの伴奏にピッコロ、シンバル、大太鼓が用いられている。 これら3種の楽器は、モーツァルトの時代のヴィーンの音楽では、「トルコ音楽」と同義であった。
[全作品事典] p.121
という。 喜劇役者のバウマンが皇帝の真似をして大真面目で歌えば歌うほどユーモラスに見えて、かつまた戦意も高揚し、おまけに異国情緒さえも感じることができ、観客は大喜びだったに違いない。 最後の節で、ヨーゼフが命がけで戦っているのでカイザーたる者だ、と締めくくっている。 疲れ切った宮廷なんか何のその、モーツァルトはウィーンの庶民のハートをがっちり掴んでいた。 この曲は3月12日の演奏会でも歌われたらしいので、バウマンは機会あるごとにとりあげたと思われる。 彼はのちに宮廷オペラ歌手になったというのも、もしかしたらこの曲のお陰かもしれない。

〔歌詞〕

Ich möchte wohl den Kaiser sein!
Den Orient wollt ich erschüttern
Die Muselmänner müssten zittern
Constantinopel wäre mein!
Ich möchte wohl den Kaiser sein!
... 以下略

〔演奏〕
CD [Brilliant Classics 93408/4] t=2'47
Ezio Maria Tisi (B), Wilhelm Keitel (cond), European Chamber Orchestra
2002年6月、バイロイト劇場

〔動画〕

〔参考文献〕

 

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2017/12/24
Mozart con grazia