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オペラ・セリア 「ティトの仁慈」 K.621

Opera seria "La Clemenza di Tito" 序曲と2幕26曲
〔編成〕 2 fl, 2 ob, 2 cl, basset hr, 2 fg, 2 hr, 2 tp, timp, 2 vn, 2 va, vc, bs
〔作曲〕 1791年夏〜秋 ウィーン、プラハ
1791年9月



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皇帝レオポルト2世のボヘミヤ王即位戴冠式のために、プラハの興行師グァルダゾーニから祝典オペラの作曲依頼を受けて。 原作はメタスタージォ。 その台本をドレスデンの宮廷詩人マッツォーラ(Caterino Mazzola, 1740-1806)が当代風に編作。 彼は、1791年春に解雇されたダ・ポンテの後任としてウィーン宮廷詩人となり、5月から7月末までその地位にあった。 彼はプラハ経由で(5月6日プラハ着)ウィーンに赴いたことから、グァルダゾーニ(Domenico Guardazoni, ?-1806)との接点が生まれ、メスタージォの最古の忠誠表明劇(1734年作)の書き直しを依頼された可能性もある。 その一方、グァルダゾーニからモーツァルトがいつ依頼を受け、作曲に取りかかったのかは不明。
劇の内容は、ローマ皇帝ティトゥスが先王の娘や信頼していた部下に裏切られながらも、罪を悔いたこれらの人達を許すというものである。 1791年9月6日プラハ国立劇場で、皇帝皇妃の臨席のもとに、モーツァルトの指揮で上演された。 オペラを見た皇妃は、この音楽は「ドイツ人の汚物 una porcheria tedesca」と言ったと伝えられ、また、他方で「いつもは当地(プラハ)で愛されているこの作曲家が期待できたはずの喝采を博するにはいたらなかった」という報告もあり、初演は成功とならなかったようである。 モーツァルト一行は9月半ばにウィーンに帰った。

この作曲に先立って、2年前の1789年4月、モーツァルトは借金までしてプロシャ王ウィルヘルム2世の厚情を得るための旅を企てた。 途中プラハでのこと、モーツァルトはグワルダゾーニと再会し、次の約束を得ていた。

1789年4月10日、ウィーンの妻へ
彼は来年の秋に、ぼくのオペラに200ドゥカーテン、そして旅費に50ドゥカーテンくれることをほぼ決めてくれたよ。
[書簡全集 VI] p.495
以下はすべて推測の域を出ないが、この約束のオペラが『ティト』だという説がある。 ただし、そうだとしても、この時点で目的は皇帝レオポルト2世のボヘミヤ王即位戴冠式のためではなかった。 しかし約束の時期(1790年秋)になっても、なぜか作曲されない。 ロビンズ・ランドンは、その約束は『ティト』ではなく、「まず間違いなくまったく別の作品」のことだと言っている。 彼は、タイソンの用紙研究の成果を踏まえて、様々な資料を駆使しながら綿密に作曲の過程を推理している。 その内容は彼の著作「モーツァルト、最後の年」に詳しい。 それをもとに掻い摘んで、モーツァルトが作曲に至るまでの経緯をたどると、以下のようである。

年が明けて、1791年春、モーツァルトはプラハの王室国立劇場でのドゥーシェク夫人の慈善演奏会のために「バセット・ホルン助奏付きロンド」を書いた。 ただし自作目録には記載なく、また、この「ロンド」は『ティト』とは無関係。 その後プラハで、レオポルト2世のボヘミヤ王戴冠式のための祝典劇制作の命を受けたグワルダゾーニが7月14日頃ウィーン訪問。 即座に宮廷詩人マッツォーラと面会して、『ティト』の台本改作について合意がなされたと思われる。 グワルダゾーニは宮廷楽長サリエリに作曲依頼を試みるが拒絶されたため、モーツァルトのもとに行き、先の条件(総額250ドゥカーテンの報酬)で合意。 モーツァルトはマッツォーラと協同で、メタスタージョの古めかしい台本を改訂する作業を開始。 この時点で9月6日の初演まで時間的猶予はほとんどなかった。 そのうえオペラに出演する歌手も決まってなかったので、作曲しようにも手がつけられない状況だった。 それでも台本はモーツァルトの意にかなうようにしっかりと仕上がっていた。

マッツォラは多くの変更を施し、以下のような芸術的手段によって作品を「真のオペラ」(モーツァルトが『全自作品目録』に記した、このオペラの台本に関する注釈)へと変えた。 すなわち彼は、台本を全体の3分の1ほど削り、主筋とは関連性のない副筋を含む第2幕を、実質的に取り去ったのである。 マッツォラは筋の展開を緊密なものとし、登場人物たちに明確な性格を与え、人物たちの登場の仕方を巧妙に配置した。 彼は(当時、通例であったように)2つの大規模なフィナーレを創作したが、それらはいずれも、印象深く見せ場となることを目的としている。
[全作品事典] p.93
このときドゥーシェク夫人のための「バセット・ホルン助奏付きロンド」を第2幕に挿入することも両者の間で検討したかもしれない。
しかし、7月なかばから8月なかばにかけては、全体の半分以下の番号曲、それも主として重唱曲や合唱曲が作曲されるにとどまっている。 グワルダゾーニのヴィーン帰着は8月なかばと推定されるが、そのあと8月15日から25日までの間にようやくアリアの多くが仕上げられることになる。
[書簡全集 VI] p.677
それにしてもモーツァルトはなぜこのオペラの作曲依頼を引き受けたのだろう。 よく知られているように、彼は既に『魔笛』『レクイエム』の作曲を手がけていて、それでなくても時間的余裕はなかったのである。 グワルダゾーニが提示した高額報酬のせいなのか。 磯山は次のような興味深い推理をしている。
モーツァルトはお金と名誉のために仕方なく作曲した、だから音楽にはモーツァルト本来の精気が欠けている、という解釈を、われわれは、長いこと受け入れてきた。 だが、そう解釈しているのでは、永久に『ティート』の再評価は望めないだろう。 レチタティーヴォを弟子のジュースマイヤーにまかせたとはいえ、ひと月あまりで全曲を脱稿するほどの急ピッチな仕事を、モーツァルトのような人が、「仕方なく」完遂するだろうか。 『ティート』には、気づかれぬ重要なメッセージが隠されているのではあるまいか・・・。
[磯山] p.81
磯山はこのような根本的な疑問から出発し、モーツァルトは、レオポルト2世の統治を美化し肯定するように見せかけて、この忠誠表明劇に君主支配そのものに対する否定の契機を忍ばせようとしたのではないかと推理している。 主人公であるはずの皇帝ティトは周辺人物の織り成す重唱の美しさに和することが少なく、ひとり古風なコロラトゥーラを歌い、そのためティトの徳の非現実的性格が透けて見えるというのである。
おそらくモーツァルトは、華やかな宮廷芸術であったオペラ・セリアを、いまや簡素な民衆的基盤から作曲しようと考えたのではないだろうか。 そして宮廷の立場からではなく、民衆的な立場から、新しい政治体制への期待を表明したいと考えたのではないだろうか。
多忙な時期に、しかも完成までの締切りが間近かに迫っているにもかかわらず、歴史的大作に取り組むためには、モーツァルトのような天才をもってしてもよほどの決意が必要であろう。 なぜ彼がグワルダゾーニからの依頼に応じたのか、その疑問を解明しようとする試みはほとんどない中で、磯山説は一つの有力な考えであるかもしれない。

いずれにしてもモーツァルトは大急ぎで完成させなければならなかった。 そこで彼は、作曲する時間の足りない部分を補うために、セッコ・レチタティーヴォを作る作業は弟子のジュースマイヤーにまかせた(確証はないが)といわれる。 ジュースマイヤーはモーツァルト夫妻のプラハ旅行(8月25日頃に出発)にお供している。 その駅馬車の中でも、モーツァルトはオペラの作曲を続けていた。 そして初演の前日、9月5日にモーツァルトはオペラ『ティト』を自作目録に書き込むことができた。 こうして大急ぎで出来上がったオペラは以下のような構成になっている。

序曲 Allegro ハ長調

第1幕

第2幕

登場人物について、初演のときの配役は一部が自筆目録「Mozart's Thematic Catalogue - ff. 28v-29r(第141番)」に書かれているが、次の通りである。

ただしヤーンによる伝記ではセスト役がカロリーナ・ペリーニ、アンニオ役がドメニコ・ベディーニとなっており、新全集の編集者はこの説を支持している。 また、ティト役のバリオーニは『ドン・ジョヴァンニ』初演(1787年10月29日プラハ)でドン・オッターヴィオ役を演じていた。

〔あらすじ〕

先帝の娘ヴィテリアは皇帝ティトがベレニーチェを愛していることに嫉妬していた。 ベレニーチェが国外追放されると、今度はセストの妹セルヴィリアを后にしようとした。 ヴィテリアは、自分に気があるセストを利用してティトの暗殺を図る。セルヴィリアはアンニオが好きであることをティトに打ち明けると、ようやくティトはヴィテリアを后に決めた。 しかし暗殺の計画は既に実行されていた。 ところがティトは無事で、暗殺者の方が殺される。 そしてセストが首謀者として捕まった。 すべてを告白したヴィテリアに、ティトは怒るが、最後に許すので、人々は彼の偉大な慈悲をたたえる。
よく知られているように、「私が生涯において情熱をこめて愛したのは、チマローザ、モーツァルト、そして、シェークスピアのみである」と語り、それを自分の墓に刻んだスタンダールは次のような文を残している。
『ティトの仁慈』では優しい愛情のみが各人物を動かしている。 友人に向い「君の罪を私に打ち明けたまえ、皇帝はなにも聞くまい、きみといるのは親友だよ」と話しかけるティトより優しいものがあるだろうか。 終幕の赦しの場でティトが彼に、「友達になろう」という言葉は、冷酷無比の徴税請負人すら泣かしめる。
[スタンダール] p.128
しかし一般に、このオペラに対する後世の評価は高くない。 その理由として、作曲の期間が短く、台本もあまり良くなく、さらに作曲者自身の体が弱っていたため、必ずしも霊感豊かな作品にはならなかったといわれ、また、この種の真面目な内容にはモーツァルトはあまり乗り気でなかったともいわれる。 しかしアインシュタインは次のように反論している。
『ティトーの仁慈』については、多少とも遺憾の意をもって語り、この作品をにわか作りと疲労の一産物とみなして、手早く片づけるのが通例になっている。 にわか作り、たしかにそうだ、一刻の時間も惜しかったので、ジュースマイルがセッコ・レチタティーヴォの作曲を引き受けなければならなかったのである。 このことはたちまち知れわたってしまって、あのプラーハの通信者もすでに知っていたし、ニームチェクもそのことを確認している。 疲労、これはちがう、モーツァルトが同時に取りかかっていた『魔笛』(K.620)とレクイエム(K.626)にも疲労の跡がほとんど認められない。
[アインシュタイン] pp.555-556
初演のときの皇妃の言葉「ドイツ人の汚物」に代表されるような、このオペラに対する過小評価に、アインシュタインは異を唱え、次のように続けている。
同時代人とモーツァルト自身は『ティトーの仁慈』について全然別の意見を持っていたのである。 成功は時代とともにいよいよ大きくなり、モーツァルトのすべてのオペラのうちで、このオペラがロンドンで上演された最初のものとなった。 しかもロンドンでは他の作品が最近まで切り縮めの憂き目に会っていたのに、これだけはそんなことはなかった。 ところでモーツァルト自身はどう思っていたか? 彼はその作曲日誌に書いている、「ザクセン選帝侯宮廷詩人マッツォーラ氏によって本格的なオペラに改作された。 ridotta a vera opera dal Signore Mazzolà, Poeta di S: A: S: l'Elettore di Sassonia.」 これは、彼が『フィガロの結婚』(K.492)でも『ドン・ジョヴァンニ』(K.527)でも、また『女はみんなこうしたもの』(K.588)でも、ダ・ポンテには与えなかった栄誉である。
モーツァルトは駄作を甘んじて残すようなタイプでなかった。 それだけで十分であろう。 一部で「退屈な劇」と評されたとしても、それは聞く側に、あるいは演じる側に理解が足りないことによるのかもしれない。 実際にはモーツァルトならではの美しい曲で満たされた不朽の名作であり、確かに初演の手応えはあまりよくなかったようだが、徐々に当時の聴衆に熱狂的に受け入れられるようになった。 その証拠に、初演のあと、モーツァルト夫妻がウィーンに戻ってからも、友人でありバセット・ホルンの名手シュタードラー(彼も初演のとき出演していた)はプラハに残っていたが、ウィーンのモーツァルトに朗報を伝えているからである。 そのことをモーツァルトはバーデンに療養中のコンスタンツェに大喜びで知らせているが、それは『魔笛』初演の大成功と重なっていた。
1791年10月7日・8日
ぼくのオペラがあんなにも熱い拍手で迎えられた初演の晩、その同じ晩に、プラハでは『ティート』が異常な喝采を受けて最後の幕を降ろした。 どの曲もそろって拍手を浴びたのだ。 ベディーニが、いつになくうまく歌った。 イ長調の二重唱で、二人の女声歌手がアンコールされた。 そして、もしマルケッティ夫人をいたわる気がなければ、ロンドも同じように喜んでアンコールを求めたにちがいない。
[書簡全集 VI] p.689
モーツァルトの、あるいはシュタードラーの誇張がいくらか混じっているかもしれないが、以下のように、ロビンズ・ランドンは『ティト』が喝采をもって歓迎されるべき作品であると言っている。
モーツァルトの最後のオペラ『ティート帝の仁慈』(K621)は、19世紀のほとんどすべての時期と20世紀前半を通してほぼ完全に忘れられてしまった。 モーツァルトの主要作品の一つとして認められるようになったのは、やっとこの四半世紀になってからである。 ヨーロッパやアメリカのオペラ劇場では、この作品の重要な上演の試みがなされてきたし、ジャン・ピエール・ポネルが演出の舞台としてローマのカラカラ帝浴場を使って、記憶に残る印象的な脚色をしたテレビ映画まで作られた。 このオペラが長年にわたってないがしろにされた理由はいろいろあったが、一つには主役セストがカストラートのために書かれたことにあり、このカストラートという歌手の種類はこの作品が作曲されてから間もなく、ヨーロッパのオペラ劇場から姿を消す運命にあったからである。 しかし今日では、モーツァルトでなければ書けなかった最高の曲が少なくとも1時間は含まれた、いちじるしく心理劇的な洞察力を持つ作品として真価が認められるようになった。
[ランドン] p.119

〔演奏〕 全曲
LD [ポリドール WOOZ 24024/5] t=136分
演出 : ポネル Jean-Pierre Ponnelle
タピー Eric Tappy (ティート, T), トロヤノス Tatiana Troyanos (セスト, Ms), ネブレット Carol Neblett (ヴィテッリア, S), ハウエルズ Anne Howells (アンニオ, Ms), マルフィターノ Catherine Malfitano (セルヴィーリア, S) リドル Kurt Rydl (プブリオ, Bs), レヴァイン指揮ウィーンフィル, ウィーン国立歌劇場合唱団
1980年5月、ローマ

〔演奏〕 一部
CD [BMG 74321306202] t=4'55 (序曲)
Andreae指揮 Tonhalle-Orchester
1949年
CD [ドイツ・シャルプラッテン 22TC-280] t=5'54 (序曲)
スウィトナー指揮シュターツカペレ
CD [PHILIPS PHCP-10551] t=5'10 (序曲)
ブリュッヘン指揮18世紀オーケストラ
1986年
CD [Campion Records, CAMEO 2003] (9) t=6'39
ラウニヒ (Sopranist)
1989年
CD [UCCG 1091] (9) t=5'57
コジェナー (Ms), スヴィエルチェフスキー指揮プラハ・フィルハーモニー管弦楽団
2001年9月、プラハ

〔編曲〕
CD [EMI 7243 5 55513 2 0] t=14'21
トリオ・ディ・クラローネ (basset-hr)
1988年
※ R.Schottstadt編曲
CD [harmonia mundi 3903008] t=14'46
ブダペスト管楽
1989年
※ Triebensee編曲
CD [NAXOS 8.570027] t=28'24
Saxonian Wind Academy
2006年3月
※ Triebensee編曲

〔動画〕


 

ヴィテリアのロンド “Non più di fiori”

1791年4月




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1791年4月26日、プラハの王室国立劇場でドゥーシェク夫人は慈善演奏会を催し、「バセット・ホルン助奏付きロンド」を歌った。 それがこの曲であり、オペラ『ティト』の第23曲となっているが、不思議なことに、オペラ作曲に先立って作られと見られている。

バセット・ホルン付モーツァルトのロンドとして唯一該当するのは『ティート帝の仁慈』第2幕でヴィテッリアが歌う「花の美しいかすがいを編もうと Non più di fiori」である。 だが、どうしたらこんなことが起こりうるのか? モーツァルトにこのオペラが依頼されたのは、1791年7月14日以前ではありえない。 それなのに、ここでは4月にモーツァルトの友人であるドゥーシェク夫人が、このオペラのアリアを公衆の目前で歌っているのだ。 ドゥーシェク夫人が実際にこのロンドをレパートリーに入れたことは、1798年3月29日のウィーンでの演奏会に、「モーツァルト氏作曲によるバセット・ホルン助奏付ロンド、助奏はシュタードラー氏」として含まれていることから窺える。 それなら、バセット・ホルンのパートは、明らかにモーツァルトの友人アントーン・シュタードラーのために作曲されたものだし、彼もまた、プラハでのこのオペラ初演に出演しているのだ。
[ランドン] p.131
ドゥーシェク夫人が1791年4月26日に歌ったのはまったく別の曲だったのだろうか? 彼女はモーツァルトにとって特別な存在だったから、いずれにしても彼女のための「バセット・ホルン助奏付きロンド」なる曲を自作目録に記載しなかったのは謎である。

以下の歌詞はオペラ『ティト』の原作者メタスタージョのものではない。 その原作を改訂し、オペラ『ティト』の台本を書いたのはマッツォーラであるが、1791年夏より前にモーツァルトが彼に会ったという証拠はなにもなく、この作詞者は不明である。

〔歌詞〕
Non più di fiori
vaghe catene
discenda Imene
ad intrecciar.
Stretta fra barbare
aspre ritorte
veggo la morte
ver me avanzar.
Infelice! qual orrore!
Ah, di me che si dira?
Chi vedesse il mio dolore
pur avria di me pietà.
  今はもう、花で
美しい愛の鎖を作りに
婚姻の女神ヒメネスが
天から降りて来ぬように。
ごつごつと太い
綱に縛られ
死が私に向って
やってくるのが見える。
不幸な私! 何という恐怖!
ああ、皆は私のことを何と言おう!
でも私の苦悩を見た者は
私に憐れみを感じてくれるでしょう。
小瀬村幸子訳 CD[POCA-1132]

〔演奏〕
CD [WPCS-21094] (23) t=7'47
ポップ (S)
1993年
CD [POCA-1132] (22-23) t=8'56
オッター (MS)
1995年、ロンドン

〔動画〕


 

〔参考文献〕

 

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2014/10/19
Mozart con grazia