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オペラ・ブッファ「騙された花婿」 K.430 (424a)

または 「唯一人の愛人のために起こった3人の女の争い」

Lo sposo deluso ossia La rivalita di tre donne per un solo amante
序曲と2幕4曲(未完)
〔編成〕 2 fl, 2 ob, 2 cl, 2 fg, 2 hr, 2 tp, timp, 2 vn, 2 va, vc, bs
〔作曲〕 1783年後半 ザルツブルクとウィーン?

序曲(Allegro - Andante ニ長調)と次の4曲だけが残る。

  1. 四重唱「ああ、おかしい。君が恋してるんだって? 何がおかしい Ah, ah che ridere」
  2. エウジェニアのアリア 「私は栄光のローマ、カンピドリオの生まれ Nacqui all'aria trionfale」(断片)
  3. プルケリオのアリア 「あんなに美しい目が、可愛らしい唇が! この世にあったとは Dove mai trovar quel ciglio?」(断片)
  4. 三重唱「何という悲劇、困った、どうしたらいい、死んだはずなのに Che accidenti」
第1曲の四重唱は序曲をそのまま使っている。 劇の設定は海辺近くにある小さな町リヴォルノ Livorno で繰り広げられる「唯一人の愛人のために起こった3人の女の争い」というもので、青年士官アスドルバレを恋する3人の女、エウジェニア、ベッティーナ、メティルデの物語である。 タイトルの「騙された花婿 Lo sposo deluso」とは劇中人物の老いたボッコニオのことで、若いエウジェニアとの婚約がフイになり(いっぱい食わされて)取り残されてしまう結末を暗示していて、「当てのはずれた花婿」と訳されることもある。
作曲に先立ちモーツァルトは登場人物の性格とその配役を決めていた。 これらの配役は当時のウィーンの実力派歌手ばかりであり、モーツァルトはその力量を最大限に発揮できるよう作曲に取り組むと同時に台本にも相当の注文をつけたと思われる。 のちに完成する傑作『フィガロ』(K.492)で、ベヌッチ(Francesco Benutti, 38才)は主役フィガロを、ナンシー(18才)はスザンナ役、マンディーニ(Stefano Mandini, 47才)はアルマヴィーヴァ伯爵役、ブッサーニ(40才)はバルトロとアントーニオ役をそれぞれ演じることになる。 また、『後宮』(K.384)で、カヴァリエリ(Catarina Cavalieri, 本名 Cavalier, 28才)はコンスタンツェ役を、タイバー夫人(Terese Teyber, 23才)はブロントヒェン役をそれぞれ演じていた。

話を少し戻すと、ウィーンで独立したモーツァルトは本格的なオペラを作曲して世に認められたいという願望がはたせず地団太を踏んでいた。 1782年に『後宮』(K.384)を完成させていたが、それはドイツ語によるジングシュピールであり、本格的なオペラではなかった。 彼は5年前に

1778年2月4日、ザルツブルクの父へ
オペラを書きたいというぼくの願いを忘れないでください。 オペラを書くひとなら、誰でも、うらやましくなります。 アリアを聴いたりすると、くやしくてほんとうに泣きたくなります。 でも、それらはイタリア語で、ドイツ語ではありません。 セーリアであって、ブッファではありません。
[書簡全集 III] p.476
と書いているように、本格的なオペラとはイタリア語によるオペラ・セリアのことであり、自分にはそれを作曲できる十分な能力があるにもかかわらず周りが認めてくれない悔しさを父に伝えていた。 モーツァルトが父に連れられて二度目にウィーンを訪れたのは1768年、12才のときであり、そのときヨーゼフ2世の依頼によりオペラ・ブッファ『見てくれのばか娘』(K.51)を作曲したが、ウィーンの人々はモーツァルトをいつまでもその程度とみなしていた。
幼年時代、少年時代に比べるとパッとしないウィーンの大人のモーツァルトは、自分でもなんとかして有名になりたかった。 そのためにはイタリア・オペラを書き、それをヒットさせなければならない。 だが宮廷楽長でない彼にはなかなかその仕事が回ってこなかった。 ウィーンにはサリエーリがおり、グルックがいて、宮廷のイタリア・オペラを引き受けていたし、ハッセは宮廷詩人メタスタージォの親友であった。
[石井] p.208
なによりもドイツ人にイタリア・オペラが書けるはずがないと見られていたのだった。 ちょうどこの1783年、ウィーン・ブルク劇場からドイツ語の劇団が撤去されることになり、ますますモーツァルトはイタリア語によるオペラを書く以外に活路はなくなったのである。 その直前、彼はドイツ語オペラで対抗しようと考えていたこともあった。
1783年2月5日、ザルツブルクの父へ
ぼくはイタリア語オペラが長く支持されるとは思わないのです。 それに、ぼくはドイツ語オペラのほうを支持します。 たとえ、ぼくにとって苦労が多くても、ドイツ語オペラのほうがぼくは好きです。 どの国にも独自のオペラがあります。 でも、どうしてわれわれドイツ人にはそれがないのでしょう? ドイツ語は、フランス語や英語と同じくらい歌いやすくないでしょうか? ロシア語より歌いやすいのではありませんか?
[書簡全集 V] p.336
しかし、たとえ多くの苦労の末にドイツ語オペラを書いたとしても上演する機会はもはやなくなり、当然のことながら収入はない。 それでも自分の夢に向かってストイックに生きようという考えは現実主義者のモーツァルトにはまったくなかった。 彼は果報を寝て待っているようなタイプではなかった。 自分の類まれな才能を信じ、競争相手がひしめくウィーンで孤軍奮闘する血気盛んな27才の若者だった。 何とかしようと動いたのは当然のことであり、相次いで2つのイタリア語のブッファを手がけることになった。 一つは『カイロの鵞鳥』(K.422)であり、もう一つがこの『騙された花婿』(K.430)である。
前者の台本作家はザルツブルク在住のヴァレスコであり、その作曲を進めるにあたって父を介して台本の手直しを手紙でやりとりしている。 そんな折、ウィーンでもう一つのチャンスを掴もうとしていた。
1783年7月5日、ザルツブルクの父へ
当地のイタリアの詩人が、いま、ぼくのところへ台本をひとつ持ってきました。 もし、彼がぼくの望む通りに裁断させてくれるなら、ぼくはその台本をたぶん使うでしょう。
同書 p.386
そのイタリアの詩人が誰なのかはっきりしないが、たぶんダ・ポンテと思われる。 そしてその台本というのがこの『騙された花婿』である。 ただし、モーツァルトは同じ手紙に
追伸 ヴァレスコをせっつくのを、これでやめないでくださいね。 そのイタリアの詩人のオペラを、ぼくが気に入るかどうか分かりませんからね。
と書くのを忘れてはいない。 結局のところ、ウィーン宮廷はモーツァルトにイタリア・オペラを書く機会を与えなかったため、彼はこれら2つのブッファを未完のまま放置することになった。 彼に求められたのは、皮肉なことに、ドイツ語ジングシュピール『劇場支配人』(K.486)という田舎芝居であった。

未完に終ったオペラ・ブッファ『騙された花婿』の劇の内容は以下のようなものである。

中心人物はアスドルバレとエウジェニアの二人であるが、誤解から別れていた。 エウジェニアはジェルヴァージョに連れられて田舎町リヴォルノへ行く。 女性蔑視のプルケリオに「ああ、おかしい、君が恋してるんだって?」と笑われながらも、愚かな金持ちの老ボッコニオはローマから来た高貴な身分を自惚れるエウジェジアと婚約する。 エウジェニアは自分の身分にふさわしい出迎えを受けないことを不満に思い、「私は栄光のローマ、カンピドリオの生まれ」と歌う。 プルケリオが「あんなに美しい目が、可愛らしい唇が、この世にあったとは」とお世辞を言っているところに、死んだはずの恋人ドン・アスドルバレがやって来る。 彼は二人の娘ベッティーナとメティルデに結婚を迫られていた。 ボッコニオ、プルケリオ、エウジェニアはそれぞれに狼狽した三重唱「何という悲劇、困った、どうしたらいい、死んだはずなのに」を歌う。
作曲はここで中断。 ここまでが第1幕で、次の第2幕では、アスドルバレはエウジェジアとよりを戻し、ベッティーナはプルケリオと、メティルデは家庭教師ジェルヴァージョと結婚し、ボッコニオだけが馬鹿をみてとり残されることになる。 もし完成したら『フィガロ』または『コシ』と同じように、色とりどりの人間模様が織りなす傑作となったに違いない。 残念ながらモーツァルトがこのオペラの完成をやめた本当の理由はわかっていない。 ちょうどこの頃、ローマで活躍していたオペラ作家アンフォッシ(Pasquale Anfossi, 1727-97)のオペラ『無分別な詮索好き Il curioso indiscreto』がウィーンで初公演されることになり、モーツァルトは出演するアロイジア(23歳)とアダムベルガー(43歳)のために挿入歌を3曲(K.418K.419K.420)を作曲したことから、宮廷のイタリア人たちの反感を買っていて、平行して作曲を進めていた『カイロの鵞鳥』ともども上演の見込みが難しくなったとも考えられる。 それならば無駄骨に終る前に、手っ取り早く収入が得られる仕事に集中した方がいいとモーツァルトが気持ちを切り替えたというのがもっとも自然な理由と思われる。
 
  ヨーゼフ2世

もちろん理由はそれだけというほど単純なものではなく、さまざまな状況が重なって作曲の意欲が失われたのであろう。 その一つには台本作家との関係がうまくいかなかったこともあるかもしれない。 社会背景として、啓蒙君主ヨーゼフ2世が積極的にすすめたドイツ語ジングシュピールが(モーツァルトの作品は例外として)期待に反して評判が悪く、貴族階級から再びイタリア・オペラの復活を強く求める声が高まり、1782年の年頭に新たなイタリア・オペラ劇団の設立が決まったということを忘れるわけにはいかない。 ちょうどこのとき、楽長サリエリの下でイタリア・オペラの台本を供給できる新たな人物が求められ、ウィーンに出てきたばかりのダ・ポンテ(34才)の名前が登場し、サリエリの推薦で宮廷詩人の座につくのである。 他方、宮廷劇場の管理を担う代表はオルシニ・ローゼンベルク伯爵であり、彼はかつてトスカーナで勤務していた頃からの旧知の詩人カスティ(Giovanni Battista Casti, 59才)をその地位に就けようと画策していた。ここからダ・ポンテとカスティの因縁の対決とそれを取り巻く宮廷内部の様々な駆け引きが始まる。 このような状況をどの程度知っていたかわからないが、作曲家モーツァルトは当然のことながら、イタリア・オペラで名声を得る努力をしなければならない。 彼はそのために驚くべきスピードで自分の気に入った台本を探していた。

1783年5月7日、ザルツブルクの父へ
いま当地では、イタリア語のオペラ・ブッファがまた始まって、たいへんな人気を呼んでいます。 ブッフォ歌手が特に際立っています。 ブヌッチという人です。 ぼくは軽く100冊は、いやそれ以上の台本を読みましたが、それでも、満足できるものはほとんどひとつもありませんでした。 少なくとも、あちこち大幅に変更しなくてはならないでしょう。
[書簡全集 V] p.368
彼が読み漁った劇作品の中にチマローザの『張り合う女たち』があり、それがこの『騙された花婿』の原作にあたるとザスローは言う。
1780年の謝肉祭で、非常に人気の高い多作なイタリアのオペラ作曲家ドメーニコ・チマローザは、ローマのヴァッレ劇場で新たな喜劇オペラの初演を行った。 その作品は『張り合う女たち Le donne rivali』といい、ある程度の成功を収めたらしい。というのも、他の地域での上演がそれに続いたからである。
(中略)
1783年の春、新たなイタリア・オペラの劇団がヴィーンで結成され、大成功を収めた。 チマローザの総譜の筆写譜、あるいはたぶん台本のみがモーツァルトの手に渡ったのは、この頃である。 彼は(おそらくジュゼッペ・ペトロセリーニによる)この台本が気に入ったに相違なく、だれかに『騙された花婿あるいは1人の恋人をめぐっての3人の女性の張り合い』と題する新たな翻案の作成を依頼した。
[全作品事典] pp.79-80
モーツァルトが依頼した人物は誰なのかわからないが、宮廷劇場の陰謀家ローゼンベルク伯爵に対して反感を共有するダ・ポンテの名前が出てきても不思議ではない。 ブレッチャッハーの言葉によれば「モーツァルトに接近していよいよ戦闘意欲を高めた能弁なダ・ポンテ」はサリエリのために『一日だけの成金』の台本を書いているところであったが、モーツァルトのために新しい台本を書く約束をしたのだった。 ただしモーツァルトは半信半疑でもあった。 同じ5月7日の手紙で次のように書いているからである。
でも、彼が約束を守れるか、それとも守ろうとする気があるのかどうか、誰に分かるでしょう! イタリアの紳士たちが、面と向かっては実にお愛想がいいのは御存知の通りです!
何としてもイタリア・オペラを作り、サリエリをはじめとするイタリア人たちに一泡吹かせてやりたい気持ちが強かったモーツァルトは万一に備えて、もう一人の台本作家であるザルツブルクのヴァレスコに持ちかけようとした。
ぼくが本当にイタリア語オペラの分野でもどんなことができるか、見せてやりたいのです。 そこで、もしヴァレスコが例のミュンヒェンのオペラのことで怒っているのでなければ、7人の登場人物で新しい台本を書いてもらえないかと考えています。
(中略)
ヴァレスコと一緒に仕事ができそうなら、すぐにもその件で彼と話し合ってください。 でも、ぼく自身が7月にザルツブルクへ行くことを話してはいけませんよ。 さもないと、彼は仕事をしませんからね。 というのは、ぼくがまだヴィーンにいるうちに、なにがしかのものを手に入れることができたらとてもありがたいからです。 彼の取り分は、400フローリンか500フローリンになることは確かです。 当地の慣習では、詩人はいつも上演の収益の三分の一をもらえることになっていますから。
モーツァルトはこの台本に相当期待していた。 それぞれに個性的な7人の人物が織りなす虚々実々の舞台はモーツァルトの得意とするものである。
なにより大事なことは、物語全体がとてもコミックなことです。 そして、できれば対等にすばらしい二人の女役をそろえることです。 ひとりはセーリア役、もうひとりはセーリアとブッファの中間の役ですが、二人の役は重要さにおいて、まったく釣り合っていなければなりません。 でも、第三の女役はまったくの滑稽な役でいいのです。 必要ならば、男役もまったく同様です。
この5月7日の手紙には、作曲者の頭の中にはもうオペラが完成していたことがうかがえる。 しかし、
おお、シュエイクスピアだったら、これらの七つの役をどうにか処理できただろう。
(中略)
ダ・ポンテが与えているのは即席茶番狂言(コメディア・デラルテ)と陰謀劇との中間物でしかない。
[アインシュタイン] p.577-578
こうまで言われたらダ・ポンテは可哀想である。 モーツァルトが作曲を中断した理由にダ・ポンテの才能の稚拙さをあげようとするのは間違いであろう。 書こうと思えばシェイクスピア並の台本だって彼にはできたはずであり、それは『フィガロ』と『コシ・ファン・トゥッテ』そして『ドン・ジョヴァンニ』を見ればわかる。 モーツァルトはダ・ポンテの台本に何度も注文をつけ、ダ・ポンテは手直しが面倒になって降りたということは考えられなくもない。 また、他方のヴァレスコにはそもそもダ・ポンテほどの詩才はなく、最初から無理な相談だったと思われる。 とにかくダ・ポンテにとって、確実に金になる仕事かどうかも分からないモーツァルトとの約束を守るより、宮廷楽長サリエリのために、自分の処女作となる『一日だけの成金』の台本を仕上げる方が得策だと考えたのだろう。 想像をたくましくすれば、サリエリが「そのオペラの上演を望むのなら、そのときまで他のオペラの台本を書こうとするな」とダ・ポンテにクギを刺したこともあり得る。

最後に改めて断っておかなければならないのは、この完成されずに中断された7人の登場人物からなるオペラ『騙された花婿』の台本を託された人物がダ・ポンテであるという確証はないことである。 モーツァルトは「イタリアの詩人」と言ってるだけであり、また、ダ・ポンテ自身ものちに書き残した『回顧録』でこの作品について何も触れていない。 それを踏まえてか、[全作品事典]ではザスローはダ・ポンテのダの字も書いていない。

余談であるが、ダ・ポンテの台本による3幕ものの喜歌劇『一日だけの成金』は1783年暮れに大部分ができあがっていたにもかかわらずサリエリが突然仕事を中断してしまい、ブルク劇場で初演されたのはほぼ一年後の1784年12月6日だった。 どうしてそうなってしまったかと言うと、サリエリのパリ旅行があったからである。 パリでは、サリエリの師であるグルック(70才)が叙情悲劇『ダオナスの娘たち』の作曲にとりかかろうとしていたが、病気と高齢により弟子の協力を必要としていた。

初演は復活祭に予定されているにもかかわらず、サリエーリは1784年の1月にはウィーンを発った。 マエストロは師匠グルックと申し合わせた処置に齟齬がないか、現地との完全な意思疎通を求めて、明らかに余裕を持って行きたかったのである。 つまりもともと作曲を委任されたのはグルックだったが、あとになって彼は弟子のサリエーリと共同で作品を仕上げることに同意し、最終的には弟子に作曲者の名誉と報酬を譲ったのであった。 ところがパリでは、有名なグルックの名を捨てたくなかったので、作曲の実情については世間に曖昧なままにしていたのである。 だが、ついに1784年4月6日に初演の幕は開き、サリエーリは彼の長い作曲家人生で一、二を争う成功を味わい、4千フローリンという驚異的な報酬を得てウィーンに戻ってきた。 半年ものあいだ旅の空の下にいたサリエーリは、数多くの新しい印象を懐いて戻ったため、やりかけの仕事への意欲は萎えてしまっていた。
[ブレッチャッハー] p.577-578
一年後に、世界の中心であるパリで大成功を納め、途方もない大金持ちとなってウィーンに戻ったサリエリ(34才)は、まだ自分の作品を上演したこともないダ・ポンテ(35才)の処女作に曲をつける仕事を再開する気にならなかったのは当然と言ってもよいだろう。 それでもダ・ポンテは辛抱強く、作曲者からの屈辱的な注文に耐え、2年間の苦しみの末にようやく『一日だけの成金』の初演を1784年12月6日に迎えることができた。 ところがその評判は悪く、宿敵カスティはもちろんのこと、歌手たち、そして作曲者サリエリまでもが台本の拙さを酷評する有様だった。 のちにダ・ポンテはモーツァルトと手を組んで傑作『フィガロ』を完成させ、溜飲を下げることになる。

もうひとつ余談であるが、モーツァルトの死後、未亡人となったコンスタンツェ(33才)は姉アロイジア(34か35才)と作曲家でモーツァルトの弟子でもあったエーベルル(30才)と共に、1795年から1798年にかけてプラハ、ハンブルク、ベルリンなどを旅してまわり、みずから興業者となってモーツァルトの作品を演奏し、各地で好評を博したという。 その長い旅行中にこの未完のオペラ『騙された花婿』が演奏される機会があった。

モーツァルトの死後、弟子のひとりか、それ以外の彼に近いだれかが未亡人のコンスタンツェのために序曲と四重唱のオーケストレーションを完成した。 コンスタンツェは、彼女のために開かれた1797年11月15日のプラハにおける受益演奏会で序曲、四重唱、三重唱を演奏し、四重唱と三重唱ではみずから歌ったのである。
[全作品事典] p.80
Franz and Karl そのとき三重唱が大いに受けたといわれている。 補作完成させたのは誰か不明であるが、エーベルルである可能性はおおいにある。 彼はあらゆる分野の音楽に通じ、モーツァルトの作品かと思わせるほどの力量を持ち、また作曲のスピードも人並み以上だった。 なお、ちょうど1797年には、コンスタンツェ(35才)は再婚相手となるニッセン(36才)と知り合っている。 それは旅先だったのか、それとも彼女がウィーンに戻ってからなのか、詳しいことはわからないが、1798年から二人の同居生活すなわち事実上の結婚生活が始まる。 もちろん幼い二人の息子(7才のクサヴァーと13才のカール)も一緒であり、このとき画家ハンス・ハンセンが二人の子供を描いた有名な肖像画が残される(ザルツブルクの生家に所蔵)ことになった。 カールはこのあと14才にしてイタリア・トスカーナ州の町リヴォルノ(奇しくもオペラ『騙された花婿』の舞台となった町)へ行き、商人になるための教育を受ける。 しかし彼を取り巻く女性はいなかったのか、生涯独身だったことはよく知られている。

〔動画〕
[http://www.youtube.com/watch?v=1G8S8yTFDZs] 序曲 t=4'57
演奏不明
[http://www.youtube.com/watch?v=-ms9g5ZNzrI] (1) t=5'07
四重唱 "Ah, ah che ridere"
演奏不明
[http://www.youtube.com/watch?v=ghEJ4Gd8SXU] (2) t=3'43
Aria (Eugenia) "Macqui all'aura trionfale"
演奏不明
[http://www.youtube.com/watch?v=S3f5yF0-CKA] (2) t=3'46
Aria (Eugenia) "Macqui all'aura trionfale"
演奏不明

〔参考文献〕


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2012/04/15
Mozart con grazia