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1750年8月18日、イタリア Legnago 生まれ。 13歳上の兄 Francesco にヴァイオリンとチェンバロを習った。 兄はヴァオリン奏者で作曲家タルティーニの弟子だった。 さらに(マルティーニ神父の弟子で、Legnago大聖堂のオルガン奏者)シモーニ Giuseppe Simoni に教えを受けた。 1763年、母が没し、まもなく父も失い、兄が修道士としていたパドヴァに移り住んだ。 1766年、ヴェニスを訪れていたウィーン宮廷楽長ガスマン Florian Leopold Gassmann と出会った。 ガスマンは16歳のサリエリの才能に驚き、ウィーンに連れて帰り、作曲を教えたり、宮廷作家メタスタージオや宮廷作曲家グルックに紹介したりした。
サリエリの最初のオペラ「La vestale」(1768年)は残っていない。 1770年の喜劇「Le donne letterate (The Learned Ladies)」がブルク劇場で上演され当たったことで、イタリア・オペラ作家としての地位を得た。 1774年ガスマンの死後、宮廷作曲家になり、宮廷歌劇場の楽長も務めた。1788年にボンノ Giuseppe Bonno の後任として宮廷楽長になり、1824年までその地位にあった。
1775年、テレジア・ヘルファーシュトルファー(Theresia Helferstorffer 1755-1807)と結婚し、8人の子を残したという。
1790年フランクフルト・アム・マインでのレオポルト2世の戴冠式のとき、サリエリの決定によりモーツァルトのミサ曲ハ長調 K.317 が演奏された。
1791年4月16、17日ウィーン音楽芸術家協会の音楽会でサリエリはモーツァルトの交響曲第40番ト短調 K.550 を指揮し演奏したらしい。
1791年9月、レオポルト2世のボヘミア王戴冠式に臨むために、7名の楽師を伴ってプラハに行った。
そのとき、モーツァルトの3曲のミサ(K.258, K.317, K.337)を携えていた。
まず4日の最初の式典では自作の「聖霊よ、来たり給え」を演奏したほか、6日の式典ではモーツァルトの「戴冠式ミサ K.317」などを指揮した。
さらに、「エジプト王タモス」K.345 の中から合唱曲と、「主の御憐みを」K.222 も演奏指揮した。
また、9月8日、皇女マリア・アンナがプラハ王立女子修道院長に就任する式典で、モーツァルトの「ミサ・ブレヴィス K.258」を演奏指揮したらしい。
1791年10月13日ウィーンで、モーツァルトの「魔笛」を観て「これこそオペラだ」と言った。
1791年12月6日、聖シュテファン大聖堂でモーツァルトの葬儀が行われたとき、サリエリは友人として参列している。なお、そのときコンスタンツェの参列があったかは不明。 彼女は息子とともに知人宅にいて参列しなかったという説もある。
モーツァルトの死後、1792年、フランツ2世の戴冠式(フランクフルト)でもサリエリは K.317(K.337も?)を演奏した。
1793年1月2日、ウィーンのヤーン邸で、スヴィーテン男爵の依頼によりサリエリはモーツァルトの「レクイエム」を指揮した。 それは作品の注文主ヴァルゼック伯爵が妻アンナの追悼ミサのために、自らの作曲になるものとして演奏指揮した同年12月14日より早かった。
1804年頃、ほとんど作曲をやめ、教師としての道を選んだ。彼が教えた人物として、ベートーヴェン、シューベルト、リスト、チェルニーなどのほか、 モーツァルトの弟子だったフンメル、ジュスマイヤー、さらに息子クサヴァーもいることは有名。
モーツァルトのライバルあるいは妨害者としても有名であるが、二人はドラマなどで描かれるような不倶戴天の敵同士ではなかった。
サリエリはその当時モーツァルトの才能を認めていた数少ない人物の一人だったし、打ち解けた仲だったようである。
サリエリの人物像は相当の悪人に仕立て上げられているが、冷静に見ればそれほどではないと思う。
モーツァルトという天才の相手として歴史上に登場した運の悪さを思うと逆に同情したくなる。
もしサリエリの人物像をモーツァルトの手紙をもとに描こうとするなら、我々は父レオポルトと同じ注意深さをもって、書かれてある言葉の裏を考えなければならないだろう。
イグナツ・フォン・モーゼル(1827年、サリエリの伝記を書いた)の言葉
第2の父であり師でもあったガスマンからタダで学んだことを、今度は報酬なしで若い人々に教えようと誓っていた。
サリエリの暖かい人物像について、モーツァルトを殺害しようとする根拠がないことについて、渡辺護氏が簡潔にまとめた文章がある。 →「モーツァルトを開く鍵」(春秋社 1993)pp.99-104
サリエリがモーツァルトを毒殺したと告白した話が有名であるが、根拠がない。
1825年5月7日、ウィーンで没。墓(右の写真)はウィーン中央墓地内にある。
■関係する曲
サリエリの作品はオペラ、教会音楽、室内楽曲など多数ある。
■サリエリのオペラ
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CD[NAXOS 8.554838] 序曲集
魔除、エラクリトとデモクリト、ファルマクサの皇帝、一日長者、盗まれた桶、オルムズの王アクスール、ダナイード(ダナオスの娘たち)、カマーチョの結婚とドンキホーテ、トロフォーニオの洞窟、ムーア人、アルミーダ、アンジョリーナまたは噂の結婚 <演> ディットリッヒ指揮スロヴァキア放送ブラティスラヴァ交 ; 1991-92 |
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CD[BV R32E1031] フォルテピアノ協奏曲 変ロ長調
<演> バドゥラ・スコダ (p), シモーネ指揮イ・ソリスティ・ベネティ |
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CD[PHILIPS PHCP-9335] フルートとオーボエのための協奏曲 ハ長調
<演> ニコレ (fl), ホリガー (ob), シリトー指揮アカデミー ; 1985 |
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CD[L'oiseau Lyre 458 557-2]
"La passione di Cesu Cristo" から "Torbido mar che freme" <演> スカルトゥリーティ (Br) ; 1996 |
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CD[Campion Records, CAMEO 2003]
"Armida" から Rinaldoのアリア "Lungi da te" "Anibale" から Hannibalのアリア "A fulminas m'invita" "Axur, re d'Ormus" から Aspasiaのアリア "Perdermi?" モテット "Fremat Thyrannus" (composed in 1778) <演> ラウニヒ (Sopranist) ; 1989 |
ウィーン宮廷楽長。
間違ってモーツァルト作と思われていた作品
■関係する曲
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CD [POCA-1132] <演>オッター (MS)
歌劇「アルチェステ」から「驚かれませぬよう」 歌劇「オルフェオとエウリディーチェ」から「なんて澄んだ空」 |
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CD [DECCA 466 196-2] <演>ショル (counterT)
"Telemaco" から "Ah! non turbi il mio riposo" |
当時人気のあった宮廷作曲家。1771年「音楽芸術家協会」の設立に貢献した。
■関係する曲
■シュタルツァーの作品
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CD [ARCHIV POCA-2183] 10の舞曲 |
1772年、ウィーン宮廷オルガニスト。 モーツァルトと親交があった。 1791年、死の床にあったモーツァルトに呼ばれ、聖シュテファン大聖堂副楽長の後任を託されたという。 そしてモーツァルトの死後、コンスタンツェの妹ゾフィー・ハイベルやジュスマイヤーたちと葬儀の手配などをした。 よく知られているように、そのときコンスタンツェは疲れて倒れていたという。
ベートーヴェンの師としても知られている。
■アルブレヒツベルガーの作品
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CD [NAXOS 8.553831] ●トロンボーンと弦楽のための協奏曲 変ロ長調 トゥルーデル (tb) 指揮, ノーザン・シンフォニア 1996年 |
1739年5月12日ボヘミアのネヴェ・ネハニツェで、農夫の子として生れた。
1761年頃ウィーンに出てきて、ディッタースドルフに師事。
1769〜71年、イタリアでグルックに師事。その後ハンガリーで活躍。
1780年ウィーンに戻り、当時は有名な作曲家でありヴァイオリン奏者、音楽教師。一時精神病だったこともあるらしい。 モーツァルトとも親交があり、彼の弦楽四重奏曲をハイドン、ディッタースドルフと共演したこともある。
1813年8月20日ウィーンで没。
作品は100以上ある。
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CD [FINLANDIA WPCS-10204] コントラバス協奏曲 ニ長調 (1773年作) |
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CD [AEOLUS ACCD S111] ディヴェルティメント |
当時のオペラは王侯貴族の独占物で、一般庶民は安価な管楽バンド(ハルモニーと呼ばれていた)による演奏を聞いて楽しんでいた。
皇帝ヨーゼフ2世はこの年みずから「宮廷ハルモニー合奏団」を設立した。そのバンドの専属編曲者は第2オーボエのヨハン・ヴェントで、彼は生涯に40ものオペラを管楽バンド用に編曲した。
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CD [harmonia mundi 3903008] 「後宮からの誘拐」 K.384 「フィガロの結婚」 K.492 「コシ・ファン・トゥッテ」 K.588 |
ボヘミヤ出身(プラハの北ヴェルヴァリ)の、才能は低いが世渡りは上手だった作曲家。プラハで音楽を学び、成功を収めたのち、1778年にウィーンに出て、またたく間に有名になった。
1791年9月、皇帝レオポルト2世のボヘミヤ王即位戴冠式のとき、4日の式典「王冠への忠誠の誓い」が聖ヴィートゥス大聖堂で行われ、サリエリの指揮によりコジェルフ作「戴冠式ミサ」が演奏された。 くしくもその大聖堂こそ当のコジェルフが最初に鍵盤楽器と作曲を学んだところであり、師はカペルマイスターのヨハン・アントン・コジェルフ(1738〜1814)であり、コジェルフの従兄弟であった。
宮廷好みの音楽で1792年6月12日に(モーツァルトの2倍の俸給で)ウィーン宮廷作曲家になる。 「宮廷会計局帳簿」には、サリエリは税込みで1200フローリン(1792年)、モーツァルトは約700フローリン(1788年)、オルガン奏者アルブレヒツベルガーは300フローリン、コジェルフは税込みで1500フローリン(1802年)の俸給だった記録があるという。
のちに、ベートーヴェンは彼を「浅ましい」と評したというが、堅物のベートーヴェンらしい見方とも言える。 コジェルフに限らず、人は皆それぞれ自分の生き方があるのだから。
■コジェルフの作品
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CD [Teldec WPCS-11190] 4つの交響曲が含まれている。 <演>コンチェルト・ケルン(オリジナル楽器使用) 2000年11月。 ※聴いていて退屈になる(やはり二流の作家)が、一度は聴いても良いかもしれない。 |
当時は有名なオペラ作曲家。
■関連する曲
■ソレールの作品
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CD [L'oiseau Lyre 458 557-2] "Una cosa rara" から "Dov'e dunque il mio ben?" (So where is my treasure?) |
ヨーゼフ・レオポルト・アイブラーはアルブレヒツベルガーの弟子で、コンスタンツェからレクイエムの完成を依頼され、自筆譜に直接書き込んで「セクエンツィア」のオーケストレーションを行った。 しかし、未完の「ラクリモーサ」には手をつけられずに投げ出したので、コンスタンツェはジュスマイヤーに依頼し直したことは有名。
1824年、サリエリの後任としてウィーン宮廷楽長になった。
1833年にこの「レクイエム」の指揮中に卒中の発作を起こし、辞任させられたという。
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