Mozart con grazia > ピアノのための幻想曲と変奏曲 > 10の変奏曲 ト長調 2008/06/08
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K.455 グルックの主題によるピアノのための10の変奏曲 ト長調

作曲 1784年8月25日 ウィーン

自作目録の第7番に「8月25日」付けで記載されているが、この曲の成立はもっと早いことが知られている。 すなわち、前年の1783年3月23日、モーツァルトの演奏会が皇帝ヨーゼフ2世臨席のもとに行われ、かつて例を見ないほどの大成功であったことが父レオポルトに送った手紙や当時の出版物によって知られているが、そのとき客席にいたグルック(当時69歳)を前に、彼の曲を主題にした変奏曲を即興演奏して敬意を表したものである。 ウィーンで次第に人気が出てきたモーツァルトに対して、嫉妬から反対派が増え始めたが、長老グルックだけは常に好意的で、モーツァルトの演奏会に度々姿を見せていたという。 そこで1764年に初演され、1780年にドイツ語翻訳のジングシュピールとして上演されたグルックのオペラ「思いがけない巡り会い La rancontre imprevue」(原題「メッカの巡礼者 Les Pelerins de Mecque」)の中のアリエッタ「愚民の思いは Unser dummer Poebel meint」を主題に即興的に変奏したのであった。

この曲は以上のような状況で成立し、また動機もそこに見ることができる。 この時期に作られたピアノのための幻想曲や変奏曲は同じような理由によるものであり、アインシュタインは

この時期は、彼の偉大なアカデミー(予約演奏会)の時代、彼のピアノ・コンチェルト、管楽器を加えた五重奏曲、偉大なヴァイオリン・ソナタの時代であった。 アンコールが必要になったときは、例えばグルックの『わが愚かなる賤民は言う』による変奏曲などのような変奏曲を即興演奏した。 右の場合は、原曲の作曲者が1783年3月11日のモーツァルトのアカデミーに来場の栄を得たおりのことである。 ときにはまたもっと自由な形式で幻想曲を即興演奏したのである。
浅井真男訳「その人間と作品」白水社 p.338
と説明している。

1783年3月23日のブルク劇場での演奏会のあと、1784年8月25日に自作目録に記載するまでの間には、1783年7月末〜10月末、新妻コンスタンツェを伴ってザルツブルクに里帰りをしていた間を除き、モーツァルトはウィーンで何度も演奏会を開き、次々と新作を発表している。 そのようなときに、この曲を演奏する機会が何度かあったと考えるのが自然である。 完成されたものと未完のとの2種類の自筆譜が残っているということも、そのような事実を物語っていると思われる。 そして完成した曲として自筆譜を書き上げたときに、自作目録に記載したのであろう。

モーツァルトは1781年7月に「後宮からの誘拐」の作曲に着手するが、そこで東洋風の異国趣味を帯びた作品の一つとして、グルックの「メッカの巡礼たち」を十分に研究していたようである。 そして自分の作品が完成しても、グルックの他のオペラの完成が優先されることもよくわかっていた。 さまざまな事情(その中には妨害もあったが)から「後宮」の完成には1年近くかかり、1782年7月16日にブルク劇場で初演されたが、圧倒的な好評を得て上演を繰り返すことになった。 それにはグルックの支持もあったという。 その一方でモーツァルトは、老齢のグルックが死去したあと、自分が宮廷作曲家のポストを手に入れるための努力をすることを忘れていなかった。 モーツァルトは決して世間知らずの音楽オタクではなかった。

オペラ界は、陰謀、かけひき、策略、罠といった、相手をおとしめ、引きずり落とす術策を弄してやまぬ、おどろおどろしい世界であることは、今も昔も変わりない。 モーツァルトもそうした世界の只中で生きていくことになるのである。
海老沢&高橋編訳「モーツァルト書簡全集V」 白水社 p.112
確かに父レオポルトが心配して目が離せないという時期もあったが、モーツァルトにはそのような世界で生き抜いていける才能を十分に持っていたようである。 むしろ逆に謹厳実直なレオポルトの方が順応できずにいた。 グルックに対しての評価は悪く、かなり否定的に見ていたことが残された手紙からわかる。 したがって、息子がグルックに(だけでなく、当時のほかの革新的な作曲家にも)近づかないことを望んでいた。 しかしモーツァルトは時代を越えた天才であり、父が望む古くさい型枠に収めきれるものではなかったことは歴史が示す通りである。 イタリア人に牛耳られている宮廷音楽界にあって、それを悔しく思う気持ちを共有していたかもしれず、グルックはモーツァルトの演奏会にはよく出かけ、作品を誉め、食事に招待してくれていたのである。 そのような親密な関係があったことから、皇帝ヨーゼフ2世臨席のもとに行われた1783年3月23日の演奏会で、彼の曲を主題にした変奏曲を即興演奏して敬意を表した話につながるのである。

1783年12月24日の手紙でモーツァルトは父へザルツブルクで上演可能なオペラとしてグルックの「メッカの巡礼」を提案している。 1年後にそれが上演される運びとなり、1784年12月14日付けの父から娘ナンネルに宛てた手紙で、その稽古が行われていること、新年早々に舞台にかけられることが伝えられている。 しかし、人気はなく、モーツァルトの「後宮」にはかなわなかった。 よく知られているように、1787年の5月28日に父レオポルトが、そして11月15日にグルックが他界した。 そして12月7日、グルックの死で空席となった宮廷作曲家のポストにようやくモーツァルトはたどり着いたのであった。

演奏
CD[EMI TOCE-11558] t=13'32
ギーゼキング Walter Gieseking (p)
1953年8月
CD[PHILIPS PHCP-3674] t=13'35
ヘブラー Ingrid Haebler (p)
1975年11-12月、アムステルダム・コンセルトヘボウ
CD[TKCC-15151] t=13'44
レーゼル Peter Roesel (p)
1975年、ドレスデン・ルカ教会
CD[ポリドール F32L-20266] t=14'21
シフ Andras Schiff (p)
1986年2月、ウィーン、コンツェルトハウス
CD[SYMPHONIA SY-91703] t=18'15
アルヴィーニ Laura Alvini (fp)
1990年8月
CD[TOCE-7514-16] t=15'01
バレンボイム Daniel Barenboim (p)
1991年3月

編曲版
CD[MDG 301-0495-2] t=6'01
コンソルティウム・クラシクム
1994年
※6重奏曲(変奏曲)ヘ長調


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