Mozart con grazia > 年代記 > 1791年
17
age
61
5
62
6
63
7
64
8
65
9
66
10
67
11
68
12
69
13
70
14
71
15
72
16
73
17
74
18
75
19
76
20
77
21
78
22
79
23
80
24
81
25
82
26
83
27
84
28
85
29
86
30
87
31
88
32
89
33
90
34
91
35

92

1791年

35歳

1月

1791年1月





12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31





5日、最後のピアノ協奏曲となる を作曲。 第3楽章の主題は「春への憧れ」K.596と同じ。3月4日に演奏。

14日、子供用の歌曲集の依頼を受けて3つの歌曲

を作曲。 モーツァルトは悲惨な窮迫のどん底にあったが、どれも軽やかで快活な子供の世界を生き生きと表現している。 最後の「子供の遊び」のオーヴァベック詩
ああ、もう沈んじゃうの、太陽よ、こんなに早く? 僕たちはまだ疲れてなんかいない、
ああ、太陽よ、もっとここにおいでよ! じゃ、みんな、また明日、
ぐっすりおやすみ、さようなら! 明日になったら、また、楽しく遊ぼうね!
を聞くとき、それは作曲者自身の生への叫びと感じてしまうのは編者ばかりでないと思う。

23日、

を作曲。

29日、

を作曲。 最後の舞曲シリーズの中の傑作となった、この作品はドイツ舞曲の名を借りた協奏曲といえる。

2月

1791年2月

123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28





5日、3曲のダンス音楽 を作曲。

12日、さらに、

を作曲。

28日、さらに、

を作曲。

3月

1791年3月

123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031


3日、ロウドン元帥記念霊堂のために を作曲。 前年末のK.594を参照。

4日、クラリネット奏者ヨーゼフ・ベーアの演奏会がヤーン邸であり、このときモーツァルトは最後のピアノ協奏曲K.595を新作として発表した。 そしてこれが彼の演奏する最後の姿となった。

6日、

を作曲。

8日、フランツ・ゲールとピシュルベルガーのために

を作曲。 また、日付ははっきりしないが、ベネディクト・シャックの歌曲「馬鹿な庭師」のリート「女ほど素晴らしいものはない」を主題に を作曲。

4月

1791年4月




123
45678910
11121314151617
18192021222324
252627282930
12日、前作のK.593と同様にハンガリーのトストのために を作曲。

13日、プフベルクへ「7日後に俸給を受けるので、それまで20グルテンと少々お貸し下さい」と借金を願っている。 その俸給とは帝室王室付作曲家としてのもの。それに対して、プフベルクは30フローリン送金。

16、17日、ウィーン音楽芸術家協会のコンサートがあり、そのためにモーツァルトは「交響曲第40番ト短調 K.550」にクラリネットを書き加え、オーボエのパートを変更したらしい。 そしてサリエリの指揮によりで演奏されたという。 そのときクラリネット奏者はシュタードラーだった。 さらにアロイジアがアリア(K.418またはK.419)を歌った。

20日、

を作曲し自作目録に4小節の主題を書いているが、総譜は紛失。

5月

1791年5月






1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031




4日、器械仕掛の楽器を好んだミューラー氏のために を作曲。 また、この曲に関連するかもしれない が「魔笛」のスケッチの中に含まれていた。

9日、ウィーンの聖シュテファン教会の楽長レオポルト・ホフマンが病気になったため、モーツァルトは副楽長に任命される。 ただし無給。経済的には何の意味もなかった。 この頃、シカネーダーの注文を受けて「魔笛」の作曲にとりかかっていた。 妻コンスタンツェは保養でバーデンに行き、モーツァルトは金の工面に悩まされながらも作曲を続けていた。 このとき誰が彼の死を予感していただろうか。
なお、聖シュテファン教会は、1782年8月4日にコンスタンツェと結婚式を挙げたところであり、さらにこの1791年12月6日には自らの葬儀も行うところでもある。

23日、盲目のグラス・ハーモニカの名演奏家マリアンネ・キルヒゲスナー嬢のために

を作曲。

6月

1791年6月


12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
27282930


11日、妻へ
僕の悲運を一緒に泣いてくれ。 キルヒゲスナー嬢は月曜の発表会をやらないんだ! だから日曜には一日中お前を抱いていられたはずだった。 水曜にはきっと行くよ。 今日は退屈しのぎにオペラのアリアを一つ作った。 今日はプフベルクの家にお呼ばれだ。お前に1000回キスをして、一緒に心の中で言おう、「死と絶望がその人の報いだった」と。

身重のコンスタンツェは3年続けてバーデンへ療養に行っていた。 13日の月曜に行われるはずだったキルヒゲスナー嬢(1772−1808)の発表会が10日に終っていた。 オペラとは「魔笛」のこと。 そして最後の言葉はその第11曲の二重唱から。 彼はこの晩、軽歌劇「ファゴット吹きのカスパル一名魔法のツィター」を見に行った。 ペリネ作詞、ミュラー作曲のこの作品は「魔笛」と同じくヴィーラント作「ジンニステン一名妖精物語萃」に題材を求めたもので、「魔笛」に影響を与えたとも言われている。

17日、バーデンの合唱指揮者A.シュトルの求めに応じて、御聖体の祝日のミサのために

を作曲。 妻のコンスタンツェが湯治に行った際の世話になったお礼として書かれた。

7月

1791年7月




123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031
2日、バーデンにいる妻へ手紙を送り、ジュスマイヤーに「魔笛」第1幕の導入部から終曲までの譜を送るよう求めた。オーケストレーションするために。

7日、妻へ

僕は自分の気持ちをうまく説明できない。 それは僕をひどく苦しめる一種の空虚であり、また決して満たされることのない、そして決して止むことのない一種の憧れだ。 この憧れは永久に続き、日増しに大きくなってゆく。
妻コンスタンツェのいないウィーンでモーツァルトは、シカネーダーや弟子ジュスマイヤーなどの家で食事をさせてもらいながら仕事を続けていた。 シカネーダーは孤独な彼のために邸中の小屋を使わせた。 その小屋は1897年にザルツブルクへ移され、「魔笛の家」と名付けられた。
(左の写真)

この頃、レーゲンスブルクの結社員F.H.ツィーゲンハーゲンの著作の付録にと依頼され

を作曲。 依頼者はルソーの思想にも触発され、アルザス地方に若者の共同生活施設を建てた。 その「自然の反集団」と呼ばれていた結社の集会でこれが歌われた。

26日、四男フランツ・クサヴァー誕生。 彼は成人し、音楽家となり、後に「モーツァルト2世」を名乗る。 弟子フランツ・クサヴァー・ジュスマイヤーの子ではないかという説がある。

8月

1791年8月
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031



19日、ウィーンでキルヒゲスナー嬢の演奏会があり、そのために作られた が初演された。

25日、モーツァルトは皇帝レオポルト2世のボヘミヤ王即位戴冠式を目指して、コンスタンツェとジュスマイヤーを伴い、プラハへ向かってウィーンを出発した。 これは3度目のそして最後のプラハ旅行だった。相次いで到着した皇帝皇妃には、サリエリが7人の宮廷楽士(20人に増えた)を連れて随伴した。

9月

1日、レオポルト2世の戴冠式のためにプラハを訪れていたツィンツェンドルフ伯爵の日記によると、食卓音楽に編曲された「ドン・ジョヴァンニ」が演奏された。 サリエリに同行した楽士(オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン各2)が演奏したものとみられる。
1791年9月



1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930

2日、国立劇場で皇帝皇妃の臨席のもと、「ドン・ジョヴァンニ」が上演された。モーツァルトは指揮せず、満員の聴衆に交じり大満足だった。

3日、フランスで新憲法が公布。 人権、法の前での平等などが保証された立憲君主制となった。 この頃、プロイセンとオーストリアはフランス革命に干渉していた。 そして翌年2月に対仏同盟を結び、戦争となるが、両国の連合軍はフランス軍に敗れる。

4日、戴冠式に先立つ式典「王冠への忠誠の誓い」が聖ヴィートゥス大聖堂で行われ、サリエリの指揮によりコジェルフ作「戴冠式ミサ」が演奏され、さらにモーツァルトの「主の御憐れみを K.222」も演奏されたらしい。 (ベートーヴェンの言葉によれば)浅ましいコジェルフは宮廷好みの音楽で1792年6月12日に(モーツァルトの2倍の俸給で)ウィーン宮廷作曲家になる。

6日、プラハ大司教による戴冠の儀式。サリエリは「戴冠式ミサ K.317」(または K.337)を指揮した。
その日の夜、皇帝皇妃の臨席のもとに、モーツァルトの指揮で

が初演された。
これは夏から秋にかけて(ウィーン、プラハ)、皇帝レオポルト2世のボヘミヤ王即位戴冠式のために作曲が続けられていたもの。 作曲の期間が短く、台本もあまり良くなく、さらに作曲者自身の体が弱っていたため、必ずしも霊感豊かな作品にはならなかったといわれているが、この種の真面目な内容にはモーツァルトはあまり乗り気でなかったのが本当の理由ではなかろうか。 劇の内容は、ローマ皇帝ティトゥスが先王の娘や信頼していた部下に裏切られながらも、罪を悔いたこれらの人達を許してやる。 オペラを見た皇妃は、この音楽は「ドイツ人の汚物」だと言ったという。

さらに、プラハでは

も作曲しようとしたらしい。

20日、ウィーンに戻った。

日付がはっきりしないが、この頃、ダ・ポンテ

おすすめに従いたいのは山々ですが、どうしたらうまく行くでしょうか? 頭は混乱し、話すのもやっとのことで、あの見知らぬ人の姿を、自分の目から追い払うこともできません。 じりじりしながら私の仕事をせきたてるあの人の姿が、たえず私の目から離れないのです。 作曲している方が休んでいるより疲れないので、私は続けています。 もう最期の時が告げているのを感じます。自分の才能を楽しむ前に終ったのです。 しかし自分の運命は変えられません。何びとも自分の命数を数えられるものではなく、諦めが肝心です。 何ごとも摂理の欲する通りになりましょう。これで筆をおきます。 これは私の葬送の歌です。完成せずにおくわけにはまいりません。
という内容の手紙を送ったらしい。 「すすめ」とはロンドン行きのこと。 6月にその勧誘をうけていたが、「魔笛」作曲中なので承諾を半年先にのばして欲しいと返事していた。 「見知らぬ姿」とは「レクイエム」作曲の依頼人のこと。 全文イタリア語で書かれたこの手紙はベルリンの旧プロシャ国立図書館にあったという写しによって知られているだけ。 さらにモーツァルトが書いたものの写しであるという証拠もない。
ダ・ポンテは皇帝との関係が悪化し、(友人のイ・ソレールが「ペテルブルクに来ないか」と提案していたが)、ウィーンを去り、モーツァルトに「一緒にロンドンへ行かないか」と誘っていた。

28日

を完成。
これは3月初めに、フリーメーソンの仲間で、劇団を主宰するシカネーダーの注文を受け、5月頃から作曲に取り組んでいた。 このオペラにはメーソンの儀式や試練、あるいは象徴などか取り入れられている。 ヨーゼフ2世の後、レオポルト2世配下の秘密警察によりますます厳しくなり、モーツァルトの死後、このオペラは上演禁止になるだろうと噂されていた。 しかし予想に反して上演がふえ、1年後の11月3日には100回の上演があったという。 自筆譜は12段からなる横長の五線譜で、序曲31頁、第1幕190頁、第2幕210頁と膨大なものだが、パミーナとパパゲーノの二重唱などほんの数頁にわたって書き直しがあるだけで、あとはインクの染みをたらしながら一気に書き上げてあるという。

30日、ウイーンで、完成したばかりの「魔笛」が初演された。モーツァルトがピアノを弾きながら指揮をし、ジュスマイヤーが譜めくりをした。 この初演は、あまり成功とは言えなかったが、10月2日に再演され、人気は次第に上昇した。

30日パリでは、フランス国民議会が解散し、10月1日に立法議会が招集された。

9月には、成立のはっきりしない作品に、

がある。

29日〜10月7日、ウィーン宮廷楽団のクラリネット奏者シュタドラーのために

を作曲。 この「白鳥の歌」と呼ばれることもある曲は、1789年末にバセット・ホルン用のト長調協奏曲K.584bとして第1楽章がスケッチし始められていたものを、この年の9月末にシュタドラーのバセット・クラリネットのために書き改められた。

10月

1791年10月





12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31





ロイトゲープのために を作曲。

14、15日、妻へ

昨日6時にサリエリとカヴァリエリを馬車で迎えに行き、ボックスに案内した。 2人ともどんなに愛想がよかったか、お前には信じられないだろう。 僕の音楽だけでなく、台本も、何もかもひっくるめて、2人には大いに気に入った。 「これこそオペラというものだ。どんなに大きな祝祭にでも、どんなに偉い君主の前でも上演される値打ちがある。 こんなに美しい、こんなに気持ちのいい出し物は見たことがないから、これからもきっと何度も何度も観に来るだろう」などと言っていた。 サリエリはシンフオニアから最後の合唱まで、とても熱心に聴き、観ていたが、あの人の口から「ブラヴォー」とか「きれいだ」とかいう言葉を誘い出さない部分はひとつもなかった。 劇場がはねてから、2人を家まで馬車で送らせ、僕はカールと一緒にホーファーのところで食事をした。 それからカールと家へ帰って、2人ともぐっすり眠った。
これは現存する最後の手紙といわれる。 この後モーツァルトはバーデンに妻を迎えに行くが、そのときコンスタンツェは衰弱した夫の姿を見て驚いたという。

24日、ワイマールで、ゲーテがチマローザのオペラ「貧乏な興行師 L'impresario in angustie」をドイツ語に翻訳し、モーツァルトの「劇場支配人」の音楽をつけて上演した。 モーツァルトの「興行師」の方はすっかり忘れ去られていたが、そちらの方はかなり人気があったという。

11月

1791年11月

123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
282930



15日、自作目録に記載された最後の作品となる を作曲。 これはまた、生前に完成された最後の作品となる。 さらに、メーソンのための曲の中で最大。

18日、ロッジ「Zur neugekrunten Hoffnung」の新しい礼拝堂の落成式で上の曲を指揮し初演。 後にロッジはモーツァルト未亡人と2人の遺児のためにこの作品を出版したという。

この曲の付録としてつけ加えられていた

がある。 落成式で閉会の際に歌われ、そのとき、モーツァルトはテノール部を歌ったという。

20日、とうとうモーツァルトは病床につき、もう二度と起き上がれなくなった。

フォン・ヴァルゼック伯爵が自分の妻の命日に演奏するために、モーツァルトに作曲依頼していた

は完成できず、未完に終った。

なお、ケッヘル番号では、最後の作品である「レクイエム」の後に、モーツァル トが生涯に残した32曲の協奏曲作品のために書いたカデンツァをまとめた

を置いている。 作品を作られた順に並べることで整理しようとする「ケッヘル番号」であるが、これらだけは例外的な扱いとなっている。

12月

1791年12月



1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031
4日、モーツァルトの病状は悪化し、カトリックとしての最後を全うするために終油の秘蹟を授ける司祭が呼ばれたが、再三の要請にもかかわらず司祭はついに現れなかった。

妻コンスタンツェの妹ゾフィー・ハイベルの手紙

私は台所に立ち、ずっとモーツァルトのことを考えていました。 ランプは赤々と燃えていました。 私が灯りを見つめていると、突然その灯りが消えました。 まるで最初から燃えていなかったかのように。 私はしっかりしようと心に決め、モーツァルトの枕もとに行きました。 彼は『ゾフィー、来てくれてありがとう、ここにいて僕が死ぬのを見届けてくれ。もう舌先で死を味わっているところだよ』と言いました。 姉が、聖ペーター寺院の坊さんをよこしてほしいと頼みました。 私は言われた通りにしましたが、悪たれ坊主たちを行かせるのに骨を折りました。 日はすでに暮れていました。 ジュスマイヤーが枕もとにいました。 レクイエムの譜がふとんの上に置いてあり、モーツァルトが、自分が死んだらどうして仕上げるかを説明していました。 医者のグロセット先生は劇場で見つかりましたが、芝居がはねるまで来れないということでした。 ようやく来た先生がモーツァルトの火のような額に冷たい湿布をのせると、彼の意識が遠くなりました。 最後にしていたことは、レクイエムのティンパニーのパッセージを口ずさもうとすることでした。
5日、0時55分、モーツァルト死。 彼は35年10ヶ月と9日間この世にいて、そのうち約三分の一の10年2ヶ月余り旅していた。 あるいは一生のすべてが旅であったと言う人もある。

この日、彼と最後まで親しく、葬儀のすべてを取り仕切ったフリーメーソンの同志ヴァン・スヴィーテン男爵は宮廷の要職から解任された。
フォン・シュトリテッツ伯爵はデスマスクの型どりにかけつけ、自邸の蝋人形陳列室に置いて、人々を驚かせたという。

6日、ウィーン、オットー・ヤーンの手記

スヴィーテン男爵は葬儀の面倒をみることにし、未亡人のとぼしい懐具合いも考慮して、できるだけ簡単に安く上げようとした。 葬儀費用は(3等で計算して)8フロリンと36クロイツェル、それに霊柩車代が3フロリン。 6日午後3時、モーツァルトの遺体は聖シュテファン教会で最後の祝福を受けた。 激しいみぞれまじりの雨がたたきつけていたが、数少ない参列者(スヴィーテン、サリエリ、ジュスマイヤー、カペルム、ローザー、オルスラーなど)は傘をさして棺のまわりに立った。 やがて柩は馬に引かれ、シューラー・シュトラッセを通って、聖マルクス墓地に運ばれた。 モーツァルトの遺体が墓に下ろされたとき、誰も立会人はいなかった。

しかし最近の研究では、6日の天気は「弱い東風が吹く穏やかな一日」だったという。そして翌7日は嵐だった。 また、当時の葬礼規定によれば死者の埋葬は死後48時間以上経過していなければならず、早すぎる埋葬も謎である。 なお、聖シュテファン大聖堂の死者名簿には次のように記されているという。

1791年12月6日、第3等、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト氏。 オーストリア皇王室楽長にして宮廷室内作曲家。ラウエンシュタイン通り小カイザー館、970番地。
死因所見は急性粟粒疹熱。36歳。
聖マルクス墓地。料金8フローリン56クロイツァー支払い済み。馬車3フローリン。
そして遺体は、棺が15から20収容できる共同埋葬の穴に入れられた。 この日、モーツァルトと同じメーソンのロッジの会員であったホーフデーメルは、妊娠中の美貌の妻マグダレーナにカミソリで重傷を負わせ、自殺した。 夫人はモーツァルトと親しい師弟関係にあった。

10日、ウィーンの聖ミハエル教会で友人たちにより追悼ミサが行われた。 その費用の一部をシカネーダーが負担したという。 このとき「レクイエム」の一部が弟子フライシュテットラーの補筆によって歌われた。

14日、プラハでモーツァルト追悼ミサが行われ、町中の人が教会前の広場に集まった。

20日、ハイドンからフォン・ゲンツィンガー夫人への手紙

偉大なモーツァルトが死んでしまったことがもし本当なら(そんなことは望みもしませんが)彼を胸に抱けないのが残念でたまりません。 後世は100年たっても、これほどの才能を再び得ることはないでしょう。


「だが、200年経てもまだ現われていない」 (ランドン)

「人類の歴史の中で、おそらく最大の天才だったモーツァルトはこうして死んだ。彼の燃えつきた肉体が粗末な墓の中におろされたとき、想像もつかないような偉大な魂の遺骸がいま眠りにつくのだ、と考えた者は誰もいなかった」 (ヒルデスハイマー)


Home K.1- K.100- K.200- K.300- K.400- K.500- K.600- App.K Catalog

 
2009/08/04
Mozart con grazia