Mozart con grazia > 幻想曲と変奏曲 > 6つのピアノ変奏曲 2008/07/20
17 61 62 63 64 65 66 67 68 69 70 71 72 73 74 75 76 77 78 79 80 81 82 83 84 85 86 87 88 89 90 91 92
age 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35

K.180 (173c) 6つのピアノ変奏曲 ト長調

作曲 1773年秋 ウィーン

1773年7月14日、17歳のモーツァルトは父に連れられて3回目のウイーン旅行に出た。 帰郷するのは9月26日頃と思われているが、この短いウィーン旅行で父レオポルトは何も得ることはできなかった。 一説には、この旅行の動機はウィーン宮廷楽長ガスマン(Florian Leopold Gassmann, 1729-74, 当時44歳)が病気に倒れたことで、その後任に自分の息子を売り込もうとレオポルトが企てたものと言われている。 少なくともザルツブルクではそのような噂が広がっていたという。 第1回目のウィーン旅行(1762年、モーツァルト6歳)のとき、シェーンブルン宮殿で女帝マリア・テレージアや皇帝フランツ1世の御前演奏し、女帝から大礼服を賜った(右はそのときの姿を描いたもの)ことから自信過剰気味のレオポルトは今回のウィーン訪問で大胆にも女帝マリア・テレージアに謁見し、ほかの貴族たちとはまったく接触しなかった。 ザルツブルクの噂がウィーンに届かなかったはずはない。 当然のことながら、田舎楽師に過ぎないレオポルトのそうした直接的な行動を女帝は快く思わなかったであろうし、いくらレオポルトがガスマンの病気との関連を否定しようとも、女帝にはその魂胆が透けて見え、ますます胡散臭い人物として悪い印象だけが残ったと考えられる。 このことが、のちのちモーツァルトが独立した音楽家として活路を見い出そうとするとき、陰に陽に障害となってくるのである。 ガスマンは翌1774年に45歳の若さで他界し、ボンノ(Giuseppe Bonno, 1710-88)が後任の楽長に就任した。 そのときサリエリが宮廷作曲家になり、そして1788年にボンノの後任として宮廷楽長となったのである。 サリエリこそはガスマンによりその才能を認められて音楽の本場ヴェネツィアからウィーンに連れて来られた約束の人物であった。 だからこそ、レオポルトは一発逆転を狙って頂上作戦を企てたのかもしれないが、女帝マリア・テレージアにしてみれば、まったく身の程知らずの暴挙に等しいと感じたであろう。

この曲はそうした就職活動で滞在中のウィーンで作曲したと考えられている。 サリエリのオペラ「ヴェネツィアの市 La fiera di Venezia」のアリア「わが愛しきアドニス Mio caro Adone」の第1ヴァイオリン主題による。 そのオペラは1772年1月ウィーンで、11月マンハイムで上演されているが、その頃モーツァルトは見ていない。 この変奏曲の作曲のきっかけは不明であるが、このウィーン滞在中(1773年)に耳にする機会があったのかもしれず、上記のような状況のもとでモーツァルトの腕前を披露する目的があったとの想像もあり得る。

初版はパリのエーナ社から1778年に出ている。 そのとき「クラヴサンとフォルテピアノのため」と記されていた。 6つの変奏はすべてト長調。

演奏
CD[EMI TOCE-11557] t=4'43
ギーゼキング Walter Gieseking (p)
1953年頃
CD[PHILIPS PHCP-3673] t=8'20
ヘブラー Ingrid Haebler (p)
1975年11-12月、アムステルダム・コンセルトヘボウ
CD[SYMPHONIA SY-91703] t=8'48
アルヴィーニ Laura Alvini (fp)
1990年8月
CD[TOCE-7514-16] t=9'14
バレンボイム Daniel Barenboim (p)
1991年3月
[NAXOS 8.550611] t=9'28
ニコロージ Francesco Nicolosi (p)
1991年12月、ブラチスラヴァ


Home K.1- K.100- K.200- K.300- K.400- K.500- K.600- App.K Catalog