Mozart con grazia
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レクイエム ニ短調 (未完)
K.626

Requiem in D minor for 4 voices, 2 violins, viola, 2 basset horns, 2 bassoons, 3 trombones, 2 trumpets, timpani, bass, organ [ 作曲 ] 1791年7月〜死 ウィーン

モーツァルト自身の手で完成したのは冒頭の「入祭文」だけであり、あとは補筆である。

第1曲「入祭文レクイエム」は仕上がっていたが、次の「キリエ」は低音部、トランペットとティンパニ部が空白。 そのあとは、おもな旋律や主題を含むパートがスケッチとして残されただけ。そして有名な「涙の日」の最初の8小節で途切れた。
10月8日の手紙で「作曲に専念し、夜の1時半まで書いていた。昼食のあとすぐ帰宅して、オペラ(魔笛)に行くまでの時間にまた書き続けた」と、バーデンで保養中のコンスタンツェに伝えている。

モーツァルトの死後、弟子のジュスマイヤーにより完成されたことはよく知られている。 また、作曲依頼者はフォン・ヴァルゼック伯爵で、妻の命日に演奏するためということも。 彼は写譜した後、自分の作品として、1793年12月14日ウィーンのノクシュタット教会で自らの指揮により演奏した。 ただし、スヴィーテン男爵によりそれより早く、1793年1月2日ウィーンのヤーン邸で、モーツァルトの作品として演奏されている。 さらに近年、ワルター・ブラウンアイスによって、モーツァルトの死後すぐ(5日後)ミハエル教会で追悼ミサが行われ、弟子フライシュテットラーの補筆により「入祭文」と「キリエ」が演奏されたことが分かった。

cf : 海老沢著「モーツァルトは宇宙」(音楽の友社 1990) pp.245-268
cf : 海老沢敏「モーツァルトは祭」(〃 1994) pp.130-158

ジュスマイヤーの補筆に対してその稚拙さや非モーツァルト的書法から不満が噴出し、1971年ドイツのヴィオラ奏者バイヤーにより修正版が出た。 それより以前に1965年ウィーンの研究家ノヴァクにより総譜が編集され、第1巻は未完のままのもの、第2巻はアイブラーとジュスマイヤーによる補筆完成版となっていた。 そしてこの刊行後きびしい「レクイエム論争」が続けられていた。この曲に筆を入れた人物をリストすると以下のようになる。

  1. フランツ・ヤコブ・フライシュテットラー (1761-1841)
    モーツァルトの弟子で、「キリエ」のオーケストレーションをかなり担当した。それがモーツァルトの死後すぐ、1791年12月10日に、追悼ミサで用いられたらしい。

  2. ヨーゼフ・レオポルト・アイブラー (1765-1846)
    ハイドンの弟子で、師の死後コンスタンツェから曲の完成を依頼され、自筆譜に直接書き込んで「セクエンツィア」のオーケストレーションを行った。 未完の「ラクリモーサ」には手をつけられずに投げ出した。

  3. フランツ・クサヴァー・ジュスマイヤー (1766-1803)
    モーツァルトの弟子。コンスタンツェは、アイブラーが投げ出したので、ジュスマイヤーに依頼し直した。 彼はアイブラーのオーケストレーションを書き直し、さらに、「キリエ」と「オッフェルトリウム」のオーケストレーションも行い、「ラクリモーサ」を完成させ、 「サンクトゥス」以下を創作した。

  4. フランツ・バイヤー
    ミュンヘン大学教授で、ジュスマイヤーの補筆を根本的に見直し、洗練された作曲技法による版を1980年に出版した。

  5. リチャード・モンダー
    イギリスの研究家。ジュスマイヤーの補筆部分を切り捨て、ジュスマイヤーの手に渡らなかったモーツァルトのスケッチをもとに「ラクリモーサ」をまったく新しく書き直し、1988年に出版した。

  6. ロビンズ・ランドン
    しかしそれは行き過ぎとして、「セクエンツィア」はアイブラーの補完を採用し、「ラクリモーサ」以下はジュスマイヤーのものを、というように同時代の補筆を尊重した版を1990年に出した。

  7. ロバート・レヴィン
    アメリカの音楽学者、ピアニスト。1991年「シュトゥットガルト・ヨーロッパ音楽祭」で演奏。

どれにしても(たとえ稚拙といわれるジュスマイヤーのものにしても)死者モーツァルトのレクイエムとして強く心を打つものがある。 未完成ながらすべての部分が彼自身の手になる「ハ短調ミサ曲」のように未完のまま残った方が良かった(オカール)という意見も多くある。

モーツァルトは晩年にバッハやヘンデルの作品と出会ったことで、バロック様式の伝統に回帰する傾向を見せたことはよく知られている。 それはまた作品を弟子たちとの共同制作で仕上げることも可能にした。弟子たちが師の示す骨格の上に伝統的な技法によって肉付けすることはバロック時代の伝統的なやり方だった。 たとえばオペラ「ティト」のオーケストレーションを弟子ジュスマイヤーが行ったように、この曲もまた同じように作られようとしていた。 「キリエ」の部分では、師モーツァルトが合唱と通奏低音を書き、トランペットとティンパニはジュスマイヤーが、ほかはフライシュテットラーが書いた。 「セクエンツィア」以下も同様で、管弦楽パートには師はスケッチを残すだけだった。したがってモーツァルトの早すぎる死だけがこの曲の補筆を促したのではない。 彼はこの曲を自分自身の死のためにと意識していただろうが、バロックの伝統に従って技量のある職人集団が師の指示のもと共同で一つの作品を仕上げるというやり方のお陰で、 個人的な問題を超越して「普遍的な本質に迫る作品」となったという見方がある。

【バイヤー版】 【モンダー版】 【ランドン版】 【編曲版】
[Home|Top] 2002/09/29