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| * 教会音楽小品 |
[ 作曲 ] 1775年1月か2月 ミュンヘン?
アレグロ、158小節。 全曲中 Misericordias Domini(神の慈悲を)Cantabo in aeternum(永遠にほめ歌おう)という詩文だけが11回展開反復される。 オペラ・ブッファK.196をミュンヘンで上演したとき、選帝侯マクシミリアン3世から「対位法様式による音楽も聴いてみたい」と求められたのに応えた作品。 ザルツブルクの宮廷作曲家エーバーリン のモテット「主よ、汝は祝福し給えり Benedixisti Domine」を借用し、Cantabo in aeternum の対位法的な主題に発展させ、ホモフォニックな Misericordias Domini の主題とが見事に交錯し展開している。 多声音楽についての自分の力量を自信をもって示したものになった。 なお、ヴァイオリンの旋律に、のちのベートーベンの「第9」の合唱の有名な「歓喜の歌」と似た所がある。
モーツァルトはザルツブルクの先輩作曲家エーバーリンやアードルガッサー、 そしてミハエル・ハイドンたちの多声音楽については十分研究していたし、上の Benedixisti Domine は既に1773年に写譜していたものであった。 田舎町ザルツブルクから飛び出したい気持ちで一杯だったモーツァルトが選帝侯の求めに応じて、「待ってました」とばかりに自分を売り込むこの機会を生かすべく、持てるものを惜しみなく注ぎ込んだ自信作であった。 ミュンヘンから帰郷する直前の1775年3月5日、宮廷礼拝堂で初演されたが、そのときマクシミリアン3世がどのように批評したかは分かっていない。
ザルツブルクに戻り、自分の才能を思う存分発揮できないままに田舎の宮廷 音楽家の日々を悶々と過ごしていた20歳の青年モーツァルトは、14歳のときに(1770年3月)ボローニャで教えを受けたマルティーニ神父に手紙(全文イタリア語)を書いた。 その1776年9月4日の手紙ではこの奉献歌を作曲することになった経緯を伝え、「大急ぎで書き上げ、次の日曜日のミサに間に合うようにした」と説明し、批評をあおいでいる。 そして同時に「ザルツブルクでは音楽は恵まれない状況にある」ことを詳しく書き、「大司教がじきじきに行う荘厳ミサですら、長くても45分以上にはできない」と嘆いている。 ただし、サインはモーツァルトのものであるが、手紙自体は父レオポルトが書いた。 そもそも、お人好しのモーツァルト自身は(この曲に限らず)自分の作品を簡単に人の手に渡す癖があり、そのことでレオポルトの心配は絶えなかったのである。 とにかく、ここでも父レオポルトのお陰でこの曲の成立についての確かなデータが後世に残ることになった。
モーツァルト自身はとっくにボローニャでの経験を忘れていたに違いないが、父が代筆した手紙に対して1776年12月18日、マルティーニ神父から次のような賛辞の返事があった。
率直に申し上げてこの作品はたいへん気に入りました。ここに現代音楽が要請するすべてのもの、つまり美しいハーモニー、巧みな展調、ヴァイオリンの適切なテンポ、声部の自然な流れと心地よい展開があります。ボローニャで初めてチェンバロの演奏を聴いたあの日から、あなたが作曲においても長足の進歩を遂げたことを嬉しく思います。
後に誰かが管(ob*2、hr*2)を追加しているが、モーツァルトは1777年にアウクスブルクの修道院で初対面の院長(その男をモーツァルトは「世界一のお人好し」と言っている)に数曲のミサ曲(K.192, K.220)と一緒にこの曲の楽譜を貸していることもあり、作曲者の知らないところで売買されたこともよくあったからであろう。 世界一のお人好しの男がそう簡単に修道院の院長になれるであろうか。 また、その修道院の修士たちともすぐ「まるで20年以来の知り合いのように」仲良くなったが、それはベーズレ(マリア・アンナ・テークラ)が前もってどんな人物かモーツァルトに話してくれていたからだという。 この有名なモーツァルトの従姉妹はどんな女性だったのだろう。 悪人ではなかったと思うが、1784年に(彼女が26歳のとき)ある高位の聖職者を父とする私生児の母となり、83歳の長寿をまっとうした彼女の人生は興味深い。 とにかく、その修道院ではミサ曲以外にリタニアもモーツァルトから手に入れようとした。 モーツァルトが「持っていない」と答えると、「いや、あるはずだ。隠しているのだ」と探したという。 それに対してモーツァルトは馬鹿正直に「ここには持ってきていないが、ザルツブルクの父が持っているから手紙で送ってもらうように頼んでください」と答えている。 ベーズレは彼らの手引きの役割を果したのだろうか。 その気はなかったとしても結果的にはそうなってしまったといえる。 このときの件で、彼女は見返りに何かをもらったとしても不思議ではない。 そのとき彼女は「総監督」の役を演じていたとモーツァルトは(彼一流の冗談かもしれないが)父に伝えている。 さらに、この曲については「僕が真っ先に返して欲しいと望んだので、無事に戻りました」とも報告している。
若い女性に弱く、お人好しの作曲家ではあるが、この曲は選帝侯の宿題に答えた習作などという域を遥かに越えて、さらに16世紀の多声音楽の理論家マルティーニ神父の耳も越えて、「レクイエム(ニ短調 K.626)」に通じる深みのある作品に仕上げてしまった。
1791年9月プラハで行われたレオポルト2世の王戴冠式の際、サリエリがこの曲を演奏指揮した。
[ 参考 ]
[ 演奏 ]
| PHILIPS 422 753-2 |
| COCO-78065 |
| AUDIOPHILE CLASSICS APC-101.048 |