Mozart con grazia > 年代記 > 1788年
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1788年

32歳

1788年1月

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1月

3日、「ピアノ・ソナタ第18番」(ヘ長調、K.533)を作曲。 この第3楽章は1786年に作られたアレグレットK.494。 それに2つの楽章を加えて、1つのピアノ・ソナタを完成し、ウィーンのホフマイスター社から初版。

14日、宮廷の舞踏会のために「田園舞曲・雷雨」(ニ長調、K.534)を作曲。

23日、「田園舞曲・戦い」(ハ長調、K.535)を作曲。 この頃ユーゴスラビアまではトルコ領であり、オーストリアとは衝突が絶えなかったので、そのタイトルは話題となった。 ただし曲の内容はまったく陽気なダンス音楽で、トルコ行進曲も現われる。

27日、「6つのドイツ舞曲」K.536)を作曲。

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2月

10日、ヴェネツィア大使アンドレア・ドルフィン邸で演奏会。イタリア歌劇団のシュテファーノ・マンディーニとアンナ・モリケッリが歌い、モーツァルトがピアノを、そして当時18歳のヨゼファ・ミュルナー嬢がハープを弾いた。

24日、レオポルド2世の戴冠式の祭典のために「ピアノ協奏曲第26番」(ニ長調、通称「戴冠式」K.537)を作曲。

26日前、エステルハージ伯爵邸での演奏会用に、テノールのアダムベルガーのためにアリア「われは汝に従わん」K.537d)を作曲。

26日、ウィーンのエステルハージ伯爵邸で大演奏会が催され、エマヌエル・バッハ作カンタータ「キリストの復活昇天」がモーツァルトの指揮により演奏された。 この演奏会は古典音楽保護のためスヴィーテン男爵が企画したもので、3月4日にも同邸で再演され、さらに7日にはブルク劇場でも演奏されたという。

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3月

4日、アロイジアのためにアリア「ああ、情け深い星たちよ、もし天にいて」K.538)を作曲。

5日、俳優バウマンのためにドイツ軍歌「われはカイザーたらん」K.539)を作曲。 トルコとの戦争に合わせて士気を鼓舞するために。 3月7日に初演された。

7日ブルク劇場で予約演奏会。

19日、「ピアノのためのアダージョ」(ロ短調、K.540)を作曲。 誰のために書いたか分かっていない。 何かと組み合せてソナタにするつもりだったのか。

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4月

2日、3曲の弦楽五重奏曲ハ短調(K.406)、ハ長調(K515)、ト短調(K516)をプフベルクの所で予約販売する(4ドゥカーテン)広告を出したがさっぱり売れなかった。それで6月23日にも再度広告を出した。

24日、オッターヴィオ役のモレラのためにアリア「私の安らぎは彼女にかかって」K.540a)を作曲。 「ドン・ジョヴァンニ」への追加アリア11番。

28日、二重唱「この小さな手に免じて」K.540b)を作曲。

30日、ドンナ・エルヴィラ役のカヴァリエリのためにレチタティーヴォとアリア「何というひどいことを。あの恩知らずが私を裏切った」K.540c)を作曲。

1788年5月



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5月

7日、ウィーンで「ドン・ジョヴァンニ」初演。いくつかの新曲を加え、国立宮廷劇場で行われた。このときアロイジアがドンナ・アンナを演じた。 ウィーンでの上演は年内に15回されただけで、以後モーツァルトの死後まで二度となかった。

5月、アンフォッシのオペラ「幸運な嫉妬」のウィーンでの初演のために、挿入曲としてアリエッタ「御手に口づけ」(ヘ長調、K.541)を作曲。 「ドン・ジョヴァンニ」のウィーン初演のとき主役を歌ったフランチェスコ・アルベルタレリのために。

6月

この頃プフベルクに(まだ8ドゥカーテンの借りがあるが、さらに)「来週まで100フロリン」借りたいと手紙を書き、それに対してプフベルクは100フロリン送金した。 返金の当てにしていた弦楽五重奏曲(K.406, K.515, K.516)の予約者が少なかったので、発表は翌年まで延ばされた。

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16日、ライプツィヒにおける「ドン・ジョヴァンニ」の初演。

17日、プフベルクに「1年ないし2年の期限で千グルデンか2千グルデンを相応の利息つきで」借りたいと手紙を書いた。それに対してプフベルクは早速200グルテンを送った。

同日、ヴェーリンガーシュトラセ(ヴェーリング通り)に引越す。

22日、プフベルクの援助に感謝して「ピアノ三重奏曲第5番」(ホ長調、K.542)を作曲し、彼の家で演奏した。 また8月には手紙で姉ナンネルに送り、ミハエル・ハイドンに弾いて聞かせるよう書いている自信作。

23日、ウィーンで「ドン・ジョヴァンニ」が上演。

25日、「ウィーン新聞」に「五重奏曲の予約が非常に少ないので出版を1789年1月まで延期する」という音楽情報が載った。
予約金は4ドゥカーテンまたはウィーン価で18フローリン。 入手先はプフベルク(ホーエン・マルクトのザリエッツ支店)。

26日、自作目録に以下の曲が記入された。

27日、プフベルクに多額のお金を長期に貸りたいと手紙を書いた。目的は不明。

29日、長女テレジアが病死。

1788年7月

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7月

10日、ピアノとヴァイオリンのためのソナタ第43番(ヘ長調、K.547)を作曲。 自作目録には「ヴァイオリンを伴う初心者用のクラヴィアのためのソナチネ」とあるが、皮肉なことに高度な演奏技術と表現力が要求され、初心者には難しい。

10日以後、アレグレットの主題による6つのピアノ変奏曲K.547b (54))を作曲。

14日、ピアノ三重奏曲第6番(ハ長調、K.548)を作曲。

16日、カンツォネッタ「もはや見当たらず」(変ロ長調、K.549)を作曲。

21日、聖シュテファン教会で、コンスタンツェの姉ヨゼファ(30才)がヴァイオリニストのホーファー(33才)と結婚した。

25日、交響曲第40番(ト短調、K.550)を作曲。 動機は不明。 さらに1791年4月頃クラリネットを書き加え、オーボエのパートを変更し、サリエリの指揮により音楽芸術家協会の音楽会で演奏されたかもしれない。

1788年8月




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8月

10日、交響曲第41番(ハ長調、通称「ジュピター」、K.551)を作曲。 この曲に「ジュピター」と命名したのはザロモンである。

11日、歌曲「戦いの門出に」(イ短調、K.552)を作曲。 作詞者不明。 3月5日に作曲されたドイツ軍歌「われはカイザーたらん」K.539)と同様に、トルコとの戦争出陣のためか。

24日、コペンハーゲン王立劇場の団員がヴェーリング通りのモーツァルト宅を訪問し、即興演奏に感動した。 そのとき、妻コンスタンツェは楽譜書きのための鷲ペンを削り、当時4歳の息子カール・トーマスがレチタティーヴォを歌いながら走り回っていたという。

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9月

2日、この日まとめてカタログに記入されたカノンがある。

27日、経済的な危機を何度も救ってくれたウィーンの富豪プフベルクのために弦楽三重奏のためのディヴェルティメント(変ホ長調、K.563)を作曲。

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10月

24日、「ドン・ジョヴァンニ」が上演されたことがツィンツェンドルフ伯爵(当時49才)の日記に書かれている。 伯爵はフランス語で詳しい日記(現在オーストリア国立古文書館所蔵)をつけていた。

27日、ピアノ三重奏曲第7番(ト長調、K.564)を作曲。 これもプフベルクのためらしい。

30日、自作目録に「2つの田園舞曲」(変ロ長調・ニ長調、K.565)を記入した。 ただし、その楽譜は失われてしまい、発見されていない。

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11月

スヴィーテン男爵(当時55才)の依頼を受け、ヘンデルのオラトリオを編曲して、「アキスとガラティア」(序曲と2幕18曲、K.566)を作曲した。 モーツァルト自身の指揮により、宮廷料理官イグナーツ・ヤーン(当時44才)の家で初演された。 さらに、年末の12月30日には、エステルハージー伯爵の邸宅で、スヴィーテン男爵による指揮でも上演された。 なお、この作品を皮切りに、スヴィーテン男爵はモーツァルトにヘンデルのオラトリオの編曲を依頼するようになり、モーツァルトは1789年3月に「メサイア」(K.572)、1790年7月に「アレクサンダーの饗宴」(K.591)と「聖セシリアの祝日への讃歌」(K.592)を編曲することになる。

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12月

6日、宮廷劇場での舞踏会のために「6つのドイツ舞曲」K.567)を作曲。 この頃、経済状態が悪く、宮廷作曲家としての年俸800グルテンは家賃と同額で、彼自身が「僕の仕事に比べれば多すぎるけれど、僕の才能に比べれば少なすぎる」と語ったと伝えられる。

24日、「12のメヌエット」K.568)を作曲。

30日、エステルハージ邸で、モーツァルト編曲のヘンデルの「アキスとガラテア」(K.566)がスヴィーテン男爵の指揮により再演された。


87年か88年(ウィーン)と思われているカノン(番号なし)

タイソンにより1788年頃とされたキリエがある。 ウィーン定住後は教会音楽を書いていないというこれまでの定説が変わりつつある。


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2010/03/27
Mozart con grazia